表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
そして僕等は夜に溶ける  作者: 林 りょう
CASE2《とあるホストの場合》
10/44

情景




 徐々に間隔をあけながらもしきりに響く踏切の鐘と、走り去る電車で切り裂かれた風の悲鳴が聞こえる。脳裏で夕陽が沈み、星が瞬き、薄っすらとした朝が来て、それが繰り返される。

 時折閉め忘れたカーテンが揺れ、ひんやりとした空気が邪魔をするが、肌が触れ合えばお互いの汗を混ぜ、伝わる感触と帯びた熱が脳を溶かそうと躍起だ。時間が経てば経つほど背中で広がっていく、一つ一つは微かな無数の痛み。二の腕を食い千切ろうとする爪は丸く小さいが、それでも皮膚が剥がされ薄っすらと血が滲む。

 部屋を満たす濃密な香りは、不思議と花の匂いに似ていた。酔いを誘って思考を奪う。

 頂点に達した快感が背中を突き抜け、浮ぶ情景を白く塗りつぶし、全身に鳥肌が立つ。一気に押し寄せる倦怠感に従うまま潰してしまわぬように覆いかぶさると、暗闇に慣れた目が乱れる髪を映し出す。荒い息に合わせ上がっては落ち、散っては沈み。どこか感覚が剥離した気がしながら、顔を隠してしまう邪魔な髪をどけるため、片腕だけで身体を支え優しく指を伸ばした。

 彼女はまた眠ってしまったのかもしれない。唇がゆっくりと、まるでお約束と化した言葉を紡ごうと薄く開く。

 次は君の番? それともこのまま、壊す勢いで僕が続けていいのだろうか。狂ったように泣いて叫んでも、止めずに窒息してしまうぐらい。そのままいっそ、全身を満たす海に溺れれば良い。かつて自分がそうされたように。

 耳を強く噛んで脳を舐める声で囁き、沸騰した舌を這わせ、嗚呼――全てを焦らされる。どれだけ触りたくても手は届かず、どれだけ伝えたい言葉があろうとも、こちらの声は強いられた悲鳴に近い呻きのせいで既に枯れてしまった。

 放てど放てどどこにも受け皿はなく、海に繋がることのない川を延々と泳がされる気がしてくる。

 やっとのことで赤らむ頬に触れた。大きく上下する胸に、素肌に、額から落ちた汗が弾けて染みていく。

 指に髪を絡めれば、放心していた意識がやっとのことで戻ってきたらしい。静かにシーツが擦れて髪が流れる。


「――ねぇ」

「タクト、凄すぎ」


 けれど、その瞬間に灰色の鏡が割れた。何かを言いかけていたタクトは、どこか驚いた様子で自分の首に絡み付く腕と目の前の相手を見る。

 花の匂いは一欠片も残さず消え去り、目だけを動かし左右を確認すると、錯覚していた狭いアパートの一室ではない。ベッドが強く存在を主張する、ただのホテルだった。

 またか。タクトは心内で呟き首の腕を退けると、その動作で少し浮いていた頭の下に手を入れ、髪を乱暴に掴み手前に引き寄せた。相手が喉の奥から驚きを漏らしかける。それを含め激しく貪った。

 温もりや感触は当然のこと、痛みや苦しみさえも快感へ。絶え間ない頂を。酸欠で苦しむ姿に恍惚とし、そのくせ見たくないと言うように相手の身体を裏返してベッドに押し付け、全体重を掛けながら妖しく囁く。


「まだ全然イケるよね」


 支配する景色には絶対になかった、悲鳴とは程遠いただの嬌声が生み出される。それは壁で跳ね返り、自分たちに降り注ぐ。だからタクトはきつく目蓋を閉じ、何度も何度も上下の奥歯を鈍く擦る。目の前で艶かしく汗を光らせた、白く滑らかな細いうなじに噛みついてしまわぬように。

 まるで本当に犬になってしまったみたいだ。向き合うことはしないまま、首を掴んで膝立ちにさせてそんなことを考える。


「今のタクト、まるで狼みたい」


 けれどそれは、やけにあっさりと否定されてしまう。手の中で喉が震え、仰け反る身体が嬉しそうにタクトの髪を掴み返した。

 どう動けば悦び、どう扱えば果てに沈むのか。嫌というほど散々経験し熟知しているはずなのに、相手を考えず本能の赴くまま、ただただ自分を押し付ける。

 酒と煙草が混濁し、そこに女の甘い吐息が加わってしまうと襲ってくる衝動。それは渇望にも似ていて、なぜだろう自制が効かない。

 いつか本当に、誰かを抱き殺してしまいそうだ。タクトは自覚しながら、労わろうとも止めようともしなかった。それどころか気を抜けば感じるまま脳裏に浮ぶ情景に支配され、白く塗りつぶそうとなおさら必死になってしまう。

