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白紙の残響  作者: 水前寺鯉太郎


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第2章第1話:青の境界、白紙の呪縛

一九七二年 八月。宮崎、青島。

宮崎の夏は、暴力的なまでの白光に満ちている。

空は高く、深く、どこまでも透き通った青を湛え、そこから降り注ぐ陽光は、路上のアスファルトを陽炎に変え、人々の影を墨のように濃く塗りつぶしていた。

大学生の秋月拓真あきづき たくまは、民俗学の教授から与えられた「沿岸部の伝説と漂着神」という地味な研究テーマのために、この地を訪れていた。青島。周囲一・五キロメートルほどの小さな島を囲むのは、「鬼の洗濯板」と呼ばれる波状岩だ。干潮時、それは巨大な化石の肋骨のように海から突き出し、異様な威容を誇っている。

拓真はカメラを肩にかけ、岩場の水溜りを確認しながら歩いていた。潮溜まりには小さなカニや小魚が取り残され、夏の終わりを予感させる生温い風が吹き抜ける。その時だった。

岩と岩の深い隙間に、不自然に白い「塊」が挟まっているのが見えた。

最初は、誰かが捨てた弁当の殻か、あるいは海辺に特有のゴミだと思った。しかし、手を伸ばして引き抜いたそれは、塩分でガサガサに乾き、表紙がひどく波打った一冊のノートだった。

「……外国の、本か?」

表紙は厚手の革製だったようだが、海水に長期間浸かっていたせいか、色は褪せ、あちこちが剥げ落ちている。しかし、その中央に刻印された金色の文字だけは、異様な執念でそこに留まっていた。

『Kenneth Zechariah Woolf』

ケネス・ザカライア・ウルフ。

この南国の明るい島には、およそ似つかわしくない、湿り気を帯びた異国の名だ。拓真は奇妙な胸騒ぎを覚えながら、そのノートを持ち帰り、下宿先の古びた民宿の一室で机に広げた。

畳の上に置かれたノートは、潮の匂いと、微かな焦げたような匂いを放っていた。拓真が慎重に、壊れ物を扱うようにして最初のページをめくった時、彼は呆気にとられた。

真っ白だった。

次のページも、その次のページも。

全ページ、インクの一滴も、鉛筆の跡一つ残っていない。ただ、波打ち、黄ばんだ紙が続いているだけだ。

「なんだ、ただの白紙か……。でも、あの表紙の名前は一体」

拓真は期待外れの結果に息を吐き、煙草に火をつけようとした。マッチの炎が、夕暮れの薄暗い室内で小さく揺れる。その火影が、ふとノートの紙面をなめた、その瞬間だった。

紙の奥底から、まるで「血」が滲み出すように、文字が浮き上がってきたのだ。

「……うわっ!」

驚いてマッチを落としそうになりながら、拓真はノートを凝視した。

浮き上がったのは、美しいがどこか悲鳴を孕んだような英語の筆跡。そして、信じられないことに、その文字は拓真の視線に触れた瞬間、意味が脳内に直接「音」として流れ込んできたのだ。

『……ぼくの名前は、ケネス・ザカライア・ウルフ。ぼくは、老人の姿で産み落とされた……』

拓真の背筋に、氷を流し込まれたような寒気が走った。

外は三十度を超える熱帯夜だというのに、部屋の温度が急激に下がっていく。ノートの中の声は、枯れた老人のようでありながら、次第に澄んだ少年のものへと、聞いているそばから「若返って」いくように聞こえる。

『誰かを救えば、ぼくは若返る。若返ることは、ぼくがぼくであることを失うことだ……。エイリーン、君はどこにいる? 君が消えたあとの世界は、あまりに白すぎる……』

「エイリーン……?」

拓真は吸い寄せられるように、ページをめくり続けた。

ロンドン、霧、乳幼児になって消えた女性、そしてテムズ川への投身。

それは五十年前、遠く離れた異国で起きた「逆行する一生」の悲劇的な記録だった。

なぜ、そんなものが宮崎の、この青島に流れてきたのか。

五十年の歳月を経て、なぜ今、自分の前で沈黙を破ったのか。

拓真は逃げるようにノートを閉じ、外へ飛び出した。

冷たい夜風を求めて砂浜へ向かう。月明かりに照らされた青島は、まるで巨大な墓標のように海に浮かんでいた。

そこで、拓真は見てしまった。

砂浜の波打ち際。鬼の洗濯板の岩影に、二人の人物が立っていた。

一人は、浴衣を無造作に着崩した、精悍な顔立ちの青年だ。二十歳そこそこに見えるが、その瞳には二十歳の若者が持ち得ない、深淵のような虚無が宿っている。

そしてその隣には、彼の手を引くようにして立つ、腰の曲がった小柄な**「老人」**がいた。

老人はボロボロの、しかし高価そうな刺繍が施されたドレスの残骸を纏い、顔中は深いシワで覆われている。その瞳は濁り、一点を見つめたまま動かない。

「……ケネス……?」

拓真の口から、無意識にその名が漏れた。

青年がゆっくりと首を巡らせ、拓真を見た。その瞬間、拓真の右腕に熱い衝撃が走った。幼い頃、火事で負った消えることのないはずの火傷の痕が、青年の視線を受けただけで、淡い光とともに収縮し、滑らかな肌へと戻っていく。

「っ、ああっ!?」

拓真は自分の腕を見て絶叫した。奇跡だ。いや、これは呪いだ。

拓真の傷が消えたのと引き換えに、青年の頬に赤みが差し、その体躯がわずかに縮んだ。彼は数年分の時間を、今、拓真のために「支払い」、さらに若返ったのだ。

「そのノートは、ぼくらが捨ててきた『絶望』だ」

青年――ケネスは、かつての手記に記されていたものと同じ、高く澄んだ声で言った。

「読んではいけない。それは、これから始まる『無』の始まりに過ぎないのだから」

ケネスの隣にいる老人は、掠れた声で何かを呟いた。それは、五十年前のロンドンで消えたはずのエイリーンの名だったのか。あるいは、再び「死」から始まり「生」へと逆走し始めた、新たな呪いの始まりなのか。

宮崎の青島。神話が息づくその地で、封印されていた「時間の逆流」が、再び口を開けた。

拓真が拾った白紙のノートは、もはや単なる記録ではない。それは、ケネスたちが歩む「二度目の逆行」に、拓真という観測者を巻き込むための招待状だったのだ。

夜の波音が、手記の空白を埋めるように激しく鳴り響いていた。

【現在の外見推定年齢:19歳】

(※追記:宮崎の太陽は明るすぎる。エイリーン……君が今度は、ぼくを看取る『老婆』として現れたのだとしたら、神様はどこまで意地悪な脚本を書くのだろうか)

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