上・序
「そうだ、ユキにしよう。サユキだ」
男は女に微笑んだ。
「沙は当家長子に授ける仕来り。ユキはサチの意で」
「良い名前です、あなた」
「この逃れ得ぬ定めのなかで、せめて幸せであった、と感じてもらいたいからだ」
はっと、目が覚める。山中の祠、一夜の宿の天井。古い板張りには呪文のような紙魚が浮かぶ。障子貼りの格子窓が月明かりを受け、祠の中は思いの外明るい。
また両親の夢だった。『孤露詞』を行なった日に見ることが多い。その場面は自分がまだ赤ん坊の頃、覚えているはずのない両親の会話。伊勢はそれをトラウマと呼んだが、彼女はそれを否定する。それは自分が亡き両親や妹弟に誓った約束、それを忘れぬために繰り返し訪れる標。彼女は頑なにそう考えていた。
沙由妃は寝袋のジッパーを開け、額の寝汗を払い、身を起こす。殆ど時計代わりにしか使わない携帯を見る。午前三時。まだ一時間は眠っていられる。たとえ起きなくとも必ずやって来る伊勢が起きろと叩き起こすはず。
ふと隣を見る。二メートル離れてもう一つの寝袋、静かな寝息を立てている青年。
(彼は私のこんな一面を知ったらどう思うだろうか?)
*
東京から車で二時間ほど、有名な温泉街にもほど近い山中に、政府某省庁の研修所という目立たぬ看板が古い鉄扉の門柱に掛かる施設がある。入り口は車一台がやっと登れる幅のある急な山道に面してこぢんまりとあった。錬鉄の門を潜ると更に道は九十九に登り、五十メートルばかり先で漸く三階建ての年期の入った旅荘風の建物が見えてくる。
万が一故意にか、偶然にか、門を潜る者があれば、初老の警備員が一人建物から出て来て、関係者以外立ち入り禁止と告げる。それでも粘る者があれば、その後ろからにこやかな笑顔を満面に浮かべた巨漢が二人ほど「お引取り頂けませんか」と出てくるはずである。過去、巨漢が出動するケースは二回、一人はフリーランスのルポライター、もう一人は少し『飛んで』しまった元警視庁公安三課の御仁だったが、両方とも穏便にコトは済み、巨漢が手におえないという緊急事態に陥ったことはない。
そう、ここは研修所とは名ばかり。『啄木荘』は公安調査庁が機密の作戦時に使用する隠処だった。
沙千也が先触人となって二週間、平穏と言えば平穏、暇と言えば暇、そんな毎日を二人は送っていた。当初は緊張気味の沙千也も、ここ一週間程は暇を持て余して、宿舎に隣接するログハウスに作られたジムで身体を鍛えていた。ここは確かに温泉地の保養所と言っても過言でない、どころか、かなり高級な温泉旅館並みの食事と施設が提供されている。
最初に沙千也が受けた二日間に渡る説明会が終わると、後は何もすることがなく、何を求められる訳でもなかった。
施設には娯楽のための用意も豊富にあった。卓球や麻雀、カラオケルームは勿論、小規模のゲームセンターもあり、アーケードゲームやコインゲームが楽しめた。携帯ゲーム機やソフトもふんだんにあり、中には沙千也が予約していた格闘ゲームの新作もあった。勿論、音楽CDやDVDも頼めば用意される。それは単なる大手レンタルショップのものだった。インターネットも使えたが、外への連絡に使えそうなサイトは制限が掛かって閲覧出来なかったので、部屋に用意されていたノートパソコンは殆ど触らなかった。当然のように携帯は最初に取り上げられていた。
何かものを頼む時は、高級ビジネスホテル風の自分の部屋から内線電話で頼む。取り次ぐ声は毎回違う気がしたが、遅くとも翌日までには食事や散歩で部屋を空けた後に置いてあった。飲み物やちょっと小腹が減った時のスナックやカップ麺の用意も部屋にあった。
きっと宝くじで億万長者になったりしたらこんな生活を送る人もいるだろう、と沙千也は思う。自ら意識しなければ寝ては食べての繰り返し。怠惰に過ごせばたちまち太ってしまう。施設の敷地は驚くほど広大だったが、敷地内の小道をゆっくり散歩してもさすがに二十分もあれば一周出来た。敷地の外へ出ることは禁止されている。
軟禁状態とは正にこのことだ、と沙千也は思った。意外なことに、それは沙千也ばかりでなく沙由妃もそうだった。しかし彼女は自分の部屋に籠もっていることが多く、軟禁状態を気にする素振りもない。慣れっこになっている感じだった。一度沙千也は何時も何をして過ごしている?と聞いたが「勉強」と答えが返るのみ。そういえば彼女は普通なら高校三年に当たるはずだった。通信教育でも受けているのだろうか、と思ったが、それ以上踏み込んだ質問はまだためらいがあってしなかった。
