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そして僕等は夜に溶ける  作者: 林 りょう
CASE3《とある女子大生の場合》
16/44

強敵








 タクトが綾乃との食事を終え事務所に帰り着いたのは、眠らない街もまどろんでしまう深夜だった。

 二時間ほどの席では、相手が綾乃というのもあってかとても穏やかに過ごせたが、騒がしすぎる一日だったせいで疲れがひどい。そんな重い身体には、ゆったりと着た和服が心地良かった。

 綾乃が手ずから着付けをし、その際に似合っていると嬉しそうに微笑む姿はとてもくすぐったかった。どんな高価なものよりも、ずっと貴重に思えたのはどうしてなのか。自分が受け取るだけでその表情を見せてくれるのならば、遠慮する気持ちが消えても悪くは思えない。

 けれどタクトには、そんな感情を抱く理由が分からなかった。

 それ以外でも、どうしてだろうと首を傾げる。綾乃の微笑みは、まゆみの依頼を受けた後、夕方頃に事務所を訪ねてきた人の雰囲気ともどこか似ている気がしてならなかった。相手はとても自分本位な態度で接してきて、追い返すのにひどく苦労したというのに。思い出すだけで、溜息が漏れるほど。

 だというのに、正反対が相応しいと分かっていても、それでも似ていると思う自分の印象を否定出来ない。

 丁寧に着物を脱ぎ、片付けてから、シャワーを浴びに行くタクトの脳裏には、まゆみとその人の顔が浮んでは重なり合う。彼女達もまた似ていた。今度は内面や雰囲気ではなく、顔そのものが。

 扉が上品にノックされたのは、騒がしさがやっと消え、タクトが一息も二息も吐いて仕事机に腰かけていた時だった。

 正直言えば、今日はもう誰にも会いたくないとさえ思っていたが、返事を保留にしようと決めかけた短い間隔で催促するようにノック音が続く。諦めるのは早かった。


「どうぞ……」


 いつも以上に声に覇気が無くても仕方がない。本人にしては珍しく、興味を持った依頼にすぐさま取り掛かれないほど、心労を抱えていたのだから。

 錆びついた扉がほとんど鳴かない、ゆっくりとした動作で開かれた先にいたのは、ふっくらとした体型の生気のない顔をした女性だった。一礼し、後ろ手で扉を閉める。


「こちらへどうぞ」


 ソファーへと案内する間、女性は一言も発しなかった。黙ってタクトを見つめ、それはお茶を出すまで続いた。

 きつく結ばれた薄い唇にどこかひっかかりを覚えつつ名刺を差し出す。受け取った相手は、内容のいかがわしさに少しばかり目元をつり上げていた。


「本日はどのようなご用件でしょうか?」

「……あなたがここの責任者で?」


 どこか失望混じりな抑揚の声もまた暗く、生まれてこの方笑ったことが無いと言われても驚かないだろう。

 タクトが肯定すると、名刺を返してきながら、女性はハンドバッグから一枚の写真を見せてくる。

 その瞬間、タクトの呼吸が止まった。

 そこに映っていたのは、大型犬につまらなそうな表情でちょっかいを出している小野寺まゆみで間違いなかった。他人の空似ではないだろう。だから、目の前の女性の唇にひっかかりを覚えたのだ。彼女はおそらく、まゆみの母親。けれど一体何の用なのか。

 それはタクトにとって予想外な言葉だった。


「この子を探して欲しいんです」


 告げられたことが意外すぎて、思わず聞き返してしまいそうになった。探すもなにも、連絡を取ろうと思えば直ぐに取れる。まゆみが問題の塊だというのは、正しかったらしい。

 タクトは居住まいを正し、自分の側に出された写真を押し戻す。女性が怪訝そうにするも、内心感じ始めた億劫さは微塵も浮かべなかった。

 たとえばまゆみの依頼を受けていなければ、会ったことがあると話したかもしれないが、彼女が顧客となった以上は違和感を感じさせることさえタクトのプライドが許さない。例外があるとすれば、長谷部一葉の一件のような、タクトの立場を悪くしかねるものだけだろう。

