上・破
「正確には違いますがね」
沙千也に「伊勢の部下か」と問われた運転手は曖昧に笑うと、運転しながら話を続ける。
「大田さん、あなた素人にしては中々お上手ですよ。ですが、ちゃんと教えて貰っていないようですので、少しだけお教えしましょう。嘘を付くときには一瞬たりとも顔を下げてはいけない。それと事前に用意していないストーリーを話すときは、出来るだけ短く済ませて話を拡げないこと。相手の質問にはその質問の答えだけを話し、相手の話に乗らない。天性の嘘吐きなら大風呂敷を広げてもいいが、貴方は普通の人に見える。話せば話すほどボロが出て来るというものですよ」
沙千也が思わず天を仰ぐ仕草を見せると、沙由妃が隣でクスクス笑った。沙千也は隣を睨み付けると、
「知っていたのか」
「もちろん」
運転手も笑うと、
「大田さん」
「はい」
未だ大田という名前に違和感ありまくりの沙千也だったが、問い掛けには素直に頷いた。
「突然こんな世界に放り込まれて大変だとは思います。でも、ここは真剣にやらないと人が死にますよ。もちろん自分が死ぬことだってある。その死は人知れず葬り去られる場合も多い。警察も捜査しない。あなたが飛び込んだのはそういう世界だ」
沙千也に考える間を与えると運転手は続けて、
「とは言うものの、あなた方は最大限の支援をうけますし、いざとなったら警察に駆け込んでもいい。普通は支援を求めてはならない掟がありますが、あなた方には適用されない。だからそんなに深刻になる必要はないし、請われたことを自分の出来る範囲でこなしていればきちんと達成されます。いいですね?疑念や怒りはあるでしょうが、今は我慢してください。余計なことを考えないこと。そうしないと本当に死にますよ」
「わかった」
「では、あなたの乗る特急は?」
「十時一分発、六号車十三のAとB」
「中々宜しい。その調子です」
駅のタクシー降車場で運転手によりトランクから引き出されたのは、少し大きめのボストンバッグとスーツケースだった。スーツケースを沙由妃が転がし、ボストンバッグを沙千也が下げる。運転手は車窓から恭しく頭を下げると何処へとも知れず走り去った。
すれ違い様の手渡し。よくスパイの登場する映画に出てくるが、席に座るまで沙由妃が特急券を受け取った様子は伺えなかった。すれ違った人間は多かったが、どれも危ないことに従事しているように見えない。いや、見えたら拙いが、と沙千也は思ったが、席に座るなり手にチケットを押し付けた沙由妃を思わず見遣り、改めてとんでもない世界に入り込んだ自分を意識するのだった。
車中での沙由妃は実に楽しげで、それは兄妹の演技が続いているだけではないように思えた。車内販売がやって来ると彼女は少々はしゃぎ過ぎと思えるほど大きな声で呼び止め、ウーロン茶と沙千也にはコーヒーを買う。頼みもしないのに、と思っていると沙由妃は続けて、
「これもちょうだい」
販売のカーゴに下がっていた車内販売係の格好をしたネコのキャラクターを取る。車内限定発売の文字が大きい。
「他にありますか?」
アテンダントが尋ねたのは色々買ってくれるカモだと思われたからではなく、沙由妃が支払う素振りを見せなかったからで、沙千也は鼻を鳴らすと札入れから一万円札を引っ張り出した。自分の金でないことが奇妙な慰めだった。
「楽しそうだな」
アテンダントが去ると、沙千也は声を潜ませ窓際の少女へ問い掛ける。
「楽しいよ」
それは演技でもなんでもなく普段の沙由妃そのままの声音だった。
「いいのか、演技を続けなくて」
「別に」
ウーロン茶をストローで飲みながら、ネコのキャラクターを弄くっている。その姿はつい先ほどまでのはしゃぎようが嘘のようだ。沙千也はさり気なく周囲を窺う。車内の席は半分ほど埋まっていたが、彼らの前後3列には人がいなかった。
「心配か?」
「俺が?別にお前がよければいいよ」
「怪しいやつはいないよ。多分他の車両におっちゃんの部下がいるだろうけど」
つまらなそうにそう言うと、アテンダントのネコを窓際に座らせる。一瞬、いつものように脚を席に上げて抱えようとする仕草を見せたが、今更ながら自分の格好に気付いたかのように止めた。そんな沙由妃の手持ち無沙汰を見て沙千也は話して見る気になった。
