第4話:鏡合わせの奇跡と、沈黙の共鳴
19XX年 12月 5日(土) 雪の気配がする曇り空
信じられないことが起きた。いや、この人生そのものが信じがたい連続なのだが、今夜の出来事はぼくの魂を根底から揺さぶった。
数日前、ぼくが救った少女の様子を案じて、ぼくは再びエイリーンのシェルターの近くまで足を運んだ。今のぼくは、30代前半の血気盛んな若者の姿だ。かつてライアンの小屋で粥を啜っていたあの老人の面影は、もうどこにもない。
エイリーンに正体を悟られぬよう、ぼくはフードを深く被り、物陰から彼女たちの様子を伺っていた。
そこで、ぼくは見てしまったのだ。
シェルターの入り口で、一人の行き倒れの老人が激しく咳き込み、地面に伏していた。エイリーンは駆け寄り、周囲に誰もいないことを確認すると、迷いなくその老人の胸に手を当てた。
ぼくの掌が疼いた。
彼女の指先から、ぼくが知っているあの「白い光」が溢れ出したのだ。
老人の顔から死相が消え、呼吸が穏やかになっていく。それと引き換えに、エイリーンの肩が激しく震え、彼女を包む空気が歪んだ。
「……っ、はぁ、はぁ……」
光が収まったとき、彼女の立ち上がる動作は、さっきよりも明らかに軽やかだった。
彼女が顔を上げた瞬間、ぼくは息を呑んだ。
数日前、ぼくがスープを馳走になった時の彼女は、穏やかな慈愛を湛えた「40代の婦人」だった。だが今、月光に照らされた彼女の肌は陶器のように滑らかになり、瞳には瑞々しい輝きが宿っている。
鏡を見るまでもない。彼女は今、20代半ばの「娘」へと若返っていた。
「そこにいるのは……ケネスね?」
彼女は振り返らずに言った。ぼくは隠れるのをやめ、震える足で彼女の前に進み出た。
「なぜ、ぼくの名前を」
「あの少女が言っていたわ。コーヒーのような、温かい匂いのする不思議なおじさまが助けてくれたって。……そして今のあなたの匂いは、その時のあなたよりもずっと『若い』」
彼女は悲しげに微笑んだ。その顔は、今のぼくよりもさらに若く、美しい。
「あなたも、同じなのね。誰かを救うたびに、自分の時間を削り取られている」
ぼくたちは、ダブリンの冷たい石畳の上で、互いの異形を見つめ合った。
彼女の話によれば、彼女もまた、物心ついた時にはすでに老婆の姿だったという。彼女はこの力を「神の贈り物」ではなく「命の負債」だと呼んだ。
ぼくたちは、生まれてから一度も「成長」をしたことがない。ただ、ひたすらに「退行」し続けているのだ。
「ケネス、気をつけて。この街には、私たちの『光』を嗅ぎ回る者たちがいる。彼らにとって、私たちはただの『減らない若さの薬』に過ぎないの」
エイリーンの言葉に、背筋が凍った。
ぼくは平凡でありたかった。誰にも知られず、静かに消えていきたかった。
だが、同じ呪いを背負う彼女と出会ってしまった今、ぼくの時計はただ逆走するだけでなく、何者かに狙われる「獲物」としての秒読みを始めたのだ。
彼女の手を握ったとき、その温かさは驚くほど力強かった。
けれど、その掌が、いつか完全に消えてなくなる日のことを考えると、ぼくは涙を禁じ得なかった。