 そもそも、既に依頼を抱えてしまっている。悩む必要がない。


「申し訳ございません。お引き受けしかねます」

「……あなたはお仕事を貰い受ける立場にありますよね」


 断られるとは思いもしなかったのだろう。タクトに何を期待していたのか、失望からさらに苛立ちを含み始める。

 タクトも相手の言い方に、僅かながら気分を害した。せっかく仕事を与えてやるのにと言われている気がしてならなかった。


「あいにく、既に依頼を抱えてます。見ての通り一人で細々とやってるので、お受けしたところでご満足のいく結果を残せるとは到底……」

「この子が私の娘で、行方不明の子供を母親が必死に探していると知っても、別の依頼を優先されるんですか?」


 女性がまゆみの母親であるのは当たっていたらしい。が、態度があまりに押し付けがましかった。

 タクトの目から、ただでさえ低い熱が一気に失われていく。

 それでなくとも今日は、人一倍我慢が効くはずのタクトを刺激しすぎる事が十分起こっていたのだから、沸点は通常の三分の一以下となっている。

 まゆみの母親が年上で、どこかヒステリックな気質を感じた為、問答無用で追い出すことはしないが、依頼を受けることも絶対にあり得ない。


「僕にとっては、どの依頼も平等ですから。それにお言葉ですが、行方不明ならば警察に行かれた方がよろしいかと」

「自分の子供が消えたと、周囲に広めろとおっしゃりたいんですね。それで夫から非難される私の身にもなってください」


 だが、まゆみの母親は手ごわかった。色々な角度から、タクトの神経を削ってくれる。彼女は、自分が話している言葉の意味を理解しているのだろうか。

 その様子から、まゆみが自分の意思で家出をしていることは二つの意味で察するが、隠したいと言いながらタクトにあっさり言ってくるのがまた不可解だ。分かったところで、気持ちの良いものでもない気はする。

 こよなく好きなコーヒーも、さすがに喉を通り胃に到達する度にジワリ――不愉快な感情と化学変化をし始めた。毒のように広がり、今はまだ頭痛にも似た鈍痛ですんでいるが、しばらくすれば身体をくの字に曲げたくなるだろう。

 確かにこれは、自分を持ったまま相手をするには難しい。感じている不調のように、気力を蝕んでいきそうだ。


「では、他を当たることをお勧めします」

「私はあなたにお願いしているんです」

「失礼ですが、僕よりも腕の良い方はいくらでもいるかと」


 タクトはうっかり、まゆみを尊敬しそうになった。たった数分でもうんざりするほどの相手と一緒に過ごすなど、自分には到底無理だ。とりあえず、明日から彼女の依頼を解決するまで、事務所は閉めようと誓った。

 今日一日で、一年分の仕事をしている気にさえなってくる。


「けれど、この街に一番詳しく、顔も広いのがあなただと紹介を受けてます」


 一体誰がそんないい加減な事をと苛立ち、ふと、ここが最後なのではとタクトは思った。もしかして、一日探偵事務所を巡っていたのかと聞いてみると案の定、まゆみの母親はたらい回しにされていたようだ。

 悲しいかな、そうしてきた同業者の心情を察する。ただし、だからって自分が泥をかぶってやるつもりもない。


「この街にいると分かっているのなら、駅前に行ってみられては? 簡単に見つかるかもしれませんよ」

「私に寒空の下、風邪を引けと……。さっきからなんですか、馬鹿にして!」


 そっと胃の上に手を置き、刺激しないようやんわりと愛想を浮かべかけ、あまりの馬鹿馬鹿しさでその気さえ失う。

 これ以上はもう、まゆみも例外に当てはめたくなってくる。それはぎりぎり耐えるも、料金の上乗せぐらいは許されそうだ。どうせ払われる金の出所は、ご大層なものではないのだから。