「聞いていいか?」
「なんだ」
「こんなこと、いつからやっているんだ?」
「十三」
「そんな子供の時分から!じゃあ……」
コロシもか、と尋ねかけた寸前で思い留まり、
「じゃあ、親はどうしたんだ」
沙由妃はふっと苦笑する。
「死んだよ、私が十三の歳に」
両親がいないことは、あの最初の出会いで聞いていたので頷くと、
「他に身寄りはいなかったのか?」
「妹弟がいたが、それも両親と一緒に死んだ」
「……何か事故かい?」
「そんなもんだ」
「親戚とかは?」
「ない」
「じゃあ、その時から伊勢が」
「そうだよ」
沙由妃は再び苦笑すると、
「お前、尋問みたいだな」
「ごめん。すまなかった」
例えドライな沙由妃でも、身内を一気に亡くした話を聞き出したことには少々罪悪感を覚える沙千也だった。
「いいってことよ。今まで何も話していなかったからな」
沙由妃はちらっと沙千也の顔を見てから視線を外す。
「お前は?」
「え?」
「お前も親がいないと言っていた」
「ああ、子供の時、親が離婚して父と暮らしていた。父は去年病気で死んだよ。母は再婚して最近は連絡を取っていない」
「そう」
沙由妃はそれきりマスコットを触りながら窓の外を見続けた。随分長い間黙っていたがやがて、
「駅の外に迎えが来るそうだ」
いきなりだったので一瞬情報を吟味する間の後、沙千也は、
「伊勢か?」
「その配下だと思う。おっちゃんは意外とお偉いさんなのな、そんなに出てこない」
「そうか」
「その後、指示が出ると思う」
「お前さあ」
「何だ」
「何回目だ、こういうの」
沙由妃はふっと笑むと、
「そんなこと気にしてどうする」
「いや、あの」
沙千也は何と言うか考えを纏めると、
「こんな事がずっと続くのか、と思ってさ」
「お前にとっては始まったばかりだろう?」
「それはそうだけど」
「まあ、確かに何時まで続くのか、と思うよな。でもね、沙千也。良く考えてみろよ」
沙由妃はすっと視線を沙千也に向ける。少し濃い目の化粧は彼の知る沙由妃とは思えない。勿論、たった二週間程度の付き合いだったので、こういう姿が普通なのかも知れないとは思った。しかし、化粧はしていてもその目は最初の出会いで彼が感じたそのままだった。底知れぬ深さと見透かされるような強さと。
「おっちゃんたちは国家権力とかいうやつだ。今まで聞いたことがなかっただろう?国がこんなことをしているなんて。噂になったら否定するだろうし、本当に知られたらお偉いさんが何人もクビになるだろうし、おっちゃんは逮捕されるだろうよ。そんな危ない橋を渡っている連中に使われているんだ、簡単に自由にすると思うか?」
沙由妃の言う通りだった。
「じゃあ、死ぬまで自由はないのか?」
「そんなことはないよ、沙千也」
沙由妃は無表情のまま、つと視線を外すと、
「逃げ廻ればいい」
「そんなこと出来るのか?」
「大変だろうな。外国人にも那真会はあるから、海外逃亡でもしてどっかの危ない国やマフィアみたいなのに雇って貰って護って貰う、そういう手もあるよ。きっと喜んで匿ってくれるだろうよ」
沙千也は力なく首を下げ、沙由妃は苦笑する。
「まあ、先のことは先のことだ。余りくよくよするなよ」
駅の改札を出ると、二人は混雑したコンコースをゆっくりと歩いて行った。デパートや飲食店、家電量販店の立ち並ぶ街路を歩き、バスのターミナルやタクシー乗り場を過ぎ、長距離バスの発着場に来ると沙由妃は一台のバスを指差す。
「お兄ちゃん、これこれ!」
兄妹の演技に戻って沙千也のジャケットを引っ張ると、発着場の一番端に停まっていた大型バスに向かう。そこは国際空港行きの臨時バス乗り場でオレンジとクリームカラーのツートンに塗装された良く見かけるリムジンバスに二人は乗り込んだ。バスの座席には二人、初老の男女が離れて座っていて、一番奥はカーテンで仕切られていて後部座席は見えない。沙由妃が運転席真後ろに座ると、沙千也に通路を挟んだ席を勧める。
「荷物はそこに」
