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そして僕等は夜に溶ける  作者: 林 りょう
CASE3《とある女子大生の場合》
14/44

眩暈




 どんな土地でも夜の繁華街というものは変わらないなと、マフラーに顔を埋めるタクトは、色とりどりの明かりに照らされていた。

 週末ともなると、飲食店が立ち並ぶ道ではサラリーマンが行く手を阻み、終電を過ぎればいくらか光は薄まるが、そうなると今度は別の一角が賑わいを増していく。


「寒っ……」


 タクトは耳が冷えすぎて頭痛を感じながら、両腕を掴んで背中を丸める。そのくせコートの下は薄手のインナー一枚なのだから、寒くても当たり前だ。

 それでも我慢し、待ち合わせ場所として良く使われる広場の街灯にもたれ、蜘蛛の巣のように分れる道の一本を見続ける。その先に用事のある者たちが、ごった返してではないがそれでも耐えず消えていくのを、ただただ白い息で追いかけていた。二人組が殆どで、大抵がカップルだろう。

 時折、サラリーマンの格好をした男性が近くを通れば、そちらに視線を向ける。中でも、四十代前後に目をやっているようにみえた。


「なんだか、久しぶりに探偵らしいことしている気がする」


 震えながらぼやく足元に、誰かが蹴ったのか原型を留めていない缶が転がってきた。あまりのマナーの悪さにごみ箱が撤去されてから久しいが、いたる所にポイ捨てされた吸殻があり、お世辞にも改善されたとは言えない。

 視線が落ちたと思うと、タクトはあっという間に彼だけが住人となれる静寂を作り出していた。


「似てる。あの夜の方が、もっと寒かった気はするけど」


 吐息を色付かせる代わりに、細かい霧状の雨が降っていた。確かそうだ、タクトの目蓋が閉じる。

 行き交う人はもっと多く、年齢も低く、煩いくせに軽い喧騒だった。雨など気にしない、むしろ濡れることを楽しんでいる少し危ない気配は、その頃のタクトには無縁すぎるもの。今の自分からすると、とても可愛いものだ。マフラーの下で笑みが零れた。

 やっと身体が追いついてきて様になり始めた制服は、水分を得てひどく重かった。そうでなくとも、今日みたいな夜の喧騒に初めて立ったあの日は、頭も心もズルズルと引きずるしか出来なかったけれど。

 補導されるのも時間の問題だったはず。あまりにも場に溶け込めず悪目立ちしていて、好奇の視線と共に二度ほど絡まれたりもしたのだから。

 霧雨はとても鬱陶しかった。何もかもを徐々に湿らせ、蝕むようにゆっくりと髪や睫の先に落ちにくい水滴を作る。身体の芯から冷えるまで歩いた結果が、人のいるところだったのも皮肉に思えた。助けを求められる人など、誰もいなかったというのに。

 そこまで考え、タクトは自分の目的を思いだした。現在の自分がここに居る理由を。

 視線をあるべき場所に戻し、なおかつ違うと思考に対して投げ掛ける。


「子供だったせいなら、むしろ仕方ないって言えるのかな……」


 呟きは自身の耳にすら辛うじて届くようなか細さで、次の吐息にすら負けていた。

 今だからこそ思える。補導された方がまだ、陽の下に出れただろう。求めていればきっと、どうにかしてくれる存在はあったはず。誰もいないと決め付けたのは、他ならぬ自分だった。

 何もない空と自分を遮った安物のビニール傘、唐突に差し出された手が奇跡に思えたのはそのせいだ。リングが二つ、人差し指と小指で光る右手には、親指の根元から横に一本の傷跡が伸びていて、触れれば裂けてしまいそうな気がして(・・)ならない。

 タクトは慌てて何度もまばたきを繰り返したが、うまく現実に帰ってこれなくなっていた。思い出なはずの情景が、どんどんと今まさに経験していることのように浮かんでくる。

 雨だけではない重みで俯いていた顔を驚きで上げると、目の前で広がるのは満面の笑顔。楽しそうで、まるで自分を見つけたことに喜んでくれているように思えた。

 ふわりふわり。絶対に落ちることなく、延々と空中を漂っていそうな雰囲気は、警戒を微塵も抱えさせてはくれない。

 いつだって待っているばかりな日々の中、こうして誰かに求めることを自分は知らない。知っているだけでも羨ましいのに、あろうことかそれを向けてくれた存在は、頬に雨以外の何かを落とさせた。

 あの人は言う。僕たちはそこから始まった。


「そう、」

「タクト?」

「っ……、……綾乃(あやの)……さん?」


 タクトの内を染めた、強くはないが啄ばむようにじわじわと襲う恐怖と、悲しみを混ぜた心細さ。哀愁で片付けられない感情は、心の糸が緩んだ隙を狙って夢の中に引きずりこもうとしたらしいが、凛として華やかな声がそれを寸でのところで引き止めた。

