17 幸せの場所
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「疲れてるだろ」
オリバーに指摘され、オフィーリアはあやふやに微笑んだ。
実際、ここに来て一か月程ずっと夢見が悪い。
よく休みが取れない上での多忙な生活は、気持ち的にはさて置き、体にはかなりの負担がかかっていることは否めない。
笑って誤魔化そうとするオフィーリアの様子を見てとると、彼はため息をついてここに来た当初の目的である紙を差し出した。
「ほらこれ、頼まれてた地図。なんでミナホルトまで出ようとしてんの?」
「あ、ありがとう、オリバー。ジネット様から用事を頼まれてるから」
ジネットとはこの修道院の院長で、足がほんの少しだけ不自由だ。
そのため、大きな街で調達しなくてはいけない物があると、人に頼むことが多い。
ジネットはミナホルトという隣の街にある目的の店までの地図を書いてくれたのだが…彼女の地図は情報を極限まで削り取ったものだった。
不要なものどころか、必要なものまでが見当たらない。
線と現在地と目的地のみが書かれた紙から、一体何を読み取れと言うのか。
たとえ、目的地に星マークやハートマークのような装飾を施していてもわからないものはわからない。
もう口頭でもいいから情報が限りなくゼロよりはと、オリバーに聞いたところ、詳しい地図を用意してくれたのである。本当に頭が下がる。
「用事?」
「ええ、今度の式典のときに使う蝋燭とか、式典に合わせて新調する衣装用のものとかで足りないものがあるみたいなの」
「へえ…行事にも関わってんだ」
「お遣いみたいなものだけよ。わたしは修道女じゃないから表には出ないの」
オリバーはそっか、と頷き、彼には珍しく一瞬口ごもった。
しかし首を傾げて言葉を待つオフィーリアを見ると、彼は仕方なさそうに口を開く。
「で、あんたこれからどうすんの?」
オフィーリアはさらに首をひねった。
「どうするって?」
「今のとこ居候扱いだろ。ここに居着くなら早いとこ決めた方がいいぞ」
彼の面倒見の良さが筋金入りであることはもう知っている。
その上、この町の女性は総じて歯に衣着せない物言いの、きっぷのいい人が多い為か、彼にはオフィーリアがひどく内気に、頼りなく見えるそうなのだ。
加えて、この町に来て4日目に道に迷ってしまったことが決定打となってしまったらしく、非常に情けないことに「危なっかしい奴」認定されてしまった。
そうして彼はオフィーリアの将来までも気に掛けてくれるのだ。
これからのことは、オフィーリアにとっても、頭を悩まされている問題だった。
始めは、医師になれたらと思ったのだ。
しかし夜になるとオフィーリアを責め立てる影がその気持ちに綻びを与えていた。
「そうね…神職もいいかな、と」
神に仕えたなら、罪はオフィーリアを苛むことを止めるだろうか。許されるだろうか。
静かに、しかし何処か弱弱しく言われた言葉にオリバーは眉を潜めた。
「修道女は止めとけ。どうせなら頑張って医師か薬師を目指せよ」
「どうして?」
「シスターは結婚できないから」
ああ、そのこと。とオフィーリアは微笑んだ。
「知ってるわ。いいの。結婚する気はないから」
「はあ?なんでさ。もしかして本当に世捨て人だったとか?」
オフィーリアは苦笑いをしながら首を振る。
「わたしには唯一と決めたひとがいるの。きっと他の人をその人以上に想えない。それなのに結婚するなんて、結婚相手の人に失礼でしょう?」
「……その、あんたの唯一の人?とは結婚しないの?」
オフィーリアは思わず目を伏せた。
「…とても、遠いひとだから」
寂しそうに、それ以上は口にすることもなく笑ったオフィーリアを見、少し黙った後、言葉を確かめるように、ゆっくりとオリバーは口を開く。
「……俺は、良いと思うよ」
「え?」
オリバーは焦れたように少し早口になった。
「だから!結婚しても相手に失礼なんて思う必要はないと思う」
「でもわたしは…」
「唯一じゃなくても、一番じゃなくてもいい。…と、思う。だって---そいつがいまのあんたと関わり合うことが無いのならその次に好きだと思うやつが一番だってことと同じだろ?そもそもなんでそいつ以上に好きになれないって決めてんだよ。あんた一体何年生きた?そんなセリフはしわしわの婆さんになってから言えよ。辛気臭い顔して昔の男のことばーっかり考えて年取るよりも、若いうちにさっさと次に行った方が絶対に懸命だと思うね。」
「でも、---でも、そんなに想ってくれる人を見つけなくちゃいけないのよ。それに、わからないじゃない。結果的に、不幸にしてしまったら?」
「そう、先はわからないさ、やってみないとな。だから、一生懸けて俺が証明してやるよ」
それは、どういう意味だろう。
しかし戸惑うオフィーリアを気にする様子もなく、オリバーは続ける
「結婚しないか、俺と」
オフィーリアは微かな喉の渇きを覚え、聞いた信じられない言葉を掠れた声で繰り返す。
「けっこん…」
一月の間、ずっと隣でオフィーリアを気遣い、笑わせてくれていた男は、真剣な瞳を一瞬たりともオフィーリアから逸らすことはしなかった。
「あんたとなら幸せに一生過ごせる気がする」
幸せ、という言葉に、胸を突かれるような心地がした。
その姿を見て、彼は微苦笑した。
「それに、なんだか放っとけないんだよな」
この人の言葉に頷いて
結婚して
子供を産んで
一緒に笑い合って
そうしたら、幸せになれる?
オフィーリアは、目を伏せて考えた末、静かにオリバーの目を見つめ、そっと彼の手に触れた。
暖かく乾いた大きな掌は、もう触れることも、触れられることもないただ一人のことをオフィーリアに思い出させる。
彼女はその影を散らすようにきつく目を瞑った。