厄日
「あなたの依頼を受ける気はない」
「ちょっと、まだ内容すら話してないんだけど!」
「聞く気すらないと言っているのが分かりませんか?」
穏やかな空気が似合う事務所ではめずらしく、剣呑なものが流れていた。
偶然居合わせた司は、こうなっても仕方がないといった様子で事の成り行きを傍観しており、同時に帰り支度も済ませていた。
きっぱりと拒絶を示しているのは勿論、この事務所の探偵であるタクト。憤慨しているのがさきほど尋ねてきた客だ。
ここのシステムは道楽ゆえに特殊で、タクトが客を選ぶ。ただ探偵を求めているだけであれば、元より看板すら出していないので胡散臭さが半端なく、渡される名刺だって名前からして偽名としか思えない。
けれど、裏を返せば、だからこそ表立って誰かに明かせない秘密を抱えた者が多く訪れる。なにせその筆頭が探偵本人なのだから。自ずと同種のタイプが集まってきても不思議はない。
とはいえ、自分もその枠に入れられるのは勘弁だ。司はそう思いながら、この客が来るまでの長閑な時間を思い出していた。
今日は珍しく食事以外で用事があり、そもそもタクトの方からも、時間がある時にと呼び出されていた。半ば押しかける形で事務所に来ることは多々あれど、招かれることが滅多に無いせいで警戒しながら現れた司を、タクトはいつものように一杯のコーヒーでもてなす。
そして、唐突なくせに自然な流れでポツリと零した。
「ありがとう、だそうですよ」
たったそれだけ、脈絡も説明もない言葉だったけれど、司にはそれが意味するところを瞬時に理解できた。目の前の友人を見れば、白々しく窓の外を眺めていて笑ってしまう。
これ以上蒸し返すつもりも、質問したところで答えるつもりもないのだろう。その優しくない優しさのおかげで、清々しい気持ちだけが芽生えた。流れのまま、胸ポケットからてのひら大の箱を取り出し、タクトへ強めの力で投げつける。
「これは?」反射的に受け取りつつも首を傾げるタクトへ、「誕生日プレゼントだ」司は気だるそうに答えコーヒーを啜る。
「僕、誕生日なんて教えてませんけど」
「だから勝手に、俺と同じにした」
「……だとしても大分遅いですね」
教えたかどうか悩むのではなく、教えていないと断言するあたりがタクトらしい。そのせいで出会ってからこれまで何もしてこれていなかったが、そこは譲歩するしかなかったのだろう。負けた気がして中々踏ん切りがつかなかった司も、三戸優花の一件で今更だと考えを改める機会を得ての行動だった。もちろん、礼も兼ねているが。
包装のされていない箱にはタクトの好むブランド名が記されていて、開けると中には趣味の良い派手過ぎないデザインの腕時計が入っていた。
「麗華さんから情報を仕入れましたね」
「おい。そこはよー、普通に感動しとこうぜ?」
「僕の気を引いてどうするんですか」
可愛げのない反応を見せつつも、可愛い弟分は嬉しそうに時計を取り出しさっそく付け替えている。何を考えているのか普段はまったく悟らせないくせして、こういうところは分かりやすい。いかにも年上に好かれそうな反応だろう。
司にそんなことを思われているとは露知らず、タクトは限られた人物にしか絶対に見せない、柔らかくも幼い印象を感じさせる笑みで礼を言った。
「お前こそ、俺を落とそうとしてどうすんだよ」
脱力するだけで本気で危ないわけでは当然ないが、物を贈ってここまで満足感を与えてくる奴も初めてだと、心底タクトが男で良かったと感じた。
そうやって仲が良いのか悪いのか、麗華が居れば気持ちが悪くなるほど仲が良すぎると言うであろう光景を繰り広げていた二人。その邪魔をしたのが、大きめなノック音だった。
