第1話:枯れた産声、最初の奇跡
19XX年 11月 2日(月) 嵐のち停電
この手記を書き始めるのは、ぼくが正気であることの証明が必要だからだ。
今、ぼくの目の前には、ぼくを拾ってくれたライアンの古い鏡がある。そこに映っているのは、つい数日前まで死を待つばかりだった「老いぼれの怪物」ではない。
ぼくの名前はケネス・ザカライア・ウルフ。
母がぼくを産み落とした夜、彼女が悲鳴を上げた理由を、ぼくは恨んではいない。
産婆の腕に抱かれたぼくは、赤ん坊らしい瑞々しい肌など持たず、深いシワと、白濁した瞳、そして数本の頼りない白髪を湛えた、紛れもない「老人」だったからだ。
ぼくは誕生した瞬間に、人生の終着点に立っていた。
醜い。その一言で、ぼくはダブリンの冷たい泥濘の中に捨てられた。
死ぬのは怖くなかった。そもそも、ぼくの体は最初から死に向かっているように見えたから。
だが、運命はぼくを死なせなかった。古道具屋を営むライアンという男が、ぼくを「行き倒れの老人」だと思い込み、小屋へ運び込んだのだ。
「おい、じいさん。粥だ。食えるか?」
ライアンは不器用な男だった。ぼくが言葉も話せぬ赤ん坊のような知能(あるいは、あまりに老いすぎて言葉を失った状態)であることを知りながら、根気強く世話をしてくれた。
ぼくは彼の小屋で、古いゼンマイ時計や煤けたランプに囲まれながら、少しずつ「人間」としての呼吸を覚えた。
そして、奇妙なことが起こり始めた。
日に日に、ぼくの視界がクリアになっていくのだ。膝の痛みは消え、深いシワの溝が、まるで砂浜の足跡が波に洗われるように、薄くなっていく。
ぼくは老いて死ぬのではなく、若返っていた。
普通の人間が未来へ向かって坂を下るなら、ぼくは過去に向かって坂を登っている。
今日、決定的なことが起きた。
ライアンが作業中に、錆びた鉈で自らの脛を深く切り裂いた。
鮮血が小屋の床に広がり、彼は呻き声を上げて倒れた。医者を呼ぶ時間はなかった。
ぼくは無我夢中で彼の傷口に手を当てた。平凡な、ただ恩人を助けたいという一心で。
その瞬間、ぼくの掌が、見たこともない柔らかな光を放った。
それと同時に、ぼくの全身を凄まじい熱さが貫いた。心臓が早鐘を打ち、全身の細胞が急激に組み変わるような、恐ろしい感覚。
気がつくと、ライアンの傷跡は跡形もなく消えていた。
代わりに、ぼくの手にあったシミが消え、髪には艶やかな黒が混じっていた。
鏡の中のぼくは、今や70代後半から、60代半ばまで若返っている。
たった一度の「奇跡」の代償として、ぼくは自分の時間を10年以上も消費——いや、逆走させてしまったのだ。
「……ケネス? お前、その顔は……」
目を覚ましたライアンが、恐怖に顔を歪める。昨日まで共に粥を啜っていた「じいさん」が、一晩で十歳以上若返ったのだ。無理もない。
ぼくは、何も言えずに小屋を飛び出した。
ぼくは、平凡に生きたいだけだった。
ライアンと一緒に、静かに老いて、いつかこの命が尽きるのを待ちたかった。
それなのに、ぼくの体は止まらない。
誰かを助けるたびに、ぼくは「大人」の時間を奪われ、無力な「子供」へと押し戻されていく。
今夜、ぼくはダブリンの街を目指して歩き始める。
この手記が、いつかぼくが言葉を失うほど若返ってしまった時の、唯一の道標になると信じて。
【現在の外見推定年齢:64歳】
(※追記:足取りは驚くほど軽い。それが、ひどく悲しい)




