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 暗渠の中

 赤い回転灯が入乱れ、数人の警官が慌しく阻止線を張る。午前七時半、出勤時間帯のため野次馬も入れ替わり立ち代り、現場は混乱の度合いを増して行くばかり。

 先行した機動鑑識班は遺体の周囲と現場の主だった痕跡と遺留品とを確定し、数字とアルファベットのパネルを手際よく並べていた。靴カバーをした十数人が広い空き地を歩き回る。誰もが地面を見つめ、爽やかな青空を見遣る者もいない。


「ちょっといいかな」

 中年の男が若い男を呼び止める。

「第一発見者の話では、仏さんは手をこう握り締めていた、と」

 中年は右手の甲を上に、指を熊手の形に曲げる。

「そうです。私も見ましたが両手で自分の両側の雑草を掴む形でした」

 中年の男は五分ほど前に臨場したばかりだ。既に遺体は搬送された後だった。害者と現場の写真は見たが、中年男は実際に見た者から話を聞くという基本を怠ったことなどない。

医者センセイは心臓発作と?」

「第一印象では、と」

「死後推定三時間から五時間、ね」

「ええ」

「ヤクは?」

「これも個人的意見と前置きで可能性は低いと」

 無論、司法解剖後でなければ結論出来ない。

足跡ゲソは二人分。間違いないな」

「ええ。大と小。害者ガイシャと女」

「決め付けるな。小男や少年、老人かもしれない。足跡の二人が会っていた証拠にはならない。別々の時間にここにいた可能性もある」

「はい」

 そう答えたものの若い男は女だと確信していた。空き地の境界付近、虎縞ロープが張られた横、草が踏まれて倒された跡の近くに女物のハンカチが落ちていた。草の上に乗っていて湿ってもいない。半日以内に落ちたものに間違いはない。

「仏さんの身元は?」

「まだ紹介中ですが、マルボウだということに賭けてもいいですよ」

「ほう」

 しかし若い男が何かを言う前に、中年男は手を上げてまたな、と言い、辺りを徘徊し始めた。

 若い男は首を横に振ると、白手袋の甲で薄っすら滲んだ額の汗を拭う。見上げた空には雲ひとつない。


「結果、死因は突発性心臓停止。害者に不整脈の病歴があったことを考えれば病死の可能性は高い」

 ざわめきが起きる。

「しかし、何かのショックで誘発されたことも考えられる。薬物も初期段階では確認されていないが、数日後の科研検査で何が出るか、俺には予測が出来ない。」

 課長は鑑定書を投げ出すようにすると居並ぶ面々を見渡す。

「それでは帳場を開くんですか」

「どうなんだ真鍋、開店すべきか?」

 質問をした若い刑事にそのまま返す。

「いえ、もっと地取りをした後でないとそれは」

「だろうな」

「開けましょうよ、課長」

 発言したのは中年の男。課長は興味深げに、

「吉岡。確信があるのか?」

「ありませんよ、正直」

 苦笑があちらこちらから。吉岡と呼ばれた中年男は悪びれもせず、

「ですがね。あんまりにも都合が良過ぎるんですよ。課長もそう思うでしょう?」

 さあ、独演が始まるぞ、と全員が身構える。しかし嫌な顔をする者は少ない。刑事課で一番経験豊富な吉岡警部補の言うことは、どんな時でももっともなことばかりだ。

「その一。害者には殺される理由が十分にあった。その二。深夜。人通りの絶えた場所。逃走し易い路地が多く、隠れる場所も多い。現場の状況が殺しの条件に当て嵌まる。その三。叫び声を聞いたという証言が複数、内容も一致する。その四。こいつが一番大事だが、仏さんの顔」

「顔だって?」

 課長は答えを知っていたが、敢えて聞く。

「そうですよ。私はね、仏さんの顔が一番語っていると思う一人ですが、あの菊池某という男の死に顔には殺されたと訴えるものがある」

「それは一体なんですか?」

 思わず真鍋という若い刑事が声を上げる。現場で吉岡に聞かれたあの若い男だった。吉岡の口角がくいっと上がる。面と向かって言った事はなかったが、真鍋は彼の密かなお気に入りだった。

「いいか、真鍋。寸前まで自分が死ぬとは思っていない人間が突然襲われ命を奪われるとな、その顔には驚きしか浮かばないもんなんだよ。お前は反論しそうだから最初に言っとくが、確かに突発した発作とかで死ぬ場合、脳溢血や心臓発作でも同じ顔付きになるさ。でもな、病死の場合、その奥に無念が滲むもんだ。死に際は一瞬だが人間ってえのはどうやらそんな最期の数秒を数分くらいに引き延ばす術を予め与えられているらしいんだな。だから人生を惜しむ時間があるんだ。まだ死にたくない、もっとやりたいことがある、ってね」

