第8話:霧の都の揺りかご、消えゆく言葉の残響
19XX年 1月 20日(月) 霙、あるいは絶望の色
ロンドン、イーストエンド。ビクトリア駅に降り立ったとき、ぼくたちはこの巨大な怪物の胃袋に飲み込まれたのだと確信した。石炭の煙と、数百万人の欲望が混じり合った濃霧。ここなら、誰もぼくたちの正体に気づかない。そう思っていた。
だが、代償はあまりにも大きかった。
ロンドンへ向かう船と列車の中、エイリーンは持てる力のすべてを使い果たした。追っ手を振り切るための目くらましとして、そして道中で行き倒れていた瀕死の母子を見捨てることができず、彼女は自らの掌を、その「未来」を、最後の一滴まで絞り出すように差し出したのだ。
今、ぼくの腕の中にいるのは、かつてダブリンの路地裏で知的な慈愛を湛えていた「聖母」エイリーンではない。
言葉を失い、ぼくを認識することさえ叶わなくなった、推定年齢一歳の「乳幼児」となった彼女だ。
ぼくはイーストエンドの安アパートの片隅で、この手記を綴っている。
部屋の中は、石炭が爆ぜる音と、彼女の浅い寝息だけが支配している。
かつて彼女と語り合った哲学も、未来への不安も、もう共有することはできない。彼女の知性は、その小さくなっていく肉体に押し潰され、ついには記憶の深淵へと沈んでしまった。
ぼくは、震える手で彼女の頬に触れる。
かつては恋人として、次は兄妹として、そして今は、ぼくが彼女の「父親」だ。
だが、この父親は、わずか十八歳の少年の姿をしている。
街へ出れば、乳飲み子を抱えた少年を、人々は不気味なものを見るような目で見るか、あるいは「不道徳な若者」として蔑む。
「……あ、あう……」
彼女が目を覚まし、小さな手を空に伸ばす。
その指先が、ぼくの頬をなぞる。かつて、ぼくたちの時間がまだ重なっていた頃、彼女はこの手でぼくの頬を包み込み、「私たちは、神様が書き損じた物語の一行なのよ」と笑った。
今の彼女には、その記憶の欠片もない。ただ、空腹と、本能的な恐怖だけが、その濁りのない瞳に宿っている。
ぼくは、彼女のためにミルクを温める。
このミルクを買うための金は、ぼくがこの街の港湾労働者として、十八歳の若々しい肉体を酷使して手に入れたものだ。
皮肉なものだ。ぼくの魂は八十歳を過ぎた老人のままだというのに、この肉体は今、人生で最も力強く、疲れを知らない。重い荷物を担ぎ上げても、翌朝には筋肉痛すら残っていない。
だが、その活力が、ぼくを狂わせる。
肉体が若くなるにつれ、ぼくの中の「理性」という名の堤防が、少しずつ崩れていくのを感じるのだ。
時折、耐えがたい衝動に襲われる。
このまま、彼女を抱いてテムズ川に飛び込んでしまえば、この呪われた逆走から解放されるのではないか。
あるいは、この「癒やしの力」を街中で披露し、富豪たちの奴隷となって、贅沢な最期を迎えればいいのではないか。
だが、そのたびにぼくは、彼女がかつて言った言葉を思い出す。
『いつか、私が言葉さえ忘れてしまったとしても。その時は、この手記を読んで聞かせて』
ぼくは、泣き出しそうな彼女を抱き上げ、この手記を読み聞かせ始める。
「……エイリーン、聞いているかい。君はかつて、ダブリンで一番勇敢な女性だったんだ。君は、自分の時間を削ってまで、見ず知らずの子供を救ったんだよ」
ぼくの声は、かつての枯れた老人のそれではなく、まだ声変わりを終えたばかりのような、青臭い少年の響きを持っている。
その声で綴られる「大人の記憶」は、あまりにも不格好で、痛々しい。
ロンドンの夜は、容赦なく深まっていく。
『カラスの眼』の影は、まだこの霧の向こうに潜んでいるだろう。
彼らにとって、乳幼児となったエイリーンは、より扱いやすい「薬」に過ぎない。
ぼくは、彼女の小さな鼓動を胸に感じながら、アパートの扉に何本もの閂をかけた。
ぼくの若返りも、加速している。
鏡を見るのが怖い。
今のぼくは、おそらく十七歳。
あと数ヶ月もすれば、ぼくもまた、彼女と同じように「大人の言葉」を失うだろう。
その時、この手記を誰が読み、誰がぼくたちの存在を証明してくれるというのか。
この世界は、前を向いて歩く者たちのために作られている。
後ろを向いて走り続けるぼくたちは、どこへ辿り着けばいい?
言葉が消える前に、ぼくはこのインクを、魂の最後の叫びとして紙に刻みつけなければならない。
エイリーン。
たとえ君が、ぼくのことを「お父さん」とさえ呼べなくなったとしても。
ぼくは君が「エイリーン」であったことを、この宇宙でたった一人、ぼくだけは覚えている。
それが、泥の中に捨てられたぼくが、この人生で手に入れた唯一の、そして最高の宝物だから。
【現在の外見推定年齢:17歳】
(※追記:エイリーンは推定、生後10ヶ月。彼女の瞳から、時折、かつての聡明な光が瞬くように見えるのは、ぼくの淡い期待が見せる幻覚だろうか。ぼくたちの時計は、もうすぐ『零』を指そうとしている)