 目に映るのはまちがいなく今であり、頬にそっと当てられた手は温かい。


「冷え切っているじゃない。どうしたのかしら、こんな場所で」

「仕事で、少し……」

「にしては、心ここにあらずだったわ」


 そう言った女性は落ち着いた中にも遊び心を混ぜた立派な着物を召していて、タクトの頬や手のあまりの冷たさで心配そうに眉を下げる。佇まいからは普通とは言い難い雰囲気が醸し出されているが、その様子はまるで子を心配する母とも見てとれた。

 まだ靄がかかる頭で懸命に自分を取り戻そうとするタクトは、女性の背後で黒光りする車を目に入れながら、密かに安堵の溜息を吐く。彼女が来てくれて助かったと。


「何か困ったことでもあった?」

「いえ。その……、突然眩暈がして」

「それは大変ね」


 手を揉んで温もりを分けてくれながら、曖昧な言葉に深入りすることなく微笑む女性に、タクトは今日に限らず常に頭が上がらない。そんな存在は彼女以外に居ないといえる。

 そのくせ、司たちよりも付き合いが長いというのに名前しかタクトは知らないし、綾乃が何者か踏み込んでもいけない。それは彼女の背後の車からの威圧感が十分物語っていた。


「今日は相当冷えるらしいから、そんな薄着ではだめよ」

「厚着は嫌いで」

「知ってるわ。でも駄目。お仕事も大切かもしれないけど、今日は帰りましょう」


 洗練された仕草の中には、若さだけでは到底叶わない色香が多分に含まれ、おっとりとした口調の諭しはそれでも抗えない何かがある。

 綾乃は、タクトがソワレで働く二つ前の店からの付き合いだ。なにより、今の事務所が入ったビルの所有者でもある。どうしてか随分可愛がってくれ、けれども客であった頃から彼女とは、一度も関係を持ったことがない。

 曰く、お節介やきなのだそうだ。


「それでも嫌だと言うのなら、お手伝いするけれど?」


 浅く頷きながらも渋い表情のタクトへ、嗜めるように言ったのが最後だった。異論はないと両肩を軽く持ち上げ、今度はしっかり顎を動かす。

 綾乃が関与すれば、それこそ一日足らずでほとんどが解決させられてしまうだろう。けれどそれでは意味が無い。

 「ご飯は食べた?」その質問には首を振ると、嬉しそうに顔を綻ばせ「それじゃあ一緒に食べましょう」と、今度は答えも聞かずに手を引かれる。


「久しぶりじゃない? あなたと食事なんて」

「そうですね。でも、このままの格好では綾乃さんにつり合わないので、一度事務所に寄って頂けませんか?」


 近寄り難い車に押し込まれれば、中はひどく温かかった。窓は曇り、外を見ることは出来ない。

 無表情でどう見ても堅気には感じられない運転手が、タクトに軽く頭を下げて車を発進させた。その反動で柔らかいシートへ身体が沈む。


「そうそう。あなた、誕生日が出来たんですってね」

「いつも思うんですけど、一体どこでそんな情報を仕入れてるんですか……」

「あら、可愛いタクトのことなら私、何でも知っているつもりよ」


 耳を澄ましてやっと聞こえるほどに静かなエンジン音や、揺れのほとんどない穏やかな車内。車を運転するからこそ良く分かる、洗練された技術に眠気を感じる。

 最もしまっておきたい記憶が溢れたせいで、ひどく疲れていた。綾乃の声が睡魔をより強くし、苦笑も上手く零せなかった。

 そういえば、探偵をしようと思い事務所となるテナントを探していた時も、どこで知ったのか、綾乃がとつぜん連絡を寄越してきたのだとタクトは思い出す。この人はもしかしたら知っているのかもしれない。

 隣を盗み見たつもりだったが目が合い微笑まれ、カーブによって身体へと掛かった力に任せ、細い肩へ頭を乗せる。

 綾乃の短めな指が、猫のように柔らかい髪を撫でた。


「丁度良かったわ。得意先で、あなたに似合いそうな着物を見つけたの。和食でいいかしら?」

「綾乃さんには十分良くしてもらっているのに、これ以上は……。毎回言ってますけど、僕はもうホストでもないんですし」


 気を抜けば眠ってしまいそうになりながら、鼻腔一杯に落ち着いた香りを吸い込む。

 綾乃の前では気取る必要が無い気がした。頭を使い、距離を測ることだって、彼女の前では無駄だと思う。

 それでも、さすがに何かを買い与えてもらうのは遠慮したかった。しかも綾乃の好む着物となると、さすがのタクトも目を丸くする額になりかねない。

 けれどタクトは分かっていなかった。貢いでもらえることをただ喜ぶ安っぽい男ではないことが、綾乃をより上機嫌にさせていることを。彼女は全てに於いて、それこそ目に入れても痛くないほどタクトを大切に思っていて、常に気を向けている。


