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白紙の残響  作者: 水前寺鯉太郎


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第2章第2話:神隠しの宿、重なり合うシワ


一九七二年 八月二十日。

拓真が二人を民宿『潮騒』の離れに連れ帰ってから、三日が過ぎた。

民宿の女将には「親戚の訳ありの兄弟だ」と適当な嘘を吐いたが、その嘘がいつまで持つかは分からない。何しろ、目の前にいる二人の存在そのものが、この世の物理法則を根底から覆しているのだから。

「……ケネス、本当に君なのか」

拓真は、縁側に座る青年を見つめながら問いかけた。

青年の姿をしたケネスは、麦わら帽子の影から海を見つめている。彼の肌は、三日前よりもさらに瑞々しく、声はさらに高くなっている。今の彼は、大学一年生の拓真よりも年下、十七、八歳の少年にしか見えない。

「ぼくの魂は、あのロンドンの地下水道で一度死んだはずだった」

ケネスは日本語で答えた。その言語は、彼が日本に辿り着いてから、拓真の記憶や周囲の音を「癒やしの力」の応用で吸い取り、数日で習得したものだ。

「だが、気づけばこの島にいた。この白いノートと一緒に。そして、彼女も」

ケネスが視線を向けた先。部屋の奥の暗がりに、あの老婆がいた。

エイリーン。

かつてロンドンで、誰よりも先に「無」へと還ったはずの女性。

彼女は今、推定年齢九十歳の老婆として、この日本に産み落とされた。そしてケネスと同じように、彼女もまた若返り始めている。

しかし、彼女の若返りは、ケネスのような「癒やし」の代償ではない。

彼女が若返るための燃料は、**「ケネスとの距離」**だった。

二人が近づけば近づくほど、互いの時間が共鳴し、逆走の速度を上げてしまう。

「あ、あ……」

老婆の姿のエイリーンが、カサカサに乾いた手をケネスの方へ伸ばす。

ケネスがその手を握ると、パチリと静電気のような火花が散り、エイリーンの深い額のシワが一つ、スッと消えた。引き換えに、ケネスの身長がわずかに縮む。

「……触れてはいけないんだ、本当は」

ケネスは悲しげに笑った。

「愛し合おうとすれば、ぼくたちはあっという間に子供になり、またあの『無』へと突き落とされる。この輪廻は、ぼくたちが触れ合うことを禁じているんだよ」

拓真は、その光景をただ見ていることしかできなかった。

彼が拾ったあの白紙のノートには、今や拓真が読み進める速度に合わせて、新たな日本語のページが刻まれ始めている。

そんな中、民宿の玄関先で騒がしい声がした。

「おい、ここに『若返りの神様』がいるってのは本当か!」

拓真が表に出ると、そこには杖を突いた地元の老人たちが数人、血眼になって立っていた。

三日前、拓真の腕の火傷が消えたのを、近所の漁師が目撃していたのだ。

宮崎の、信心深く、そして閉鎖的なこの村において、「奇跡」の噂が広まるのは、ロンドンの霧の中よりもずっと早かった。

「おらんよ、そんな神様。見間違いだ」

拓真は必死に追い返そうとしたが、老人たちの欲望は、死への恐怖と表裏一体だった。

「嘘をつけ! あの若か男に触ってもうたら、腰の痛みが消えたって評判じゃ」

拓真は背後に冷たい汗を感じた。

もし、この老人たちをケネスが癒やしてしまえば。

一人癒やすごとに、ケネスはまた十年の時間を失う。

そしてエイリーンとの距離が縮まれば、彼女もまた、大人の知性を得る前に子供へと戻ってしまう。

「拓真さん、いいんだ」

背後で、障子が開く音がした。

そこには、夕日に照らされた「十五歳の少年」の姿をしたケネスが立っていた。

その瞳は、あまりにも深く、あまりにも優しく、そして……あまりにも絶望に満ちていた。

「ぼくは平凡な男だ。だから、目の前で痛みに震える人を、見捨てるすべをまだ知らないんだよ」

ケネスが、震える老人の方へと一歩踏み出した。

その瞬間、青島の空を、不吉なカラスの群れが覆い尽くした。

五十年前、彼らを追い詰めた『カラスの眼』の影が、形を変えてこの極東の地にも伸びてきていることを、拓真はまだ知らなかった。

【現在の外見推定年齢:15歳】

(※追記:筆跡が乱れている。少年の全能感が、脳内の老人の記憶をかき消そうと暴れている。エイリーン……君が二十歳になる頃、ぼくは何歳になっているだろうか。ぼくたちは、一度でいいから『同じ年齢』として、この手で抱き合えるのだろうか)

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