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白紙の残響  作者: 水前寺鯉太郎


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第2章 第3話:潮騒の告白、重なり合う鏡像


一九七二年 八月二十五日。

宮崎の風は、湿り気を帯びて肌にまとわりつく。

民宿『潮騒』の離れでは、言葉にならない「奇跡」と、それに伴う「喪失」が静かに、しかし凄まじい速度で進行していた。

ケネスが地元の老人たちに手をかざし、彼らの苦痛を自らの時間へと変換したあの夜から、歯車は狂い始めた。ケネスを癒やしの神と崇める村人たちの喧騒を逃れ、拓真は二人を青島のさらに奥、生い茂るビロウ樹の森に隠された古い堂へと移した。

「……ケネス、大丈夫か」

拓真の問いかけに答える声は、もう完全に少年のものだった。

今のケネスは、推定年齢十二歳。小学校を卒業したばかりのような、あどけなさが残る顔立ちだ。しかし、その瞳の奥には、八十年の歳月を生き抜いた老人の知恵が、薄氷のように危うく留まっている。

だが、今この瞬間、拓真の目を釘付けにしたのはケネスの変化ではなかった。

「……あ、……あ……」

部屋の隅で、崩れるように座り込んでいた「老婆」が、激しく喘いでいた。

エイリーンだ。

ケネスが他者の苦痛を吸い取った共鳴現象なのか、あるいは彼が若返ることで二人の「時間の磁場」が強まったのか。彼女の全身を、あの白い光が包み込んでいた。

パキパキと、骨が組み変わるような音が静寂の中に響く。

深い溝のように刻まれていたシワが、まるで魔法の消しゴムで消されたかのように滑らかになり、真っ白だった髪には、かつてのダブリンで見たような美しい色が戻り始める。

「っ、エイリーン!」

ケネスが駆け寄り、彼女の肩を抱いた。

その瞬間、彼女の背筋が伸び、重力に負けていた四肢に力が宿る。

九十歳の老婆だった彼女は、数分のうちに七十代、五十代、そして……。

「……ケネス……? あなた、なのね」

彼女が顔を上げたとき、そこには三十代半ばの、理性的で美しい大人の女性がいた。

エイリーンが、言葉を取り戻したのだ。

五十年前のロンドンで乳幼児となって消えた彼女が、今、日本の古びた堂の中で、かつての知性を取り戻して微笑んでいた。

「エイリーン……ああ、エイリーン」

ケネスは泣きじゃくりながら、彼女の胸に顔を埋めた。

かつては彼が老人で、彼女が若者だった。

次は彼が青年で、彼女が乳幼児だった。

そして今、彼は「十二歳の子供」であり、彼女は「三十代の大人」として、再び互いの年齢がすれ違っていく。

「泣かないで、ケネス。やっと……やっと、あなたの名前を呼べたわ。……たとえ、この声がまたすぐに幼くなってしまうとしても」

エイリーンは、子供の姿になったケネスの頭を優しく撫でた。

その光景は、一見すれば母と子のようだったが、流れる空気は紛れもなく、時を越えて再会した恋人たちのそれだった。

しかし、再会の喜びを噛みしめる時間は、あまりにも短い。

彼女が言葉を取り戻すほどの「急激な若返り」は、同時に彼女の残り時間を猛烈に削り取っていることを意味していた。

彼女の手首は、見る間に細くなり、知的な瞳には少女のような無垢さが混じり始めている。

「拓真さん、お願い。私たちを……このまま、誰もいないところへ」

エイリーンは、傍らに立つ拓真を見上げて言った。

「私たちの時間は、もう止まらない。誰かを救わなくても、互いを想うだけで、私たちは消えてしまう……。この『呪い』を、どうか最後まで見届けて」

拓真は、浮き上がる日記の文字をなぞるように、震える手で二人の姿をカメラに収めた。

白紙だった日記には、今、日本語で新しい一行が刻まれている。

『一九七二年。宮崎。ぼくたちは、ようやく同じ世界の空気を吸い、互いの名を呼んだ。だが、神様は一度も、ぼくたちに「同じ年齢」であることを許してはくれない』

その時、森の入り口で、カラスが不吉に鳴いた。

新興宗教『カラスの眼・日本支部』の信者たちが、青島の森を包囲し始めていた。彼らにとって、若返り続けるエイリーンとケネスは、教祖の永遠の命を保証する「生け贄」に他ならない。

「……来るわ」

エイリーンが立ち上がった。その身長は、先ほどよりもさらに数センチ低くなっている。

彼女は、もう二十代の娘へと若返り始めていた。

【現在の外見推定年齢:ケネス 12歳 / エイリーン 26歳】

(※追記:筆跡が丸みを帯びてきた。エイリーンの声が、少しずつ高くなっていく。ぼくたちは今、ようやく「人生の真ん中」ですれ違おうとしている。どうか、あと少しだけ。彼女がぼくを忘れる前に、もう一度だけ、対等な愛を語らせてくれ)

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