司が首を後ろに倒している間にタクトは立ち上がり、自分のカップを仕事机の方に移動しながら返事をする。
しかしながら、それが終わらない内に扉は軋み、上品さの欠片もないヒール音が室内に響いた。
「……最近、質が下がってきてる気がする」
何がとは言わないまでもぼやいたタクトの心中を察しながら、司は自分の方につかつかと歩み寄ってくる相手をカップ片手に眺める。成人したてであろう落ち着きのなさを映した容姿は、彼からすればまだまだ女の子と呼べた。
客で相手をしたことがあったとしても、さすがにそこに手を出すほど司とて飢えてはいない。
しかし、自分へ寄ってくるとなると、何かしらあったのだろうか。心当たりが全くないせいで黙って受身態勢を取っていると、タクトが胡乱な視線を向けている。
さすがにそれは不名誉極まりないので弁明するため口を開いたが、それよりも先に頭上で結ばれていた真一文字の唇が解かれた。
「あなたが噂の探偵? ふーん……、意外。聞いた話だと、もっとひ弱そうだったのに」
途端、今度はタクトの薄い唇が引き締まり、このまま司に面倒事を押し付けようとする気が満々だ。視線の質を飄々と変えながら逸らす。
慌てて否定しようとするが、相手は断りもなく司の隣に座って肩に手を置く。
「ねえ、探偵さん。実は私、お願いがあってきたんだけどー」
品がない。その様子を見ながら、タクトは遠慮なくそんな印象を抱いていた。
頼めばやってくれて当然、甘えるのが仕事。後先考えずに行動していそうで、大学生だろうか。だとしても、常識的な礼儀すら持っていない。
そのくせ身に付けているのはそれなりの値段がするものばかりで、司への態度から出どころにだいたいの見当がついた。
「あー、悪い。今日はあれだ。臨時休業なんだよ」
「でもほら、こうしてわざわざお客様が出向いてるんだからさあ、話ぐらい聞いてよー」
触れてくる手をどけながら、まさしくタクトが苦手とするタイプだと見て取った司は、否定よりも追い返した方が良いと判断して嘘を告げる。どう考えても招き入れたい様子ではなかったので、自分で対処した方が良いと思ったからだ。
でないと最終的に、タクトは相手が客だとしても、薄気味悪い笑みを携えながらダンマリを決め込む。そうなると今以上の火の粉が、無視の苦手な司へと多大に降りかかるだろう。
しかし、今回の来訪者は相当に性質が悪かった。態度と、そして何より不躾さが。
「こう見えて私、探偵さんが昔働いてたお店に知り合いが居てー。色々、教えてもらってきたんだぁ」
「ちょっと待て」
「探偵さん、無害そうな顔して実は……。って感じなんでしょー?」
静止も聞かず小声とは到底思えない声でそう囁いた途端、司は苛立ちながら額に手を当てた。指の隙間からは、爽やかさを絵に描いたような表情で女の腕を掴むタクトが見える。それで怒っているのだから、逆に怖さと迫力が増す。
今の発言は、完全な敵に回す行為だった。温和な人間ほど怒らせると怖いと言うが、タクトの場合はそれがぴったりと当てはまる。
こいつの怒りを買って、後日ニュースで相手を見たとしても驚かない。司の認識は流石に度を越えている気もするが、付き合いが濃い彼がそこまで言うのだ。あながち過剰でもないのかもしれない。
ただ、短気な司と違い、タクトに対する禁忌はただ一つ、過去に限られる。そこを詮索したり突っついたりしない限り、攻撃的な怒りを買うことはまずないだろう。
「……何、あんた」
「お引取りください」
だからこそ、普段は羊の皮の中でぬくぬくと眠っている狼を呼び起こしてしまった以上、この客がタクトに話を聞いてもらえる可能性は万に一つもなくなった。
