第2話:施しの代償と、加速する時計
19XX年 11月 15日(日) 霧の深い夜
ダブリンの街は、霧と煙突の煙に抱かれ、鉄の匂いがした。
ライアンの小屋を飛び出してから二週間。ぼくは名前も知らない裏通りの、廃屋のような下宿に身を寄せている。
ポケットにあるのは、ライアンが持たせてくれたわずかな硬貨と、この一冊の手記だけだ。
ぼくの体は、相変わらず奇妙なリズムで時を刻んでいる。
今朝、洗面器の濁った水に顔を映して驚いた。瞼のたるみが消え、首筋の深いシワも薄くなっている。
鏡の中の男は、もう「老人」とは呼べない。白髪混じりの、だが眼光の鋭い、50代後半の働き盛りの男に見える。
誰かを癒やさずとも、ぼくの時間は少しずつ、確実に逆流しているのだ。
だが、その逆流を「奔流」へと変えてしまう力が、この掌には宿っている。
昨日、下宿の向かいにある路地で、一人の少年が荷馬車に撥ねられるのを見た。
足の骨が砕け、少年の叫び声が霧の街に響き渡る。周囲には野次馬が集まったが、誰も貧しい靴磨きの少年のために医者を呼ぼうとはしなかった。
ぼくは、通り過ぎるべきだと自分に言い聞かせた。
平凡に、静かに、目立たずに。そう願ったはずだった。
けれど、少年の絶望に満ちた瞳を見た瞬間、ぼくの足は勝手に泥濘を蹴っていた。
「いいかい、すぐに終わるから。動かないで」
ぼくは少年の砕けた足に、そっと掌を重ねた。
また、あの感覚がやってきた。
内臓を熱い鉄の棒でかき回されるような、耐え難い苦痛。
指先から漏れる光が少年のズボンの裂け目を満たし、砕けた骨がカチカチと音を立てて接合されていく。
少年の苦悶の表情が、一瞬で安らかな驚きへと変わる。
「……あ、足が。痛くない」
少年が立ち上がり、信じられないものを見る目でぼくを見上げた。
それと同時に、ぼくの視界がぐらりと揺れた。
激しい眩暈。肺から空気がすべて押し出されたような感覚。
ぼくは壁に手をつき、荒い呼吸を繰り返した。
下宿に戻り、再び鏡を見る。
……恐ろしかった。
朝、50代後半だったはずの顔は、今や50代の入り口、いや、下手をすれば40代の後半まで若返っていた。
たった数秒の「奇跡」と引き換えに、ぼくはまた、自分の人生の10年分を投げ捨ててしまったのだ。
ぼくが「大人」でいられる時間は、そう長くはないだろう。
このまま誰かを助け続ければ、ぼくはあっという間に若者になり、子供になり、そして言葉を紡ぐことすらできない幼児になってしまう。
その時、この手記はどうなる? ぼくの意識はどうなる?
恐怖でペンを握る手が震える。
だが、あの少年が笑顔で走り去った姿を思い出すと、どうしても自分の選択を呪い切れないのだ。
ぼくは平凡な男だ。特別な使命も、高潔な志もない。
ただ、目の前で泣いている誰かを無視できるほど、ぼくの心は図太くはなれなかった。
それがこの異形の一生の、最大の不運なのかもしれない。
街では「奇跡の手を持つ中年の紳士」の噂が広まり始めている。
ぼくは、その噂から逃げるように、帽子を深く被り、襟を立てて夜の街を歩く。
次に出会う誰かが、ぼくの時間をさらに奪いに来るのを待ち構えているかのように。
【現在の外見推定年齢:48歳】
(※追記:髪から白髪が完全に消えた。かつての母が望んだであろう「若さ」が、今はただ、ぼくを追い詰める凶器にしか見えない)