 もう二度と見なくて済むよう、何もない真っ白に。全てを綺麗な状態に。

 たとえばそう、踏切の鐘は鳴らなくて、風も悲鳴を上げずに穏やかで。温かい陽光を浴びながら微笑み合って手を繋ぎ、星が瞬けば静かにベッドへと入り。知らない内に薄らんだ空は、目覚める頃には澄んだ空気を帯びる。そうすれば、朝の挨拶を君に贈ることができるだろう。

 でも――

 脳が弾けて耐え切れず声を漏らしながら、タクトは自分の身体を支えきれなくなって倒れこんだ。同時に味わう喪失感。さっきまで全身を満たしていた温もりが抜け、暗闇の中で現実が見える。

 満足したと、相手は確かにそう言った。掠れ切った声で、それでも楽しい夜だったと。

 違う。タクトは焦燥感に駆られた。駆られながら、絶望にも似た漠然とした危うい欲求に耐える。

 微かに震える指でかろうじて乱れたシーツを掛けてやり、立ち上がって足早にシャワールームへと駆け込んだ。

 シャワーヘッドがら飛び出してくるのは、お湯なのか水なのか。湯気を立ち上らせているのは自分の身体な気がしてならない。最中よりも荒れる息と枯れていく内側。壁に強く拳を打ちつけた。


「……くそっ」


 消えない想いに、重なる姿。白いタイルに一筋、赤い線が走る。

 おそらく、タクトをタクトと呼ぶ中で、ここまで濃い彼を知る者はいないだろう。頭上からの飛沫は襟足から背中へと伝っていく。

 どことなくオレンジを帯びた光でも、肩甲骨の辺りや脇腹に、人為的で不自然な傷跡が点在していることをはっきりと知らせた。折り重なるひっかいた様な細い線と、一つ一つは小さい火傷の痕。


「いつになったら……」


 シャワー音に隠れ、タクトの呟きが響いた。

 けれど、その先が言葉にされることはなく、代わりに続くのは自嘲的なもの。


「君が満足することは、一度だってなかったのに」


 しばらく、傷む手を枕に額を乗せ、壁と同化して微動だにしなくなる。

 タクトは外から自分を呼ぶ声が聞こえてからやっと顔を上げ、室内へと戻っていくが。表に出てきた濃い気配は息を顰め、灰色の瞳にはやはり透明さだけが映し出されていた。

 





 司がその女と出会ったのは、彼にとっては日常的な店の客としてだった。誰かに連れられてだとか、よほどホスト遊びに精通しているならまだしも、一人での初来店でトップを指名するのは中々強気だと思った。なにより面白かったのは、どこか暗い影を落としながら、やけに好戦的な視線を向けてきたこと。

 この時点ですでに、相手が何かしら悪意と目的を持って近づいているのは分かっていた。

 予想外だったのは、その女に対して必要以上の興味を持ってしまったことだ。どんな金持ちや美女相手にも揺らがない不動の心が揺れてしまった。その甘い刺激は、久しく感じていなかったもの。

 司がこの世界に足を踏み入れたのは18の時。勉強が嫌いで頭が悪く、今では若気の至りだと苦笑してしまう馬鹿ばかりをやって、誘われるまま働くようになったのが始まりだった。

 父親からは親不幸者と殴られ、母親には泣かれ、兄は心底呆れた目を向けてくれた。結局だいぶ前に家族とは絶縁状態になってしまったけれど、後悔はしていない。今と比べれば安っぽい、既に潰れてしまったちんけな店で多くを学び、自分の仕事に誇りを持つに至れたのだから。そうして、一つの街の夜の王にまで上り詰めた。

 そんな司には夢があった。いつか必ず自分の店を持つこと。既に十分やっていけるのだろうが、今はまだソワレを辞めるつもりがない。マネージャーの元で経営を学び、ナンバーワンとして人を育てることを知り、そうして出来る限りの経験を積んでから叶えたいと思っている。

 態度も生活もだらしなさがある司をタクトが真面目だと評す理由はそこにある。変なところでロマンチシストで、堅実で、何事にも真っ直ぐなのが司という男だった。

 それは、客に対する姿を見ても感じること。昔から女好きだったらしいが、だからこそ自分の仕事は相手を楽しませて何ぼだというのが司の信条だ。それは、表面的にはタクトと同じだが、二人はそもそも喜怒哀楽への価値観が対照的。少なくとも司は、相手を楽しませるにはまず、自分が楽しまなければならないという考え方の持ち主で、彼は仕事に対する誇りもそうだが何よりも働くことが好きだった。

 店が入ったビルの入口に寄り掛かり腹に手を当てながら、司はついさっきまで喋っていた相手の去っていく背中を見つめていた。込み上げ堪えきれない笑いが喉から溢れる。


「卑怯なのはどっちだってーの」


 自分から頼んだとはいえ、そこに麗華まで巻き込んで素知らぬ顔を見せた友人は元同僚で、現在は探偵という酔狂な輩だ。けれどタクトは、恥ずかしくも男として気を持ってしまった女について調べてくれと頼むと、思いもよらぬ答えを出す。


