第9話:ゆりかごの沈黙、白紙の終焉
19XX年 2月 2日(月) 霧は深く、光さえ凍てつく夜
この手記を綴る手が、これほどまでに軽いことが、これほどまでに憎い。
鏡の中にいるのは、十六歳の少年だ。若々しい肌、光を湛えた瞳、無尽蔵の体力を秘めた肉体。だが、その内側に閉じ込められているのは、愛する者の最期を看取ることさえ許されなかった、老いた敗北者の魂だ。
エイリーンが、死んだ。
いや、彼女は「死んだ」のではないのかもしれない。
彼女の時間は逆走し続け、若返り続け、肉体の限界を超えてしまったのだ。
今日、彼女は「生命の源流」まで辿り着いてしまった。乳幼児だった彼女の体は、日に日に小さくなり、昨夜からは呼吸の仕方を忘れたかのように、ただ弱々しく胸を上下させていた。
ぼくは彼女を抱きしめ、自分の掌を当てた。
「ぼくの時間をあげる。ぼくの明日をすべてあげるから、行かないでくれ」
そう叫び、力のすべてを彼女に流し込もうとした。白い光が、暗い安アパートの四隅を白日のように照らし出した。ぼくの髪がさらに短くなり、声のトーンがさらに高くなる。若返りの代償が、ぼくの体を猛烈な勢いで削り取っていく。
だが、奇跡は起きなかった。
彼女の肉体はすでに、魂を繋ぎ止めておける「器」としての形を失いつつあったのだ。
あまりに若返りすぎた生命は、誕生よりもさらに前の、「無」という名の故郷へと帰っていった。
光が消えたとき、ぼくの腕の中に残されていたのは、ぬくもりの消えかけた、小さな、あまりに小さな、白い影だけだった。
「……エイリーン」
ぼくの声は、もはや少年のそれですらなく、声変わり前の子供のように高く、虚しく響いた。
ぼくたちは、平凡に老いて死ぬことを許されなかった。そして今、彼女は「生まれる前」に帰ることで、この呪われた輪廻から一足先に抜け出したのだ。
ぼくは彼女を、かつて彼女が愛したダブリンの海を想起させるような、青い絹の布で包んだ。
ロンドンの冷たい夜、テムズ川のほとりに立ち、ぼくは彼女をその流れに託した。
「さよなら、エイリーン。君の時間は、もう誰にも奪われない」
水面に落ちた小さな波紋は、霧の中に一瞬で消え去った。
今、ぼくは一人でこの部屋に座っている。
『カラスの眼』の足音が、階下で聞こえる。彼らは、自分たちの「不老不死の薬」が、テムズ川の藻屑となったことも知らずに、狂ったように扉を叩いている。
ぼくは、この手記の最後のページをめくっている。
もう、書くべき言葉はほとんど残っていない。
ぼくの知能も、記憶も、この若返っていく脳の構造に耐えきれず、少しずつ霧散し始めている。
かつてライアンの小屋で覚えた粥の味、リバプールの街で見かけた老作家の噂、エイリーンと見つめ合った月夜……それらすべてが、まるで他人の見た夢のように遠い。
今のぼくの外見は、おそらく十二歳。
あどけない少年。
だが、ぼくの瞳に宿っているのは、八十年の孤独を歩き抜いた老人の、底なしの絶望だ。
扉が、激しい音を立てて破られた。
黒い外套の男たちが、銃を手に部屋へ雪崩れ込んでくる。
彼らは、部屋の中央に座る一人の子供を見て、一瞬、呆気に取られたように動きを止めた。
「……ターゲットはどこだ? 聖母の力を持つ女と、あの老人は?」
ぼくは、彼らを見上げて、静かに微笑んだ。
その微笑みは、十二歳の子供には決して不可能な、慈悲と軽蔑に満ちた老人のものだった。
「お望みの老人は、ここにはいないよ」
ぼくは、自分の掌を力強く握りしめた。
最後に一度だけ、ぼくはこの「力」を、誰かを救うためではなく、自分を終わらせるために使う。
ぼくの残り数十年、いや、数百年分のエネルギーを一気に解放し、この肉体を「無」へと加速させる。
彼らがぼくに触れようとした瞬間、部屋全体が、太陽が爆発したかのような白銀の閃光に包まれた。
「ぼくたちの物語は、誰にも読み返させない」
それが、ケネス・ザカライア・ウルフという男の、最後の思考だった。
光が収まったとき、そこには誰もいなかった。
黒い男たちの死体もなく、少年の姿もなかった。
ただ、床に落ちた一冊の、ボロボロになった手記だけが、煙を上げて転がっていた。
インクは熱で蒸発し、ページはすべて、真っ白に戻っていた。
そこには、泥の中で生まれた老人の記録も、若返りながら恋をした少年の記憶も、一文字として残っていない。
窓の外では、ロンドンの霧が、すべてを隠すようにゆったりと流れている。
まるで最初から、何も起きていなかったかのように。
【現在の外見推定年齢:——】
(※このページには、これ以上何も記されていない。ただ、最後の白紙の隅に、涙の跡のような小さな滲みが一つ、残っているだけだ)