相手は今になってやっと、タクトの存在に気付いたらしいが、彼はそんなことなどお構いなしに腕を引っ張り立ち上がらせる。怪訝な様子で見つめられた司は「探偵はそっち」と、一言で誤解を訂正して後に続いた。
驚くべきは、勘違いした挙句失礼な発言をしていた、自覚のない素晴らしき能天気さだろう。空気を読もうとすらしない相手は、自分の認識が間違っていたことに気付くと、何がおかしいのかケタケタと笑う。
「まじで? えー、でもー、なんか頼りなさそぉ。ねえ、お兄さんがお願い聞いてよ」
「なんで俺が。そもそもお願いってなんだよ。普通に依頼って言え」
「依頼したらお金取るでしょー? 私ってば、胡散臭いのにお金払わない主義だしー」
タクトの手を放置し、残った腕を司に絡める。さぞ良い気分だろう。見た目だけでも十分良い男な二人なのだから。
ただし、これにはフェミニストな気のある司も、思わず「馬鹿女……」と零してしまった。
タクトが目配せをしてきたので、ここからの相手は任せる。鮮やかな手付きで拘束から抜け出て、距離を取る直前に耳元で「ご愁傷様」と囁くが、おそらく相手は理解していないだろう。
そうして出来たのが、殺伐とした空気。タクトの全てを拒絶する態度で徐々に腹を立てる相手は、気付かぬ内に扉の前まで追い込まれていた。
けれど未だ、自分が相手を怒らせたことを分かっていないのか、なおもそれを助長させる。
「変態趣味なおばさんから、えげつないことされてたんでしょ? 危ないことにも手ぇ出してたらしいし、このまま警察に駆け込んであげても別に良いんだけどー」
「お引取りを。たとえあなたがでっち上げで訴えたとしても、残念ながら僕には関係無い」
タクトが冷笑すら浮かべなくなり、さすがに口だけの餓鬼の身を案じてしまう。警察に行かれたところで、司であっても痛くも痒くもない。せいぜい長嶋に宥められ、追い返されるだけだろう。まあ、それすらさせる気はないが。
司は傍観していた態勢から強制退場させることに決めた。せっかくの良い気分が見事に台無しだ。
「あー、分かった。貧乏だから、私のお願いすら聞けないのか! 笑えるー」
「いい加減気付けよ、馬鹿女。ここはお前みたいな餓鬼が来るような場所じゃねーの。まじで笑えねー」
「ちょっと、離してよ!」
「タクト、後は俺が追い出すから。良いだろ?」
聞き捨てならない愛称で、また別の火が燃える相手を無視し、司はタクトと目を合わせる。任せるというよりは勝手にしろと言っている態度を受け取り、そのまま喚く物体を引きずっていく。
頭の弱い女はまだ可愛く思えるが、頭の悪い女に同情はしない。タクトを貧乏人と言ってのける鈍感さは、面白いギャクだとは思うが。
二人ともあからさまなブランドをあまり好まないせいで、一目で分かる高級感は元々ない。反面、その落ち着きは、見る側を見極めさせてくれる。質も価値も変わらないのだ。目に見える規準がなければ判断できないような相手であれば、むしろ彼等とつり合えないだろう。
だとしても、先ほど司が贈った時計に気付けば一目瞭然だというのに。「夜にでも店に顔出せー」司は気晴らしをさせてやろうとそう告げ、暴れる相手を外へと放りながら後ろ手で扉を閉めた。
その瞬間、事務所内から何かが蹴り倒される音がして、溜息と共に堪えていた怒りが一気に爆発する。
「なんで私がこんな扱い!」
「おい、馬鹿女。お前、まじでふざけてんじゃねーぞ」
タクトは繊細ゆえに面倒くさい。安定していてもらわないと、周囲の方が気が気じゃなくなるというのに。威圧されやっとのことで状況を理解出来たらしい相手は、それでも尚、おもいきりしかめっ面をしていた。
司はせっかくセットしてある髪を豪快に掻き、背中が静かなことを気にしつつ、目の前の子供に言い聞かせる。自分も成人したてはこんなだったのだろうかと、少しばかり怖くもなった。