「あら? 贈り物をするのにお仕事は関係ないでしょう。それに残念。お着物は買ってすぐ着れるものではないの」

「……知っています。いつお会いしても素敵な装いのあなたが、妥協するはずないですよね」

「ふふ、嬉しいわ。どう理由を付けて渡そうかと思っていたけれど、素敵なお友達がいて良かった」


 綾乃の所有するマンションの一つにでも向かっているのだろう。一時間は掛かるだろうか。車に乗った時点で、おっとりしているようで押しの強いこの女性に太刀打ちはできまい。

 されるがまま髪をもてあそばれながら、タクトの目蓋は落ちていく。どうも最近、内側の眩暈がひどいと思った。

 正しいとずっと勘違いしていた環境が無意味だったと気付き、新しい自分を得てからしばらく。変わってきたということだろうか。やっと――


「綾乃さん……」

「なにかしら。困ったことがやっぱりあるの?」

「会いたい人がいるんです。でも、絶対に会えない。……どうしたらいいと思いますか?」

「難しいわねぇ。諦めるか、忘れるか。でもやっぱり、どうして会いたいのかが一番重要かしら」


 気付けば子供のような質問が出てしまった。慌てたところで無かったことにはならない。

 すると綾乃は、子守唄でも口ずさんでくれているような心地良さで、タクトの吐露を聞いてくれる。いや、流してくれた。

 どうしてなのだろう。会えなくなった原因を作ったのは、他でもない自分だというのに。その想いは年々、募ってしまう。理解するにはまだ何かが足りないのだろうが、少なくとも今日、上手く抑え込めないほど切望してしまうのは、受けた依頼がおそらく影響している。

 人探しの依頼は何度も経験し、解決してきた。ただ、今回の会いたいという願いは、どこか自分のものと似ている気がする。

 美化された記憶が、どうやったって交わらないだろう想いが。そして実際に会えるとなると、一番に心を支配するのが恐怖であろうことだって同じ。


「別れがうまく、言えなかったんです」

「そう……。それは困ったわね」

「向こうも、別れを言ってくれなかった。だから僕は、未だにあの人の手を離せない。離したくない」


 傷跡が痛々しい小さな手が脳裏に浮ぶ。出会った人の中で誰よりも冷たい温もりの、綾乃とは正反対な感触は、それでも自分にとって全てだった。

 そうやってポツリポツリ、初めて他人に内側を晒すタクトの唇は、心なしか青ざめ震えている。頬に落ちた髪がそれを必死に隠し、夢うつつな意識を正気に戻そうとするが、この時にはもう自分が何を喋っているのか把握できていなかった。


「ほんと、あなたは他人を守る術は十分身に着けたのに、いつまでたっても自分を可愛がってあげられないのね」

「そうですか?」

「そうよ。きっとその人を、守ってあげたかったのね。でも駄目よ。もう会えないのなら、あなたが手を離してあげないかぎり、彼女(・・)はどこへも旅立てない」

「……あの人が消えたら、僕には何も残らない」


 綾乃の頭を撫でる手が止まった。それと同時に、静かな寝息が車内で響き渡る。

 人前で寝入るなど、相当参っていたのだろう。頬に手を移動させると温かく、とりあえず目的地に着くまで寝かせてやろうと、綾乃は運転手へ少しゆっくりめに走るよう命じた。

 そして呟く。


「もし本当にそうなら、誰があなたと一緒に居たがるのかしら」


 困った子。その言葉はまさしく、息子を案じる母だった。

 けれどタクトは、今まさに感じている温もりにそれを当てはめる術をもたない。綾乃もまた、タクトに向ける多くの気がかりが母性だと気付いたのは最近だ。

 偽りの親子と言うことすら出来ない関係はきっと滑稽だろう。だとしても、今にも消えてしまいそうな儚さの成分を知ってしまうと、見なかったフリは出来そうもない。


「でもまあ、彼女を求めていないだけ、一安心かしら?」


 いつになったら、自分自身が求める相手と出会ってくれるのだろう。手放したくないと強く想う誰かが早く現れるように。綾乃の願いは、麗華がタクトへ向けたものと言葉は違えど変わらない気がする。

 タクトの体温を奪った凍てつく空気はより鋭さを増す。明日の朝には、息だけではなく世界が白く染まるのだろう。

 今夜の風は、再会を望む一人の女の複雑な想いが潜んだ胸の刻む鼓動の音で、ひどくざわついていた。







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