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18 迷い羊

オフィーリアは再び静かに目を開く。

そしてただ目の前のひとのことだけを、真っ直ぐに見つめた。

今、一途に自分だけを見てくれる人に他の人を重ねるような、不誠実なことだけはしまいと思いながら。


ありがとう、と言ったその声音に、彼は苦く微笑んだ。



***


僅かにきしむ音を立てて、背後の扉が開く。

そのゆっくりとした、少し不規則な足音で、オフィーリアは振り向かずともそれが誰かわかった。


「今日も熱心に祈っているのね、オフィーリア?」


近くでかけられた穏やかな声に、オフィーリアは閉じていた目を開き、院長の姿を振り仰いだ。


「ジネット様…」


「何か、悩みや心配でもあるのですか?」


あまりにその声が優しくて、オフィーリアは思わず抱えきれない思いを吐き出すように呟いた。


「…ジネット様、わたしは、修道女になるべきなのでしょうか…」


ジネットは少しだけ目を大きく開いたが、すぐに微笑む。


「貴方は、どうしたいと思うのですか?」


オフィーリアは迷うように目を彷徨わせた後、自信がなさそうに目を伏せた。


「……わかりません。わたしはいつも判断を間違う。」


「貴方が言う間違いとは何?」


「…誰かがわたしのせいで悲しむことです」


「でも、貴方はそれが最も良いと思ったのでしょう?」


微かに頷くオフィーリアを見て、ジネットは屈んで目を合わす。


「あなたが最善と決めたことを、私は責めません」


その言葉に揺れたオフィーリアの瞳を見つめながら、彼女は悪戯っぽい笑顔で続けた。


「わたしが思うに、貴方はもう少し自分の願いというものを追ってみてもいいのですよ」


オフィーリアはひどく苦いものでも噛むように、ゆっくりと言葉を返す。


「わたしは自分勝手です。とても」


「そう?自分が本当に望むことを、貴方はしているの?」


オフィーリアは言葉に詰まった。

望み?

確かに、自分は自ら全てを選んだ。

でも、全てを捨てることを、遠ざけることを、わたしは願った?

いつも、自分は傷つきたくないから願うことを止めて逃げるのだ。

人のためだという言い訳で、自分の傷を慰める。

もしかして、選んだのは、自分の心を護ること、ただそれだけ?


では、ほんとうに欲しいと願ったのは一体何だった?


考えようとするオフィーリアに、もう一人の自分が警笛を鳴らす。



「悩みなさい、そして間違いなさい」


「でも、間違わないようにと悩むのに?」


「確かに、正しいことは良いことです。しかし、本当に重要なのは間違えないようにすることよりも間違えたときにどうするか。そして間違いを認めること」


まるで秘密を教えるように、ジネットは囁く。


「この世で本当に取り返しがつかないことは貴方が思うよりずっと少ないのですよ、オフィーリア」


地図に可愛らしく星やハートを書くお茶目な彼女は、聖母のように、優しく微笑む。


「あなたは、あなたの心のままに」


しかし、硬い檻で幾重にも雁字搦めに守られた心は、未だ見えないままだった。

『他の人』という物差しと言い訳を失った足場はあまりに頼りない。

迷子のように心細げな顔をして見上げるオフィーリアを、あやす様にジネットは優しく言った。


「あまり思いつめないで。相応しいときに、自ずと答えは出るでしょう」



***



広場の中心では綺麗な少女の踊り子が、軽快な異国の音楽で舞っている。


式典が近いせいなのか、ミナホルトはとても賑わっていた。

オフィーリアが一人で隣町まで行くことを知ると何人かにはそれとなく遠まわしに心配されたのだが、地図を持っている上に馬車に送り迎えをしてもらうのだ。迷う要素など何処にもあるはずがない…と思いたい。

それに、オフィーリアの人混みへの苦手意識を知らないらしいジネットが「息抜きにでも」と、このお遣いを与えてくれた、その気持ちが嬉しかった。


少女と少年がオフィーリアの足元を縫うように駆け回る。

見覚えのある子達だった。

確か、オリバーが時折遊んであげている、修道院の近くに住んでいる農家の子だ。

隣町で見かけた偶然に驚きながら目で追っていると、姉の後を必死に追っていた男の子がふいに足を縺れさせてこけた。

あわてて駆け寄り、抱き上げて立たせると、その子の顔が一瞬くしゃりと歪んだ。

あ、泣く。

そう思ったが、男の子は歯を食いしばって必死に堪えている。

「偉いね」

そう言って頭を撫でていると、そこにさっき駆けていった女の子が戻ってきた。

「シオン、なにやってるの。--あ、シスターのお姉さんだ。ありがとう」

女の子は後半をオフィーリアに向かってお辞儀をしながら言う。

礼儀正しく腰を折る女の子に、オフィーリアは首を傾げて尋ねた。

「どういたしまして。二人だけで来たの?」

「ううん、お父さんとだよ。あそこの噴水で休んでるの」

そう言って行く手に人ごみで見え隠れする噴水を指さした。

「そっか。二人でお父さんの所まで行ける?」

「うん、リルたちよくここまで来てるもん。じゃあお姉さん、またね」

行くよ、と声をかけ、男の子の手を引きながら歩み去った。一度はぐれそうになった弟を気遣ってか、人混みを避けた方へと進んでいる姿が、ちゃんと『お姉ちゃん』で思わず感心してしまった。

何げなく見送っていると、男の子が振り返り、空いている右手を振っている。


あまりの可愛らしさに微笑みながら手を振りかえし、何とはなしに視線を上げた途端

遠くの一対の瞳と、視線が絡み合った。

それは、必然だろうか、偶然だろうか。

その疑問に対する答えを、オフィーリアは持たない。


----全ての音が、時が、止まった気がした。


呆然としたような濃い緑の目と見つめ合う。その表情はオフィーリアの表情をそのまま鏡のように映し出しているようだ。

ただ呆然としていただけの時間は数秒なのか、永劫なのか。

その纏わりつくような鈍い時の流れを振り切って、彼は彼女の名を叫ぶ。



「オフィーリア!!」



時が動き出した刹那、二人の間に押し寄せた人混みが今確かにつながった視線をかき消した。


どうして


彼が


仕事でここへ?


それとも夢?


いけない、逃げないと


あの目で罵られる前に


はやく



混乱し、思考が追い付かないままオフィーリアは反射に任せて雑踏の中に逃げ込んだ。

これが現実なのならば。彼がオフィーリアに向けて紡ぐ言葉を遮るものは、何もない。

ただ、怖かった。


やっと走るのを止め、乱れた息を整えながら通りを振り返るが、周囲のどこを見回してもアルフォースの姿を見ることはもうなかった。

はたと、そこでようやく気付いた。

また、逃げ出すことを選んでしまったのだ。


蠢く雑踏の中で、オフィーリアは途方に暮れた。

一目見ただけでこんなにも心が震えるのに、向き合うのは怖い。

仕方がないことだと自分に言い聞かせながら、その現実を突き付けられまいと無様に足掻く。

なのにこの目はもう一度彼の姿を映そうと、勝手に辺りを彷徨ってしまう。


どこまでも、


なんとわたしは弱いのか。


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