沙由妃は後ろの席を示し、自分が持ち込んだスーツケースは通路に寝かせた。するとバスは扉を閉じて発車する。周囲に警戒怠りない沙千也はこの時点で既におかしな点を幾つか見出していた。
「このバス」
沙由妃は問い掛けに肩を竦め、
「そうだよ」
「全くすごいな」
呆れる沙千也だったが、
「でも、通常の空港行きバスにしては怪しい点だらけじゃないか、いいのか?」
「まあ、予算も限られていますから、細かい点は見逃してくださいな、大田さん」
答えたのは初老の男で、彼らの後ろの席へ移動すると白髪頭に乗せた帽子に手を添えて挨拶する。
「後学のために、大田さんの気付いた怪しい点を教えて頂けますか?」
「あなたも伊勢の部下か?」
「の、ような者です。小玉さんのように名乗れませんから、お前でもあんたでも好きなようにお呼び下さい。で、どうですか、このバスは」
沙千也は車内を見渡すと、
「リムジンバスは大きな荷物を車内に持ち込ませない。横にある荷物室に入れるはず。あと、チケットを確認しなかった。臨時バスと言うからには乗客が多いはずなのにたった四人。それに後ろのカーテンみたいなものは見たことがない」
「いいですね、常にそういう観察眼を発揮されることです。我々が少々迂闊なのは予算もありますが、特にあなた方が尾行されたり監視されたりしていないのを確かめた結果、安全と確認されたからでもあります。我々に気付きましたか?」
「あの特急に乗っていたのか?」
「ええ。我々はあなた達の車両一番後ろの席でした。さすがにお話までは聞こえませんでしたが」
「知らなかった。お前もか?」
振られた沙由妃は首を傾げただけだった。男は満足げに頷くと、態度を改める。
「では説明します。一度だけですから良く聞いていてください」
バスは高速道路のバス停で二人を降ろすとそのまま走り去った。残された二人は余り使われる形跡のないバス停から階段を下り、高架下の側道を歩いて行く。
二人の姿は一変していた。バッグとスーツケースに入っていた衣類に後部座席に仕切られたカーテンの裏で着替え、同じく入っていたデイバッグを肩に掛ける。沙千也はシャツとジーンズにグレーのパーカーを羽織り、沙由妃は最初に彼が見た時のようなブラウスにジーンズ、カーディガンに戻った。デイバッグを下げた二人はちょっと見では学生のカップルにしか見えない。
バスを降りて十五分ほど、指示された場所は直ぐに分かった。また、待つまでもなかった。側道は登り下りを繰り返しながら続き、片側が雑木林となった坂の上、錆びたシーソーと滑り台が雑草に埋もれた小公園が見えてくる。その前の朽ちたベンチの前で二人が立ち止って一分ほど。白いワゴンと黒いベンツが彼らのやって来た方向とは逆側からやって来て停まる。ワゴンからスーツ姿の男が四人降り立つとあっという間に二人を囲む。伊勢たちに似ていなくもないな、と沙千也は暢気なことを考えていた。緊張していたが、自分でも驚くほど冷静だった。それは沙由妃も同じで彼の隣、デイバッグを前に降ろした姿は普段と全く変わりがない。その落ち着きが沙千也の緊張を解していたのかも知れない。
「大田健吾だな」
「そうです」
男の一人がそう言うと、値踏みするかのような目付きで上から下まで無遠慮にね目回す。
「で、お前が小玉沙由妃か?」
「そうです」
沙千也が空かさず答えるが、男はきっと睨み付け、
「お前に聞いていない。小玉か?」
男が低い声で聞く。しかし沙由妃は首を振るだけ。落ち着いた声で男に返す。
「申し訳ないが私は故あって名乗れない。代わってこの大田が紹介する」
「あんだと?」
呟くような声だったが、それは人に何かを強制させることに慣れた男に声に他ならない。沙千也の緊張はいやが上にも高まったが、自分がしなければならないことは分かっていた。
「申し訳ありません。彼女は本当に名乗れないのです。ご無礼の数々はお許し下さい」
凄みを利かせた四対の目を意識したが、息を吸い込み一瞬目を閉じ心を静めた後、沙千也は初めて『先触人』としての仕事をした。
「この方は小玉沙由妃。将軍家より賜りし家名、小玉の由来は言霊と伝えられます。その小玉を束ねし本家二十三代目、沙敏の娘にして長子と生まれ、長じて二十四代目となった、それがこの小玉沙由妃にございます」