来客
木枯らしも吹き終わり、吐く息はすっかり白に染まった。道行く人々が下を向いて歩くようになる季節は、そろそろ仕事や私生活を忙しなくさせる。
しかし、タクトに流れる時間はそれでもやはり穏やかで、服装に至っては季節感すら危うく漂わせていない。首元に巻く大きめのマフラーだけが辛うじて、細い身体に冬を教えていた。
仕事の方は相変わらず自由気まま。変わったことといえば司の誕生日パーティーをきっかけに、ソワレへ気軽に顔を出せるようになったことぐらいだろうか。
あれから数日後、タクトはとある依頼を一件断っていた。意外であり、笑ってしまうある意味面白いものではあったが、探偵として報酬を貰うことがはばかられる内容だったからだ。
それは低く重い雲が太陽を完全に隠し、昼間でも明かりが欲しい昼間のこと。タクトはその日も、のんびりと事務所で寛いでいた。扉は珍しく叩く者の戸惑いや焦りを一切伝えず、静かに微笑み来客を告げる。
出迎えたタクトは気付かれない程度に驚きを浮かべ、どう挨拶するべきか悩みながらソファーへと案内したところで、相手が先手を打つ。
「以前、街でお会いした時にお話はしていませんけど……。自己紹介は必要ですか?」
少しばかり嫌味の込められた言葉だったが、それがタクトのコーヒーへのこだわりを前に味を鈍らせることはなかった。ただ、高圧的ではないにしても我の強そうな態度が、場合によっては面倒事に繋がるかもしれないと思わせる。
タクトは自分も向い側に座ると質問に答えを出す。
「いいえ。ですが、逆に僕はした方が良いですね」
「出来ることなら」
名刺を取り出し、テーブルの上を滑らせる。相手が受け取る様子を眺めてから、改めて口を開いた。
「こんな場所で細々ながら、しがない探偵をしてます。タクトです」
「名前からして、いかにも怪しげな感じですね」
「ありがとうございます。それとも、司さんの友人と自己紹介する方が正しかったでしょうか」
こんなにもはっきり堂々と胡散臭いと言われることがなかったので、不快感よりも新鮮さが勝る。浮んだ微笑は自然なものだった。
「それで?」とタクトは首を傾げた。
「今日は一体、どのようなご用件でしょう。三戸優花さん」
「心当たりがあるはずですけど」
全体的にスレンダーな美人は、ただでさえ手の掛かる友人を中心に、タクトの周囲を騒がせた一件の中心人物その人だ。
三戸優花はタクトのコーヒーを褒めながら眉を顰める。それはタクトが身辺を調査したことを知っていると告げていたが、文句を言ってくるにしては些か日にちが経っている。司の恋騒動は既に終わった事として片付けられていて、それは一応は失恋したと言うのだろう本人も同じ。
誕生日パーティーの翌日には司から、三戸優花と連絡が取れなくなったと聞いている。心当たりがあるかと聞けばあると一言。麗華の予言は当たりすぎていて、残念ながら恐怖しか感じなかった。
「僕としては、馬鹿な友人の厄介事を解決してやりたかっただけですよ。自分の持ってる力を使うのは当然のことでしょう?」
「その割には、直接私に何かしてくるわけじゃなかったですよね」
優花の相手をしながら、タクトは静かにある事に気付いていた。司は根本的に気の強い女性が好きなのだろう。麗華を動物的なものに分類するとすれば、優花はまた違って知的な感じではあるが。それでも二人共が同性に敵を作りやすいタイプなのは変わらない。
けれど、言葉と態度とは裏腹で、真っ直ぐタクトを見てくる視線は、薄暗い中麗華と眺めた泣きそうな笑顔を浮かべていたとは思えないほど、憑きものが落ちたようにすっきりしていた。
優花はタクトの考えを聞きたいらしく、何を話して欲しいのか曖昧だからと作った無言に食い下がる。根比べをして時間を過ごすのは勘弁したく、タクトはとりあえず先ほどの言葉を疑問として受け取った。騙そうとしていることが分かりながら、どうして友人を助けようと直接的な行動に出なかったのかと。
「正直に言いますが、僕が思うに騙される方が悪いことも少なからずあるかと」
「信じていただけでも?」
「冗談を。信じたかっただけでしょう? その時点で、そこには疑念が存在しています」
優花はタクトの言葉に唇を噛んだ。