 そうだ、母親にまゆみが今頃何をしているのか教えてやるのも面白いかもしれない。思考が徐々にらしからぬ方向へと進んでいることを、タクトは気付いていなかった。

 まゆみはさっき言った通り、夜の駅前で何日か立っていれば簡単に見つけられるだろう。ただし、遭遇するタイミングを間違えば、母親が発狂する建物が立ち並ぶ場所へ、誰かに腕を絡めながら向かっている途中だったりするかもしれない。

 あるいは事後。自分より年上の相手とそこから出て来る娘を見た時は、この母親にもなるとその場で倒れそうだ。

 なのに何故だろう。背中をざわつかせる感情的な声をどれだけ相手にしても、どこか憎めない部分もある。まゆみの母親が事務所を訪れた時の表情が、おそらくそう思わせるのだろう。

 けれどタクトには、母親というものが分からない。彼女を何件もの探偵事務所へと歩かせる理由もまた同じく。


「では、いくら出せば受けて頂けますか?」

「一度お受けした依頼を蔑ろにするような相手に、娘さんを探させたいと?」


 一瞬の無言を、タクトは逃さなかった。

 名刺を裏返すとそこに誰かの連絡先を書きこみ、改めてまゆみの母親へ渡す。そこには、ある名前が添えられていた。


「それを持って警察署に行けば、長嶋という刑事が何かしら力になってくれるかと」

「ですから警察は……」

「少なくとも僕よりは、あなたの苦労を軽くしてくれると思いますよ」


 なにせその人は、この街の父とも呼ばれているのだから。それは言わなかったが、あのどっしりとした物腰の刑事が、どうにか落ち着けてくれるのは確かだろう。

 家出したのが未成年ならまだしも、相手は既に成人している。このせいでまゆみのしている事が公になったとしても、そこはタクトのあずかり知らぬところ。それこそ自己責任だといえるはずだ。

 疑わしい表情をありありと浮かべるまゆみの母親は、それでもタクトよりは信用がおけると思ったのか、黙って名刺をバッグにしまった。


「お力になれず、本当にすいません」

「もういいです。帰りますから」


 そうして、やっとのことでお引取り願えたわけだが、見送って扉を閉めた瞬間、タクトは額に手を置き天井を仰いだ。

 もはや言葉も出ないらしく、普段であればすぐさま洗って片付けるカップを流しに放置すると、適当なコートをはおってマフラー片手、戸締りもそこそこに事務所を飛び出す。

 その際、うるさくざわついていたのは、積み重なった苛立ちだけだったのだろうか。本当に、それだけだったのか。

 シャワーを浴び、溜息混じりに一日を振り返ったタクトには、結局どれだけ考えても答えは出せない。

 母親から逃げるように家出し、そのくせ寂しいと見ず知らずの相手へ温もりを求めるまゆみも、世間体を気にするくせに、娘を心配するあまり生気を失っている母親も。彼女達はなぜ、同じ方向、同じ速度で相手から遠ざかろうとするのだろう。どう考えても、距離は開かず縮まりもしないだろうに。

 それが親子というものならば、きっと自分は一生関わることができない気がする。そう思いながら、タクトは髪を乾かすのもおろそかに、ベッドへと潜り込んだ。

 タクトには、母親という存在がどこにもいない。異性はすべからく女だった。父親もそう。自分が何故生まれたのかさえ知らない。

 ただ……。そう、ただ――


「どうやってできたのかだけは、忘れない」


 落ちる寸前、呟かれたものの意味の全てを知る者は、この世にタクト以外いない。

 だとしても、この世界のどこかに浮ぶ星の一つは理解していて、柔らかい笑みを罪深く浮かべているはずだ。

 会いたい。その願いは声に乗って届くことなく、寝息の中に沈んでしまった。

 タクトがまゆみの探すソウゴさんなる男性を見つけ出すのは、それから二週間と二日後のこと。その日は雪が深々と降り、街はホワイトクリスマスだと、とても嬉しそうに色とりどりの明かりで輝いていた。









 

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