「俺が今日、居たから良かったけどな。お前、二度とタクトの前に顔を出すな」
「意味分かんない!」
「分かんなくて良い。とにかく、お前のような馬鹿が相手するには、タクトみたいなのは大物すぎるって言ってんだよ」
「はあ? あんたも何様?」
これは埒があかない。
早々に見切りをつけた司の脳裏には、誰よりも頼りがいのある人物が浮んだ。目の前の相手には不憫だが、タクトを怒らせた以上容赦する必要はない。
今なら連絡が取れるか。質問には答えず、携帯を片手に逃げ出さないよう腕を掴む司へ、さらに頭を悩ませることが起こったのは、彼が今日見た星座占いでの運勢が最下位だったからなのだろうか。
「あの……」
第三者に誤解されて当たり前な状況をばっちり目撃された上、困惑気味に掛けられる声。ここぞとばかりに馬鹿女がやらかそうとするが、意外にも動じなかったのは相手の方だった。
「そこって、探偵事務所ですか?」
「あぁ、そうだけど」
「あなたが噂の探偵?」
「いや。探偵は中でご立腹中」
馬鹿女と同年代らしいが、落ち着き具合には雲泥の差がある。ただ、司の腑に落ちなかったのは、最後の言葉にまるで理解出来た様子で原因へと一瞬視線をやっていたことだ。
そして、二人に対してはこれといって言及せず、その人物は扉の前へと足を進めた。
二回、三回。桜色の爪が綺麗な手によって生まれたノック音に、反応は返ってこない。
「あー……、依頼か何か? だったら出直した方が良いと思うぞ」
「でも、ここの探偵は一度に一件しか依頼を受けないんでしょ? 最低一週間も時間がかかるって言うし」
「よく調べてんな」
「お願いするなら当然じゃん」
言葉遣いは年上に対してなっていないが、それでもその心構えは素晴らしい。特に見習って欲しい相手へ視線をやるも、彼女は現れた第三者の顔を怪訝に見つめているだけだった。
これはどちらも自分が対処しなければならないのだろうか。ディスプレイに表示されている連絡先を指が変えようと動く。
「中に居るんだよね?」
「一応な」
「ノックしたって言い訳通じる?」
「微妙なとこだなー。あ、お前、入るなら止めはしないけど、一つだけ忠告しといてやるわ」
それを止めたのが女の低めな声だった。
これが相手なら大丈夫かもしれないと司は判断して、大人しくなった馬鹿女を引っ張りながら指を向ける。その手の中にある携帯は、呼び出し中となっていた。
「中の探偵相手に、一週間以上前のことを蒸し返さない方が良いぞ。特に今日は」
「大丈夫。たぶん会ったことないし」
そうしてもう一度ノックをした後、扉の奥へと消えた。
不思議な奴だなと思いながら、繋がった先に司は意識を移す。
「麗華。この前おまえ、最近怒り概のある奴いないってぼやいてたよな?」
『なによ、突然』
「いやさあ、タクトを怒らせた手に負えない女がいてな。俺よりおまえの方が良い薬になりそうだと思ったんだよ」
寝起きの不機嫌さたっぷりな声が、司の話によってさらに倍ほど低くなる。店に連れて来い。その後に聞こえた切断音は、自分の身に振りかかることであれば、恐ろしくてたまらないだろう。
タクトも自分も、心強い味方が居るものだ。変なところで麗華のありがたみを感じる司であったが、その暢気さも馬鹿女が上げた声によって消えてなくなる。
「あ……、思い出した。さっきの女、前におじさん相手にちょっかい出した時に一緒に居た子だ」
「……ちょっかいってまさか、金かすめたりとかじゃないよな」
「あったりぃ。良く分かったねー」
さきほどの連絡をなかったことにできないか、司が真剣に悩んだのは言うまでもない。彼にとってこの日は間違いなく厄日だった。