ウワサ
とある歓楽街の怪しげなビルでひっそりと構えられた事務所には、不可思議な噂を頼りにぽつぽつと客が訪れるという。
看板も何も無い、青年が一人居るだけのこじんまりとした探偵事務所。そこが『愛の先へ辿り着ける』と噂される場所だった。
常に開いているわけではなく、そこしか頼れる場所のない、愛で苦しむ者のみが足を踏み入れることができるらしい。人の口を伝いそう囁かれることが唯一の宣伝で、聞いた者の中から客が生まれる。
――それって、浮気調査とかそういうこと?
――違う、違う。愛を見せてくれるらしいよ。自分が持ってる、自分だけの愛っての。
――意味分かんない。でも、私の愛かぁ……。どうせならお金持ちと結婚したいよねー。
――もー、そうゆーんじゃないんだってばぁ!
女子高生が好奇心旺盛に語り合うと、教室ならばクラスメイトが。道端ならば会社勤めのOLが。静かに拾い心の中でひっそり留め、そうしてその中の誰かが事務所の扉の前に立つ。
緊張で僅かに手を震わせながらノックをし、開かないことも期待しながら固唾をのむ。しばらく待ち、反応のない奥へ安堵したのも束の間だ。
「はい、どうぞ」
決して大きくはない、それどころか普通なら聞き逃してしまいそうな声。静寂とはまた違う物静かな雰囲気が事務所を包み込み、踵を返そうとしていた足を止めた。
扉を見つめると、事務所からは急かす様子なく最初と同じで物音一つしない。だからこそ、そこは入ったが最後、後戻りをさせない警告を発している気がした。
ここでまだ、何かしらのエネルギーを残している者は立ち去るのだろう。後が無い者や事情のある者だけがドアノブへと手を掛け、ゆっくりと手首を捻る。一歩足を踏み出せば、おのずと扉を押し――開く。
「ようこそ、ご依頼ですか?」
そうして出会うのが、不思議な淡さを纏った青年。この事務所でただ一人の探偵だ。風が吹けば飛んでいき、少しでも目を離すと消えてしまいそうなその空気は、色々な戸惑いを感じさせた。
探偵という呼称があまりに相応しくなく、質素な事務所の装いともつり合いが取れていない。青い病院服を着て、腕には点滴の針が痛々しく刺さり、庭や何かしらの自然が窓で広がる小さな個室に横たわっている方が当然と思えるほど、青年の全てが儚かった。
「こちらへどうぞ。ゆっくりとお話をお伺いしましょう。飲み物はコーヒーでかまいませんか?」
曖昧に頷いたり、言葉を探しあぐねたり。迎えられる立場なはずが、迎えてもらっている錯覚を感じ焦っていると、青年はあくまで薄いほほ笑みを零し、センスの良いシンプルなソファーへと案内をしてくれる。
そこでやっと、事務所をとても柔らかく芳ばしい香りが満たしていること、それが何種類ものコーヒー豆によって作られたものだと気が付いた。
日本人離れした気品というものは、こういうことを言うのだろうか。和室よりも洋室が、歌舞伎よりもオペラが似合う。オペラと言えば、青年からはオペラ座の怪人のような、仮面では隠しきれないミステリアスな危険も香った。
「結構自信があるんですよ」
せっかくだからと頼んだコーヒーが湯気をたてながら目の前へ置かれ、その際に間近で合った透明度の高い瞳が照れを映す。
おおよそ人の取り込み方を熟知している。そう気付きながらカップに口を付けると、舌から脳内を満たすのは涙を誘うフレイバー。ここで誰しもが、噂を真実へと昇華させるのだろう。
この青年そのものが愛なのだ。誰かに愛される為、誰かを愛す為ここに居る。
ソーサーが音を発てるが、いつの間にか手の震えは止まっていた。
そうして依頼主は口を開くだろう。愛の先を想い描きながら願う。
すると青年が、雰囲気たっぷり間を空けてから、確かに探偵の顔をして頷き言った。
「その依頼、承りました」
言葉を作るたび感情あらわに泣き叫ぶ者へも、淡々と内側で想いを募らせる者へも平等に。迷える手を取り道を示す。
そうして今日も、どこかで誰かが愛の先へと辿り着き、様々な形の終わりを迎えるのだ。
あなたもまた、その一人なのだろうか――