第3話:路地裏の聖母と、震えるペン先
19XX年 11月 28日(土) 凍てつくような月夜
ダブリンの寒さは、骨の芯まで浸透してくる。
今夜、ぼくは自分の「若返り」が加速していることに気づいた。誰の手も借りていないというのに、朝起きて髭を剃るたび、剃刀を当てる面積がわずかに減り、肌の弾力が増している。
ぼくの時間は、もはや緩やかな坂を下るのではなく、重力に従って滑落しているかのようだ。
そんなぼくの前に、彼女が現れた。
名前はエイリーン。ダブリンの北側、最も貧しい路地裏で、身寄りのない老人や病人を集めて世話をしている女性だ。
彼女に出会ったのは、ぼくが空腹と寒さに耐えかね、教会の裏に座り込んでいた時だった。
「あなた、顔色が悪いわ。温かいスープがあるけれど、飲むかしら」
彼女が差し出したボウルから立ち上る湯気は、かつてライアンが淹れてくれた粥と同じ匂いがした。
エイリーンは、ぼくを「訳ありの失業者」だと思っているようだ。
彼女の運営するシェルターは、お世辞にも清潔とは言えないが、そこには確かに「生」の匂いがあった。そして同時に、色濃い「死」の気配も。
「……あの子、もう長くないかもしれない」
エイリーンが悲しげに視線を送った先には、ベッドの上で激しく咳き込む幼い少女がいた。肺を病んでいるのだろう。この街の貧困層を容赦なく蝕む、ありふれた、しかし残酷な病だ。
ぼくは、その光景を黙って見ていることができなかった。
平凡でありたい。目立ちたくない。
そう願えば願うほど、この忌々しい「癒やしの力」が、ぼくの掌の裏で疼きを増す。
もし、この子の肺を癒やせば、ぼくの体はどうなる?
今のぼくは、おそらく40代の前半。働き盛りとして、この街でひっそり暮らすには一番いい年齢だ。
だが、この力を放てば、ぼくは瞬く間に「若者」という名の未知の領域へ放り出されるだろう。
ぼくはエイリーンが部屋を出た隙に、少女の枕元に立った。
少女の細い指が、ぼくの上着の袖を弱々しく掴む。
「おじさん、だれ……?」
その掠れた声を聞いた瞬間、ぼくの理性が負けた。
掌をかざす。
白い光が、暗い部屋を薄く照らし出した。
今回のは、今までの怪我とは次元が違った。体内の病魔を焼き払うためのエネルギーは、ぼくの背骨を砕くような衝撃として跳ね返ってきた。
熱い。喉の奥からせり上がる熱を、ぼくは必死に飲み込んだ。
少女の呼吸が、劇的に整っていく。頬に赤みが差し、死の影が消えていく。
ぼくは倒れ込むようにして、部屋を後にした。
エイリーンの呼ぶ声が後ろで聞こえたが、振り返ることはできなかった。
今のぼくの顔を、彼女に見せるわけにはいかないからだ。
宿に戻り、割れた鏡を覗き込む。
そこには、鋭い顎のラインと、精悍な眼差しを持つ「30代の男」が立っていた。
たった一晩で。
たった一人の少女の命を繋ぐために。
ぼくは、人生で最も貴重な「成熟した大人」の時期を、数分間のうちに使い果たしてしまったのだ。
筆跡が変わってきている。
以前よりも筆圧が強く、スピードが速い。
ぼくの知能や記憶はまだ「老人」のままだが、この肉体が発する若さのエネルギーが、ぼくの精神を浸食し始めているのを感じる。
エイリーン。彼女の優しさに触れていたいと願ったけれど、ぼくが彼女の前に居続けることはできない。
次に彼女に会うとき、ぼくは彼女の「弟」のような年齢になり、やがては「息子」のような年齢になってしまうのだから。
【現在の外見推定年齢:34歳】
(※追記:鏡の中の男は、ぼくが一生のうちで一度も経験したことのない、眩しいほどの『全盛期』を迎えている。それが何よりの、死の宣告に思えてならない)