タクトは介入すべき境界線を真実に置いていただけだ。元より司本人が持ってきたお願いだったのだが、邪魔をすると言いつつもどう片付けるかは本人が決めるもので、被害が精神的なものに留まるならば傍観するつもりだった。もちろん、だとしても限度は存在するが。それは麗華とて同じである。
「そういえば……。街でもあなたと一緒に居た綺麗な人から、パーティーの終わりに話しかけられました」
「派手で背の高い金髪の?」
唐突に話がその麗華について変わり、タクトは少しばかり何をやらかしたのだろうと不安になった。ただでさえ破天荒という言葉そのものだというのに、あの日はその行動に拍車が掛かっていたのだから。
それに麗華は、優花に対してあまり良い印象を持っていない。だから主役であった司から離れ、タクトの傍に居る時間の方が多かった。誰にも知られないよう全力で隠す部分を暴いているタクトにとっては、行動を見ていれば結構分かりやすかったりする。
けれど、予想に反して表情を崩した優花の声は穏やかだった。
「名刺、頂いたんです。あなたのとは違って凄い鮮やかな、ど派手なのを」
「麗華さんの名刺は飛びぬけてますからね」
「お店を紹介されちゃいました。どうせだったら、世界の半分を掌握するぐらいでいろって。その時にバレてたんだって気付いたんですけど、誰も怒らないんだもん。拍子抜けです」
そうしてうって変わり、態度まで変える。それが本来の三戸優花という人間だったのだろう。勝気でどちらかといえば男まさり。
タクトも麗華が〝らしい〟行動を取っていたことに驚くと共に、嫌いだと態度で取りながら放っておけなかったらしい不器用さを笑ってしまう。
確かに、これまで幾人ものホストを騙して貢ぐどころか本気にさせ、貢がせていた優花はある意味そっちの才能に溢れている。だからといって、あの立場で勧誘するのは驚きだ。やはり女性は強い。そう思わされる。
ただ、その強さを別の方向へもっていってしまう場合もあった。それが優花の自殺してしまった姉のような人だ。想いと現実の境目が薄れ色々なものが壊れた結果、自分をも失ってしまうようことは、愛に死んだといえば悲話になれるのかもしれない。けれど、どれだけ綺麗な言葉で誤魔化そうとも、少なくとも彼女はその感情を元に地獄へと堕ちただけに過ぎない。
タクトが調べ上げた情報によれば、ホストに騙され借金を背負ってまで金銭を貢いだだけでなく、相手に強要されるがままドラッグにまで付き合っていたようだ。
優花もそのせいで、色々と苦労を負った。それでも彼女にとって姉は、自分と違っておしとやかで女らしい、優しくて大切な家族だ。そんな人を貶めた相手に復讐しようと考えたのは、本人にとっては普通の流れだった。
ただ、標的にすべき張本人を優花は見つけることができなかった。その理由をタクトは知ることが出来たけれど、言うつもりはない。その方が身の為なのだから。
「司さんも、麗華さんも、常に割り切っているんですよ。だからあんなにも真っ直ぐでいられるんだと思います」
「まるで自分は違うと言っているように聞こえますけど」
だとしたらこれから説教をされるのだろうか。まさか、目の前の相手が感情的には感じられない。そう思った優花にタクトが見せた表情は憂いだった。脳裏には麗華の言葉が思い出される。
「僕は逆で、常に沈むことにしてますから。それに、さっきも言った通り、騙される方も悪いと思っていますので、司さんには怒りましたよ」
何度かデートをし、店に行くだけだった優花には、司に強い発言を出来ることがどれだけ凄いことなのか分からず、驚きはあまりない。
それでも、悪役になりきろうとしていた身にとっては、自分がしてきたことを知られながら誰にも非難されないことは痛かった。特に司がくれたものは、この先思い出す度に罪悪感を呼ぶのだろう。
「まさかここにきて、こんなにもお人好しな人たちと会うなんて思いもよらなかった」
「僕たち三人はこの街で、いい大人なくせに自由奔放すぎると良く言われますから」
自分の場合は年上な二人と違ってもう少しだけ、茶目っ気を持っていても許されたいけれど。おどけたタクトに優花は笑った。
「そういえば……」そろそろカップの中も冷たくなり、目的のほとんどを果たした優花は、最後に一つ残されている依頼について話を切り出した。
「噂といえば、お仕事についてでとても面白いものを聞いたんですけど」
「まあ……、看板も出さず趣味が強いので。人間、そういった謎めいた雰囲気に弱いですからね」
