20 空白の王都
帰ろう、と彼は言った。
オフィーリアは頷き、じっと彼の顔を見てから遠慮がちに口を開く。
「ところで、あの、どうやってこちらにいらしたのですか?」
なぜそんな問いを今聞くのだろうと不思議な表情をしながらも、アルフォースは律儀に即答した。
「馬だが」
「いえ、そうではなくて。こちらに仕事としての用事はありませんよね」
ああ、と彼は納得したように頷く。
「今は長期休暇を頂いている」
オフィーリアは首を傾げた。今まで、まとまった休みなど殆どなかったのだ。取りたいと願い出て、そう簡単に許されるものだろうか。
その疑問を口にすると、アルフォースは少々複雑そうな顔で数秒間だけ沈黙した。
「…まあ、オフィーリアを探すために多少の無理を聞いてもらったんだが。ちょっとそれとは関係なく一騒ぎ起こったためというか、せいというか。…本当は、すぐにでも追いかけたかったんだけど」
アルフォースは歯切れ悪く言うと、そこで一端呼吸を置き、顔を引き締めてからはっきりと言葉を紡いだ。
「君が消息を絶ったと報せがきたとき、ほぼ時を同じくして殿下が刺客に襲われた」
予想もしていなかった言葉に、オフィーリアは、思わず息を呑んだ。
「その時隊長が殿下を護って怪我を負った。その代わりに僕が殿下の身辺警護の指揮及び首謀者の捜査の補佐を任されたんだ。そのときの昼夜問わず駆けずり回った働きを評価して、殿下が賜暇として時間を下さった」
オフィーリアは恐る恐る質問する。
「それで、犯人は捕まったのですか」
それに、真剣な顔のまま頷く。
「一応、黒幕はつきとめた。追い詰めるまでは御伴をしたから、後は面倒な事後処理だけだな。…大臣を引き摺り下ろすのはなかなか骨が折れる」
最後に小さく、独り言のように宙に溶けた言葉を聞いて、オフィーリアは驚いた。要するに、殿下の懐に毒蛇が居た、ということだろう。自分の日常が危険と隣り合わせであったことを知ることほど怖いことは無い。そんな世界に彼が生きているということに、寒気がした。
きっと、現在王都はこの話でもちきりになっているに違いない。
アルフォースは淡々と話すが、大変な事件であったことは明白だ。
「ええぇ…大丈夫なのですか…?」
「隊長が馬車馬のように働いてなんとかしてくれるさ」
事も無げに完全なる責任転嫁をしたその返答に、オフィーリアは暫し沈黙する。それは、大丈夫と言えるのだろうか。
「半月以上も全てを人に押し付けて休んだんだ。それくらい報いてくれないと。それにあの人が動くなら僕は居なくても大丈夫だ」
一度顔を合わせたことのある彼の隊長、エルクスの顔を思い浮かべた。
確かあの時は職務中にも関わらずオフィーリアとサティに声を掛けてきたのではなかったか。
……。よし。
仮にも病み上がりであるらしい人に申し訳ない話だが、ここは知らないふりをさせてもらおう。
素直じゃないアルフォースの言葉の裏に見え隠れするエルクスに対する信頼も、きっと今までの経験に裏打ちされたものなのだろう…と思い、この件はひとまず置いておくことにした。
「殿下には、どれくらいお休みを頂いているのですか?」
「特に期限は決められていないな。…傍を離れるからには目的を達するまで帰ってくるなと言われたが」
目的、という言葉に少し顔に血が上ったのを感じたが、今はそんなことよりもと気を取り直して本題を切り出す。
「もう少し、ここに留まってもいいでしょうか」
その言葉に、アルフォースはすこし慌てたような表情をした。
「もう少し?」
「はい。できれば、二、三日ほど」
彼は口を閉ざして何かを考える素振りを見せる。
「…屋敷に戻ることが、気が進まないのか?あ、父のことなら気にしなくていいんだ。何も心配することは」
「いえ、そういうことではなくて。そこはもう覚悟を決めてますので大丈夫です。お世話になったここの方たちに挨拶をしたいですし、荷物も纏めなくてはなりませんし」
確かに、レスターや屋敷の皆に会うことが怖くないと言えば嘘になる。
しかし、それ以上に気がかりなのは彼のことだった。
このまま帰れば、アルフォースは特に休むこともせずに王太子殿下の許に行くのだろう。
まだ血の気の無い頬。少し痩せた体。
そんな状態の彼を直ぐに動かして仕事に向かわせたくなかった。
しかも、そうなった原因の一端が自分にあるというのなら尚更に。
「そういうことなら僕も共に挨拶に行こう」
すっと立ち上がった彼を、オフィーリアは慌てて押しとどめた。
「アルフォース様は休んでいてください。まだ顔色が悪いですよ。休まれている間にわたしはいろいろと済ませてきますから」
オフィーリアはアルフォースを促し、ベットに寝かせた。そして、手を握り、静かに落ち着けるように手の甲を撫でた。
「ほんとうに、ゆっくりでいい。僕のことは気にせず、オフィーリアが望むようにして欲しい…」
素直に目を瞑った彼は、よほど疲れていたのか、既にうわ言のような口調でつぶやく。
オフィーリアはそんな彼にも聞こえるようにと、耳の横で小さく囁いた。
「わかりました」
寝入ったアルフォースの顔を見つめ、手を握り、ベットの縁に座ったまま、時間が進むことを惜しむように動きを止めた。
窓から入った風が、さっとオフィーリアの髪を靡かせる。
心地よい。
---いつも。
いつも、いつまでも見たいと思っていた、このひとの顔をずっと見ていられる。
もう、自分を叱咤して重い腰を上げて距離をとる必要もないのだ。
ずっと、こころの底で望んでいた彼の横は、一番近くに居られる権利は、今この手にある。
暫らくその顔を見つめた後、オフィーリアは漸く立ち上がった。
ぱたん、とゆっくり閉じられた扉の内側には、穏やかな寝息だけが微かに聞こえる。
そこに、『帰って』来なければと思える幸福を感じながら、オフィーリアはそこから歩を進めた。