沙千也自身も軟禁は仕方がない、と諦めていた。伊勢(あの日、この施設に連れて来て以来見かけることはなかったが)やガイダンスでのスーツ姿の男たちの話や、その後の日々、沙由妃が言葉少なに語る異様な物語は、当事者が自分と言うことを除けばとても信じられるものではなかったし、それだからこそ外部に漏れ聞こえたのなら大事に至るのは目に見える。そのせいだろうか、施設内で見かけるのはスーツ姿にサングラスが制服かと思えるSP風の屈強な男たちばかり。掃除、洗濯などは全て二人が他の場所にいる間、自室に戻れば届いていたり清掃済みのカードが部屋のドアに掛かっていたりと、使用人を見かけることもない。食事は三度、食堂で採ったが、これも予告された時間に行けば配膳されていて、使用人の姿はなかった。食堂は、たまに数人の黒服が離れて食事をしているだけで、二人はいつも向かい合わせに用意された豪華な食事を殆ど会話することなく食べていた。このことだけを取ってもセキュリティは非常に高いと思われる。一度沙千也が敷地の道を外れ、木立に入り込んだ途端、彼の十メートル前方の林の中から三名、件のSP風の男が姿を現し彼の度肝を抜いた。
そんな生活にピリオドが打たれたのは沙千也が啄木荘へやって来て半月後。夕飯の後は申し合わせをした訳でもないのに小一時間、玄関脇のロビーでTVを眺めるという習慣が出来ていた二人の許に伊勢が現われる。
「暫くだな、元気にしていたか?」
きっとこちらの様子の報告を受けていたくせに、と沙千也は思ったが表情に気を付けて口も結んだ。
「おっちゃんも元気そうで何よりだな」
沙由妃はソファに両足を揃えて上げるお気に入りの体育座りをしながら、気のない社交辞令を送った。
「私は伊勢だ。おっちゃんは止めろ」
伊勢はそう言ったものの怒りは見えない。何か振り払うかのような仕草をするとキッパリ告げる。
「二人とも仕事だ」
沙由妃が、
「ああ、いい加減鈍ってしまうと思ってたトコだ」
と言うと、沙千也も思わず頷いて、伊勢の笑いを誘う。
「今度は少々複雑だから気を入れてくれよ」
伊勢は直ぐに笑顔を消すと手振りで二人を応接室へ誘う。
彼は部屋に入るなり給水器から紙コップに水を汲み一気に飲み干すと、
「今回はこいつをやる」
二人が座るソファの前、重そうな木のテーブルに望遠で撮ったと思われる一人の男の写真を置く。
そして沙千也にとってはとんでもないことを淡々と語り始めた。伊勢は手にした地図や写真を示しながら、沙由妃が作戦の概要を頭に入れるのを辛抱強く手助けし、沙千也にも人の顔や地理を覚えるように促した。
「それで、期限は?」
伊勢が全てを話し終えると沙由妃が聞く。
「最初のターゲットに四日、次は十日以内に」
「分かった」
「何か聞いておくことはないか、沙千也君」
「俺も戦うんですか」
伊勢は苦笑し沙由妃は溜息を吐く。
「状況次第で否応なし、と言うやつだよ、沙千也君」
まるで出来の悪い生徒に対する教師のような物言いで伊勢が答える。実際自分が大嫌いだった高校当時の担任に似ていなくもない伊勢に、沙千也は、
「人殺しも?」
「そこまではする必要がないし、君には許されてもいない。それは始めに説明したはずだよ?」
「でも、万が一危ない目に遭って、仕方なしにそうなったら?」
「その場合は不可抗力ってやつさ。過剰防衛とされないように何とかしてあげられるだろう」
本当にこいつはあの教師に似ている。沙千也はそう思うともう何も聞く気がしなかった。伊勢は黙り込んだ沙千也に頷くと、
「では明日の午前九時に迎えを寄越す。二人とも今夜は早く寝るんだぞ」
翌朝。眠りの浅かった沙千也は夜が明けた頃には起き出していた。もう慣れていたが手回しのいいことにいつの間にか部屋のドアの脇に籠と旅行鞄が置いてある。籠の中にはきちんと折り畳んで派手なロゴの入ったTシャツにダメージの目立つジーンズ、カーキ色をした薄手のジャケット。どうやらこれを着て行けということらしい。旅行鞄はブランド物だが使い古した代物で、ジッパーを開くと電気シェーバーやら洗面道具、籠の中身と同様の着替えがきちんと詰まっている。籠の衣類を取り出すと、底に使い古した札入れと十本くらいの鍵を束ねたキーチェーン、そして彼の携帯が出てくる。札入れには乱雑に入れた合計三万円ほどの紙幣と小銭、運転免許証と学生証が入れてあった。名前は『大田健吾』二十歳の某大学生。これは例のガイダンスで教えられた偽名だった。
