下
「沙千也」
誰かが自分を呼んだように思った。
はっと気付くと、そこは自分のワンルームではなく土手の道路沿いにある東屋。悪夢は覚めていないのだ。沙千也は思わず込み上げた胃酸を飲み下す。
「来たぞ」
沙由妃が声を掛ける。彼の方を見もしないで立ち上がると東屋を出て行く。沙千也は冷えて節々が少し強張っている身体を無理やり起こし、恐怖半分興味半分で付いて行った。
黒い大型のセダンがハイビームにして十メートル先に停まっていた。やがてヘッドランプが消え、エンジンも止まると運転席からスーツ姿の男が一人姿を現す。続けて助手席と後部席からも一人ずつ男が降りて来る。黒い高級車とこんな時間にもダークなスーツ姿の男たち。サユキが殺した男の物言いを思い出した沙千也の背中に汗が滴った。こいつらは筋の者だろうか?
「おっちゃん。遅かったな」
沙由妃が親しげに声を掛けると後部席から降り立った男が、
「おっちゃんと呼ぶなと言ってるだろう?」
少し甲高い声が掠れ、咳払いをすると、男は続けて、
「沙由妃、お前何か落としてないか?」
「はあ、そういえばハンカチがないな、と思っていたんだ」
男は大袈裟な溜息を吐くと、その顔が月光に晒された。サングラスが目立つ中年男性の顔。
「お前なあ、少しは注意してコトに当たれよ」
「すまないな。拾ってくれたの?」
「出来る訳ないだろ?後で所轄に出張るから返してくれるように話をしておく」
「悪いね」
全く反省の素振りもなく、沙由妃は沙千也の方を見る。今まで彼の存在に気付かない振りをしていた男が興味深げに、
「で、そこの新しいお友達に見られた訳だ」
沙千也の心臓の鼓動がすぐさま二倍増しとなる。沙由妃はやらないといったが、この男は口封じを命じるのではないだろうか?
「友達じゃない。コイツは私の『先触』だ」
沙由妃がつまらなそうに言うと、男は大きく反応した。
「なんだって!」
男は二人を従え彼の前に立つ。サングラスを取ると鋭い眼でまじまじと沙千也を見つめた。その珍しい天然記念物でも観察するような視線に、彼は何か尻がむず痒い思いを感じた。
「名前は?」
「……高木、です」
「下の名前だ」
「サチヤ」
「ふーん。伝承は本物か」
男はふん、と鼻息を荒げると、
「沙由妃。こういうことはすぐに知らせろと言ったよな?携帯があるだろう?」
「ケータイは嫌いだ」
「何かあったらどうする?」
「これからはコイツが護ってくれる」
「なに?」
思わず沙千也が割り込む。そのあまりにも情けない声に男は吹きだし、沙由妃は荒々しく吐息を吐いた。
「護るんだよ。私を。お前が」
辛抱強く彼女が言う。
「言っただろうが。臣縛りの術も施した。お前は先触の任として私を護る。何時いかなる時も、だ」
「ジンシバリ?」
「さっきお前の額に標を残しただろ?あれさ」
いい加減何も分からない状況にいらいらし始めた沙千也は、初めて怒りを顕わにする。
「ちゃんと説明しろよ!訳が分かんないよ、一体何をどうしたって言うんだ?」
すると男が一言。
「沙由妃、験してもいいか?」
彼女はにんまりと笑う。
「どうぞ、お手柔らかに」
男が後ろに控えた連れ二人に、
「やれ」
助手席から降りて来た方が、
「手加減します?」
男はふっと笑むと、
「本気で掛かって見なさい」
男二人が突然沙千也に襲い掛かった。
「おい、大丈夫か?」
目の前に沙由妃の顔がある。
「あ!」
がばっと飛び起き辺りを見回す沙千也。既視感があるが、直ぐにこんなことが今夜は三回目だと気付く。男たちは、と見ると、車の脇で二人がしゃがんでいて、一人は腹を抱えて蹲ったまま呻き、もう一人は片腕を抑えたまま荒い息を吐いていた。二人の介抱をしていた沙由妃言うところの『おっちゃん』が近付いて来る。
「全く、恐れ多いな。怪我はないか?どこか痛くはないか?」
自分に向かって聞いていることに一瞬気付かない沙千也だったが、
