表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白紙の残響  作者: 水前寺鯉太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/13

第8話:霧の都の揺りかご、消えゆく言葉の残響

19XX年 1月 20日(月) 霙、あるいは絶望の色

ロンドン、イーストエンド。ビクトリア駅に降り立ったとき、ぼくたちはこの巨大な怪物の胃袋に飲み込まれたのだと確信した。石炭の煙と、数百万人の欲望が混じり合った濃霧。ここなら、誰もぼくたちの正体に気づかない。そう思っていた。

だが、代償はあまりにも大きかった。

ロンドンへ向かう船と列車の中、エイリーンは持てる力のすべてを使い果たした。追っ手を振り切るための目くらましとして、そして道中で行き倒れていた瀕死の母子を見捨てることができず、彼女は自らの掌を、その「未来」を、最後の一滴まで絞り出すように差し出したのだ。

今、ぼくの腕の中にいるのは、かつてダブリンの路地裏で知的な慈愛を湛えていた「聖母」エイリーンではない。

言葉を失い、ぼくを認識することさえ叶わなくなった、推定年齢一歳の「乳幼児」となった彼女だ。

ぼくはイーストエンドの安アパートの片隅で、この手記を綴っている。

部屋の中は、石炭が爆ぜる音と、彼女の浅い寝息だけが支配している。

かつて彼女と語り合った哲学も、未来への不安も、もう共有することはできない。彼女の知性は、その小さくなっていく肉体に押し潰され、ついには記憶の深淵へと沈んでしまった。

ぼくは、震える手で彼女の頬に触れる。

かつては恋人として、次は兄妹として、そして今は、ぼくが彼女の「父親」だ。

だが、この父親は、わずか十八歳の少年の姿をしている。

街へ出れば、乳飲み子を抱えた少年を、人々は不気味なものを見るような目で見るか、あるいは「不道徳な若者」として蔑む。

「……あ、あう……」

彼女が目を覚まし、小さな手を空に伸ばす。

その指先が、ぼくの頬をなぞる。かつて、ぼくたちの時間がまだ重なっていた頃、彼女はこの手でぼくの頬を包み込み、「私たちは、神様が書き損じた物語の一行なのよ」と笑った。

今の彼女には、その記憶の欠片もない。ただ、空腹と、本能的な恐怖だけが、その濁りのない瞳に宿っている。

ぼくは、彼女のためにミルクを温める。

このミルクを買うための金は、ぼくがこの街の港湾労働者として、十八歳の若々しい肉体を酷使して手に入れたものだ。

皮肉なものだ。ぼくの魂は八十歳を過ぎた老人のままだというのに、この肉体は今、人生で最も力強く、疲れを知らない。重い荷物を担ぎ上げても、翌朝には筋肉痛すら残っていない。

だが、その活力が、ぼくを狂わせる。

肉体が若くなるにつれ、ぼくの中の「理性」という名の堤防が、少しずつ崩れていくのを感じるのだ。

時折、耐えがたい衝動に襲われる。

このまま、彼女を抱いてテムズ川に飛び込んでしまえば、この呪われた逆走から解放されるのではないか。

あるいは、この「癒やしの力」を街中で披露し、富豪たちの奴隷となって、贅沢な最期を迎えればいいのではないか。

だが、そのたびにぼくは、彼女がかつて言った言葉を思い出す。

『いつか、私が言葉さえ忘れてしまったとしても。その時は、この手記を読んで聞かせて』

ぼくは、泣き出しそうな彼女を抱き上げ、この手記を読み聞かせ始める。

「……エイリーン、聞いているかい。君はかつて、ダブリンで一番勇敢な女性だったんだ。君は、自分の時間を削ってまで、見ず知らずの子供を救ったんだよ」

ぼくの声は、かつての枯れた老人のそれではなく、まだ声変わりを終えたばかりのような、青臭い少年の響きを持っている。

その声で綴られる「大人の記憶」は、あまりにも不格好で、痛々しい。

ロンドンの夜は、容赦なく深まっていく。

『カラスの眼』の影は、まだこの霧の向こうに潜んでいるだろう。

彼らにとって、乳幼児となったエイリーンは、より扱いやすい「薬」に過ぎない。

ぼくは、彼女の小さな鼓動を胸に感じながら、アパートの扉に何本ものかんぬきをかけた。

ぼくの若返りも、加速している。

鏡を見るのが怖い。

今のぼくは、おそらく十七歳。

あと数ヶ月もすれば、ぼくもまた、彼女と同じように「大人の言葉」を失うだろう。

その時、この手記を誰が読み、誰がぼくたちの存在を証明してくれるというのか。

この世界は、前を向いて歩く者たちのために作られている。

後ろを向いて走り続けるぼくたちは、どこへ辿り着けばいい?

言葉が消える前に、ぼくはこのインクを、魂の最後の叫びとして紙に刻みつけなければならない。

エイリーン。

たとえ君が、ぼくのことを「お父さん」とさえ呼べなくなったとしても。

ぼくは君が「エイリーン」であったことを、この宇宙でたった一人、ぼくだけは覚えている。

それが、泥の中に捨てられたぼくが、この人生で手に入れた唯一の、そして最高の宝物だから。

【現在の外見推定年齢:17歳】

(※追記:エイリーンは推定、生後10ヶ月。彼女の瞳から、時折、かつての聡明な光が瞬くように見えるのは、ぼくの淡い期待が見せる幻覚だろうか。ぼくたちの時計は、もうすぐ『零』を指そうとしている)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