沙千也は肩を竦めながら札入れを置くと携帯を取り上げる。電源を入れ電話帳を開いたが、そこには知らない名前と連絡先が並んでいて、通話記録や受信メール、送信メールも他人の携帯を見ているかのようだった。思わず深い溜息が漏れる沙千也だった。
伊勢はここへ着くと直ぐに沙千也へ偽の身分やプロフィールを渡したが、覚える気があるなら覚えろと言ったきり。抜き打ちのテストでもあるかと勘ぐった沙千也は暗記していたが、伊勢は昨日もそれを確かめはしなかった。公安調査庁は日本版中央情報局じゃなかったのだろうか?エージェント(の端くれ位には伊勢も思ってくれているのだろう、と沙千也は考えていたが)をこんな人任せで養成する理由は何だ?考えても答えの出るはずもないことをぶつぶつ独り言にしながら、沙千也は用意された衣類を持ってバスルームへ消えた。
彼は約束の九時より大分早い時間に玄関脇のロビーに降りる。ぼんやりテレビでワイドショーを見ていると沙由妃が階段を下りて来た。時間は九時直前、ピンク色の派手なキャリーケースを手に、ゆっくりと確かめるかのように階段を一段ずつ下りて来た。
彼はその装いを見て軽い驚きを覚える。化粧をしているのも驚きだが、今まで見たこともない歳相応の華やいだ格好に目を奪われたのだ。レースのフリルが目立つスカート丈が膝上二十センチしかないキャミソールのワンピース。ブルーのグラデーションが美しい大きなチェック柄だ。その上に濃いピンク色をした薄手のカーディガンを羽織り、赤いフレームでレンズの大きなサングラスをおでこに乗せていた。ヒールの高いサンダルと、黒いトレンカが意外と形の良い脚を際立たせている。
思えばこういう格好の方が金色の髪には良く似合う。そんなことを考えて沙千也がまじまじと見つめていたからだろう、沙由妃は咳払いをすると、
「何だ?おかしいか?」
仏頂面で沙由妃が尋ねる。
「いや、なんでもない」
沙千也は慌て気味に少し赤い顔を背けた。
指定された九時に玄関を出ると、待っていた迎えは普通のタクシーだった。温泉街を走る黒塗りのありふれたタクシー。運転手もごく普通に見えた。見送りは誰もいない。伊勢は昨夜の内にどこかへ帰っていた。
「どちらまで?」
迎車と表示されたメーターを切り替えると運転手が聞く。沙由妃は温泉街の最寄り駅を告げた。
「東京に帰るんで?」
「ええ。そうですよ」
「帰りは特急ですか?」
「いいえ。のんびり急行で帰ります」
沙千也が唖然とするなか、沙由妃はバカンス帰りの令嬢宜しく受け答えをする。
「じゃあ、急がなくてもいいですね」
「ゆっくりでいいですよ」
タクシーは山道を下り、やがて温泉街の中を抜ける国道に出る。観光地の朝はツアー客やグループで賑わっていた。
「ここは初めてですか?」
運転手が尋ねると、
「何度か来ています。ね、兄さん」
「え?」
いきなり話を振られた沙千也は一瞬どぎまぎしたが、
「ああ、三回目だね」
「温泉はどうでした?」
「気持ちが良かったですよ」
「あそこの職員さんで?」
「父が霞ヶ関に勤めています」
「いいですね、うらやましいな」
運転手が笑うと、沙千也は溜息を吐いて、
「そうでもないですよ」
残念そうに苦笑する。
「最近はお役人も肩身が狭いから、父も可哀そうな位に目立たないようにしていて……こういうのもいつまで続けられるか――」
よくもまあサラサラと出て来るものだ、と沙千也は思う。そういう訓練をしていた訳でもないのに、自分でも驚くほど嘘の話が飛び出して来る。諜報世界という陰の存在に取り込まれ、自然とそれに馴染んで来ているのかもしれない。
おしゃべりな運転手相手に沙千也は作り話を適当に流し、沙由妃はそれに相槌を打ちながら仲の良い兄妹の即席芝居を続けた。
やがてタクシーは川沿いに並ぶ土産物屋を抜けて、都心からこの温泉地へ走る私鉄の駅前通りを徐行する。道の両脇は観光客で溢れ、所々で流れる湯気が温泉街を演出している。
「もう直ぐ着きますよ」
運転手は相変らず愛想良く話し続けたが、同じ口調で沙千也の心臓が止まりそうなことを話し出す。
「それと二人とも鞄はそのまま置いて行って下さい。車が停まったらトランクを開けますから、その中に本物の鞄と持って行くものが詰まっています。十時一分発の特急に乗って下さい。六号車の十三Aと十三B席。チケットは直ぐに手渡されます。小玉さんがすれ違い様に受け取りますから、大田さん、今後のためにもさり気なく見ていて下さい。いいですか、さり気なく、でじろじろ見てはいけません。今後の指示もその時に渡されますから」
唖然とした沙千也は言わずもがなのことを呟くしかなかった。
「あんた、伊勢の部下か……」