『良かったですね、探偵なんてやってる風変わりな友人がいて』


 実に自然と自分の事を友人と言ってくれたことにまず司は驚いたが、さすがのタクトも彼をただの知り合いと位置付けるような淡白さは持ち合わせていない。確かに性格の不一致は多いけれど、見ている世界が異なるからこそ調和するものもある。少なくとも司と共に居て、息苦しいと感じたことは一度もない。


『ちょうど暇を持て余していますし、腹が立ってもいますから。僕なりにその恋の邪魔をしてあげますよ』


 そして、そんなことをのたまった。

 司が笑ってしまったのも仕方が無い。わざわざ言わずとも本当にそう思っているとすれば、タクトなら話を持ち掛けた時点で既に動いている。それこそ元ホストらしく、あっという間に寝取るぐらいやってのけるだろう。

 だから思わずお人好しだと言ってしまうと、どうしてか見事なボディーブローを喰らってしまった。

 二人で一人の女を取り合えばきっと、熾烈な争いを繰り広げるだろう。天地がひっくり返ろうともそんなことはあり得ないと分かってはいるが、それもまた楽しいかもしれない。司は思った。

 タクトが誰にも想いを向けない事を、同じ男として感じている。過去を話してくれなくとも、あの不明瞭な内側には重く暗いものが巣食い、蝕んでいるのだろう。いつだってタクトは、今を見ていないのだから。何かを追い求め、必死に溺れている。


「どうやったって変わらないのかねぇ」


 店先で時折顔見知りに愛想を振り撒きながら、星の無い殺伐とした空を見上げて呟く。

 マネージャーに紹介された初対面のタクトは、その時からずっと優男で淡く、不思議だった。

 表向きはマネージャーの知り合いの伝手で入った新人だったけれど、司だけは教えられていた。本当は、タクトにホストを辞めさせないよう伝手の方がマネージャーを頼ったのだと。後から本人に聞いたところによれば、引越しをしたかっただけで新しい場所でもまたホストをするつもりだったそうだが、自分以外の店に渡してまで留めたいほどの腕を持っているようには到底見えなかった。

 しかし実際、タクトは見事な金のなる木だった。彼の客は特殊で代えがきかない。湯水のように金を使って、自分のタクトを理想に仕上げていった。


「だからなのか……?」


 司自身、その客たちとは違えどタクトに魅了されてしまった者の一人だ。マネージャーや麗華、未だに良く世話になる刑事の長嶋とてそう。人間どこかしらに影を宿しているものだが、タクトの持つそれは何かが違い人を惹き込む。

 自分たちが同性でなければ、とっくの昔に落ちているだろうな。どちらにせよ司にとって、薄れさせたくは無い縁だった。

 そして今回、思いも寄らぬ形で持っていかれてしまった想いは、タクトと出会ったせいで生まれたものなのかもしれないと思い至る。

 それなりの影を落とした女を散々見てきたが、その場その場で楽しませるだけで、あわよくば程度に軽くできれば十分だった。そんなことを思っていた司が初めて、そのものに目を向けたのだから。

 真剣に想っているのであれば、本人に聞かず他人に調べてもらうなどフェアではないのかもしれないが、そこは数多の経験を積んできた男。そうした途端、相手が行方をくらますことなど分かりきっている。そうでなくとも、向こうは司へ何かしら悪意を抱いているのだから、正直に答えてくれるはずがない。

 にしても、相当焼きが廻ってる。目の前で人々が往来する中、しばらく堂々と本意ではない感情に黄昏た司は、戻って来ないことを不審に思った店の人間に呼び戻されるまで思う存分自身に呆れた。

 そして、自分のせいで荒れている今夜のタクトの餌食となる相手をひっそりと哀れむ。その怖さは身を持って重々承知だ。

 

「あれは、羊の皮を被った狼だからなー」


 頬を掻いてぼやいた言葉で、成人したばかりの新人が首を傾げて不思議そうな表情を浮かべていた。

 そんなセンチメンタルな状態だった司へタクトからの邪魔が入ったのは、きっちり一週間後のことだ。そこは仕事上の習慣が出てしまったのだろう。

 答えは実にシンプルで、だからこそ切なくて。そして、一番最初の店を何故自分が辞めたのか、忘れていた理由を今更思い出す。

 司は知っていた。いや、きっとほとんどの人が知っているだろう。

 恋は時に燃え上がる。けれど、それはいつか燻り消えてしまう。恋が恋のままである限り。さすがの司もそれが分かっていて身を捧げられるほど、タクトのように盲目的にはなれなかった。


「けれど、泣き寝入りとか見て見ぬフリも出来ないのが司さんですよね」

「そりゃあなんたって、俺はこの街で一番良い男だからな」


 友達なんだから、協力しろよ。そう乱暴に肩を組んでくる司へ、今度はタクトがその言葉を口にする番だった。


「お人好し、ですね」


 それからタクトがソワレに姿を現したのは、一ヶ月ほど後のこと。司の誕生日パーティーが行われた日だ。そこにはもちろん、司が惚れた女も招待されていた。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