 吉岡はそこにあるのを忘れていたかのように眼前の湯呑みを取り上げ、ゆっくりと冷めた茶を啜ってから、

「普通に死んだ人間の顔には、驚きの後にそういう無念の相とでも言えば良いのか、そんなものが混じるんだよ。眼は見開いて驚きそのものだが、口がへの字で悔しさを滲ませるとか、な。しかし殺しの場合、その悔しさよりも驚きが強いんだな。だから死ぬまで時間が掛かったのなら別だが、即死に近い場合は純粋な驚きしか顔に現われない」

 吉岡はじろりと拝聴する人々をねめまわすと、

「あくまで俺の印象だが、組織暴力団幹部マルボウ・キンバッジ、菊池某は思いもしない相手から思いもしない方法で殺された。そうとしか思えないんだよ」

「長年の刑事デカの勘、か?」

 課長が尋ねるが皮肉は滲んでいない。

「ええ。勘と呼ぶんでしょうね、こういうのは」

 その時、ノックの音がして会議室のドアが細目に開く。

「何だ」

 入室した若い警官は、済まなそうにしながらテーブルの上座の課長に近寄ると、声を潜ませ耳打ちし、名刺を手渡す。課長はその名刺を見ると眉根を寄せ、

「少し休憩だ。十分後に再開する」

 呼びに来た警官と共に会議室を出て行った。


 約束の十分は二十分となった。帰って来た課長は明らかに苛立っていた。吉岡と並んで経験の深い課長の不機嫌を汲み取った刑事課の面々は、そ知らぬ顔で目線を逸らす。しかし課長は、たった一人じっとこちらを興味深げに眺める吉岡を手招くと、

「会議を終了する。各自仕事に戻れ」

 思わぬ展開にざわめきが起き、数人は「何故ですか」と質問したが、課長は睨み付けるようにして抗議を封殺する。肩を竦めた吉岡に首を振って付いて来いと合図した課長は、怒りを肩に表して会議室を後にした。

「吉岡」

 廊下に出るなり課長が対する。

「ケンカにならない相手が出て来た。頼むから大人しくしていろよ」

 吉岡は課長の仏頂面に苦笑いを返しながら、

「イチさんが相手にならないなら、俺がどう足掻こうが無駄ですよ。で、この案件にウエが嘴を挟んで来たんで?」

「正確には潰しに来た。署長の野郎、後は任せたと逃げやがった」

「ほう」

 課長は不機嫌に鼻を鳴らすと、

「まあ、ちょっとお顔を拝見して見ろよ。きっと気に入るぞ」


 その男は応接室のソファに深々と腰を下ろしていた。寛いでいた、と言う方が近い。歳は三十五から五十までのどれとも取れる。ダークなスーツは、人を観察することに一生を費やしている吉岡のような男には一目で高級なオーダー品だと分かる。ネクタイやタイピン、勿論磨き抜かれた靴も全てがブランド品。そして中身も東大ブランドだな、と吉岡は思った。本店か桜田門かは知らないが、こいつはどう見てもキャリア組。これは話す前から何を言っても無駄だ、とも思う。

「市村さん、ではこの方が」

 男はにこやかに立ち上がると、

「どうも、忙しいところ申し訳ない。こういう者です」

 名刺を差し出す。吉岡も一礼し同じく名刺を取り出し丁重に交換する。目を落とすと住所も電話番号も記載されていない縦書きで、たったの三行、

 公安調査庁

 審議官

 伊勢正臣

 とあった。

 吉岡の表情は変わらなかったが内心、疑念が涌き上がる。本店・警察庁や桜田門・警視庁でもない。一体コウチョウが何の様だ?課長と吉岡が伊勢の正面に並んで座ると伊勢が切り出す。

「伊勢と申します。市村警部にもお話したが、現場の方にも納得してもらわねばならないので、お宅で一番優秀な方とお願いしました。なるほど、吉岡さん、貴方は優秀そうだ」

 歯の浮くようなお世辞の後は苦い薬に決まっている。伊勢の表情から笑顔が消え、無表情になる。

「今回の変死事件。これは我々が警備局と共同で扱っている案件に関連した事件のようです。この先、本件は我々が捜査を続行します。所轄の皆さんは一通り捜査を終えたら一件書類を提出してください。それで皆さんはこの事件から手を引いて頂きます。捜査本部も設置しません。これまで、若しくはこれから先、収拾した証拠物件なり拾得物はこの後こちらにお伺いする公安に渡して貰います。よろしいかな?」

 有無を言わせぬ、を絵に描いたような展開だった。公安調査庁は警察組織ではない。吉岡たちに指示することなど出来ない。しかしこうして来たからには本店や桜田門には話が通っているという訳だ。彼らは主にスパイや組織暴力、テロなどを扱う、いわば日本のCIA。逮捕執行は出来ないので、警察庁の公安部署である警備局の協力を仰ぐこともない訳ではない。しかし縄張りが重複するライバル関係でもあるので、この二つの組織はいささか仲が良ろしくない。そのライバルが組んでいる、と伊勢は言った。相当重大な案件と言うことだ。