タクトは否定も肯定もせず、勝手に流れたでまかせだと言いたげな態度で肩を竦める。
それでも優花にとっては十分興味深く、なおかつ噂が生まれた原因の最たるものはタクト自身にあると思った。司や麗華もこれまで出会った中にはいない独特な人間だったけれど、異質が似合うのはタクトだけだ。
日本人とは違う血が混じっているからこそ持ったのであろう灰色の目の奥には、自分が抱えていたものが遠く及ばない次元の何かがきっと存在する。それとも言っていた通り沈み続ければ、いつしか心の色が瞳にも宿ったりするのだろうか。
まさか。優花は与太な事をと、その考えを吹き飛ばす。
「辿り着けるのは、愛の先に限られます?」
「と、言いますと?」
愛の先に辿り着ける探偵事務所。そんな馬鹿げたもの、普通の大人は鼻で笑って済ますだけだろう。それでも根強く囁かれ続けるのは、一番にそういった話が大好きな女子高生が居るからだが、彼女達の高い声がまるで何か力を持ったかのように、その場所を求めて止まない者達の心に届くせいだ。
そして、半信半疑でもそんな探偵に会う為に足を運んで扉を叩き実感してしまう。
人を魅了するというのは、きっとこういうこと。噂はただの噂に過ぎないのかもしれないが、タクトは本物だというそんな不可解な答えを出しながら、優花は日常であれば恥ずかしくてたまらない発言を喉から通した。
「恋の先……。まあ、たぶん私ではなくあなたの友達のになりますけど」
かつてはその言葉に一喜一憂し、翻弄されていたというのに、気が付けば口にするのも憚られる切なさばかりが目立つものに変わっている。それが大人になるということならば、面倒な感情だと思いながら、優花はタクトの反応を待つ。
どう見ても夢見がちな相手には思えなかったので、呆れられたらどうしようかと焦ったりもしたが、タクトは二度ほどまばたきをしてから至って普通に返答する。
「あいにく、僕は二つの違いがあまり分からないので。それに、いつだって何かを案内しているつもりはありません。依頼に対して間に立つのが仕事なだけですよ」
あまりに現実的すぎて少しがっかりしたと言ったら、それこそ笑われてしまうだろう。頭に花が咲く乙女など柄にもない。
だとしても、普通に探偵をしているだけでそんな噂が流れるわけがない。優花にとって、特定の人間にこれほど興味を持つなど初めての経験だった。気が付けば問い掛けばかりが口を出る。
「じゃあ、あなたにとて愛って何?」
「さあ……。たったの一文字ですが、それが示すのは一種類ではないみたいですね」
「溺れるぐらいだしね」
流されてばかりで手ごわく、自棄気味に零したものは、タクトに対して不思議なほど効果を発揮した。控えめではあったがツボに嵌ったらしく、咳払いをしても笑ったことは誤魔化せない。
面白い事を言う。そんな表情を映した時の目は、これまで以上に透き通り雪でも降らしそうな灰色を見せる。タクトはそのままの状態で優花に視線をやった。
「溺れるのも、結構疲れるものですよ?」
これ以上踏み込めば、二度と空を仰げなくなりそうだ。引き際を見極められる程度の分別は弁えている優花は、本題から反れるのを辞めた。
それを気配で察したらしいタクトからも、凍てついた光が目を伏せたことで姿を隠す。背中を一筋、冷や汗が伝った。
「それで、教えてくれるんでしょうか? 僕が案内出来るわけではありませんが、それでも興味はあります。あなたが司さんに対して、どんな答えを出したのか」
「……じゃあ、一つ依頼をさせて下さい。司さんに届けて欲しいものがあるんです」
それは宅配ではだめなのか。そんな無粋な返しはしない。タクトは黙って続きを待った。
まさかそれを断られるなど思ってもみなかったのだが、けれど不思議な探偵は噂に違わなかったと清々しい気持ちを得る。優花は泣きそうな笑顔を浮かべて言う。
「ありがとう。……届けてくれますか?」
それが司がタクトを巻き込んだ騒動の終わり。辿り着いた先で何かが交わることはなかったけれど、それでもあの馬鹿でお人好しな夜が最も似合う男は嬉しそうに笑うのだろう。
タクトは想像が容易い反応を思い浮かべながらゆっくりと首を振り、驚く優花を他所に渡した名刺をそっと手元に戻した。
何故ならこの一件に、知りたがりな探偵は一切関わっていないのだから。