「いくつか質問してもよござんすか?」

 わざと砕けた言い方で吉岡が聞く。課長は目を瞑ったまま腕を組んでいた。勝手にしろ、という合図だ。

「何ですか?答えられる範囲で答えましょう」

 伊勢は面白がっている様子だった。

「伊勢さん。わざわざ本庁ホンマルからお越し頂くほどの重要案件だとは理解しましたが、これはコロシですか?」

「ノーコメント」

「ではコロシだとして犯人は分かってらっしゃるんで?」

「ノーコメント」

暴力団マルボウですか?それとも国外で?」

「ノーコメント」

 何を聞いても無駄だ、と言っているに等しい。吉岡は肩を竦めると、

「了解しました。しかし納得は出来ませんな」

 さすがに課長が眼を開き吉岡の顔を見る。しかし吉岡は伊勢を睨み付けると、

「伊勢さん。あんたはこの事件ヤマ、解決しようなんて思ってないでしょう?」

「ほう。何故そう思うのですか?」

「私はかれこれ二十五年以上、臭いドブ板を捲り続けてますが、そうしているとね、臭いが分かるようになるんですよ。第一、この事件を解決するつもりなら所轄をフルに活用するはずだ。地取り(聞き込み)なんて面倒なことは我々に任す、あんたたちは忙しい身ですからね。その際、煩い位に期限やら指示やらをくっつける。普通はそんなもんですよ。それもやらないで書類でカタ付ける。どう考えてもやる気がないや。どうです?」

「ノーコメント、と行きたいところだが」

 伊勢は口元に笑いを浮かべていたが、目が鋭い。吉岡はふと伊勢も納得していないのでは、と思う。当の伊勢は額に手をやると、

「気持ちは分かるよ、吉岡さん、申し訳ないね。これも意味があってのことだ。納得し辛いだろうが、なるべく早めに忘れてもらった方がよい。これは文字通りで比喩ではないよ?いいかな、忘れてもらったほうがよい」

 繰り返したのは警告する、と言うことだ。吉岡は伊勢から視線を外し、軽く吐息を吐く。あまり誉められた行為ではないが、伊勢は分かるはずだ。案の定、伊勢は深々と沈んでいたソファから背を起こし、穏やかに話を続けた。

「まあ、吉岡さん。貴方は臭いドブを覗き続けて来た、と仰った。貴方のようなベテランが言うと重みがあっていいね。何時だったかこんな話を読んだことがあるよ。下らない娯楽小説だったか、本庁と所轄の葛藤を描いていてね。あなたは綺麗な小川を上から見下ろすだけだが、俺たちはその小川に入って底に溜まったヘドロやらをかき回す。そんなセリフだったかな。だがね、勘違いして欲しくないが、私は違うよ」

 ふと視線を戻した吉岡は少々驚く。伊勢の顔は先程までの涼しげなキャリアのものではなく、老獪な捜査員が取調室で犯人ホシを前にしたような厳しいものだった。穏やかな態度もかなぐり捨てて冷酷な声で告げる。

「君たちは路地脇のドブを覗き浚う。私はそのドブが集まった下水本管の暗渠に入り肩まで浸かる。そういうことだ」

「ドブはどこまで行ってもドブですよ」

 吉岡はなおも抵抗したが、負けだと思っていた。この男は底知れない。

「確かに。ドブはドブだな。しかし君と私とでは見ているものが違うのさ」

 伊勢は立ち上がると、手を差し出す。握手ではない。テーブルに置かれた自分の名刺を指差した。課長と吉岡はそれぞれ名刺を取り上げると伊勢に返す。伊勢は自分の名刺を名刺入れに丁寧にしまうと、

「邪魔をしました。私はこれで。後はよろしくお願いします」

 振り返ることもなく部屋を出て行った。


 二人とも暫くはそのまま身動きもしなかった。やがて課長が深い溜息を漏らす。

「得体の知れないやつだな」

 吉岡は頷きながら、

「真鍋たちを抑えないといけませんな」

「まあな。若いもんは納得し辛いだろう。任すよ」

「薄給なんで経費のみだいは何とか捻り出して下さいよ」

 課長は笑いながら、

「経費なんて昔の話だよ。いいよ、後で幾ら掛かるか言え。俺が出す」

「それにしても」

 吉岡は遠くを見るような目をする。

「公調が護る殺人者なんて、Gの付くスナイパー位しか知りませんでしたがね」

 吉岡はコミックの主人公を上げて与太話にしたが、課長は笑えない。

「どうして彼らが『護っている』と思うんだ」

 語気鋭く返したが吉岡は無言で席を立ち、さっさと部屋を出て行ってしまった。




注意;


言うまでもありませんがこのお話はフィクションです。登場する団体、個人は創造上の存在です。実在する同様の名称団体とは概要・権限など大きな違いがあり、また実在の団体は、作中の団体が行なう業務・処置等を決して行なっておりません。


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