「何?俺のこと?」
「何をしたのか、覚えてないのか」
男の呟きは質問ではなく、自分への納得のようだった。その言葉で、沙千也ははっと自分の両手を見つめる。
「俺は襲われて……あの二人は、俺が?」
「そうだよ、沙千也」
沙由妃は満足げに頷いた。
「験して悪かったな、沙千也君。あの二人は剣道・合気道・柔術合わせてウン十段とかいう連中だ。いや、それをものの一分で伸してしまった」
「俺は、殴り合いなんかしたことがない」
「そうだろうな。まあ、怪我をしたり手を傷付けてなければいいよ。すごいな、普通素手であんなカウンター打ったら指が折れても不思議じゃない。まったくおっかないな、沙由妃、お前さんは」
「それを言うなら私がおっかないんじゃないよ、おっちゃん。私の血筋がおっかないんだ」
沙千也はその声に深い闇を感じ、はっとして彼女を見た。その顔は傾いた月の光と藍色から濃い青紫へと移って行く空を背景に塑像のように見える。
「すまない。お前は何も悪くないよ、沙由妃」
男はぽんっ、と彼女の肩を叩くと、
「行くぞ」
「二人は大丈夫ですか?」
沙千也は未だ自分の仕業とは信じられないものの、悶える二人を見て少し心配になる。男は苦笑いをすると、
「なあに、本人たちは数年前まで公安で主義者や暴力団相手に暗闘を繰り広げたって言っていたからね、怪我は慣れているよ。直ぐに迎えも呼んだから。さあ、明けちまうぞ、急げ」
「どこへ行くんですか。家へは……」
言い淀む沙千也に、男は初めて同情を込めた言い方で、
「暫くは家へは帰れないだろうな。なあに、荷物は後で誰かに取りに行かせるよ。家賃とかも心配するな。大学生か?」
「そうです」
「そっちも暫くは行けないだろうな。すまないが、辛抱してくれ」
「一体、あなた達は何なんですか?」
男は首を振ると、
「乗りなさい。話は後だ」
男は怪我をした二人を東屋に入れ、沙由妃の赤い折り畳み自転車と沙千也たちを乗せると自らの運転で車を走らせた。
男は『伊勢』と名乗った。伊勢は問わず語りに状況を掻い摘んで沙千也に話したが、あまりにも突拍子のない話の内容に、沙千也は半分も信じられなかった。しかし、こと自分の今の有様を説明されると、自分がとんでもないことに巻き込まれたことが漸く分り掛かる。長い話の間、沙由妃は彼の横で寝息を立てていて、車は川を上流に向かってひたすら走り続けていた。
東の空が白々とし始める頃、伊勢の話は一段落する。沙千也は暫く無言で話の内容を反芻していた。やがて吐息と共に沙千也は呟く。
「俺は使い魔かよ」
すると隣からぷっと吹く声がする。
「お前、アキバ系とかいうやつか?」
いつの間にか起きていた沙由妃が笑い混じりに聞いた。
「馬鹿言え、そんなの一般常識だ。お前だって知っていただろう?」
彼が顔を紅潮させて憤慨すると、彼女は肩を竦めて、
「私は知っていて当然だ。式神って言うのを知っているからな。しかし、使い魔って言うのは言い得て妙だな。だがちゃんとした言葉があるよ、お前は私の『先触人』だ」
「サキフレト?」
「そうだ。沙千也は私の先触人になった」
「そういうことだ、沙千也君。これも命運とかいうやつだそうだから、まあ、諦めるんだな」
伊勢が妙に明るく言う。
「そんな簡単に」
しかし、疲労と睡魔に囲まれた彼は欠伸をすると、もう考えるのが嫌になり押し黙る。ちょうど大きな橋の袂の交差点の赤信号で停まると伊勢は、
「二人ともまだ寝ていていいぞ。向こうに着くまであと一時間はある。沙由妃、先に例のものをくれ」
彼女があの男から奪ったらしい札入れと小さなウレタンの保護パックを伊勢に渡す。彼はそれを懐に納めると、
「ご苦労さん」
車を発進させながら伊勢は、
「これで棚橋と江島の所が潰し合いを始めるはずだ。暫く眺めるだけでいいから、ゆっくりするんだな、沙由妃」
しかし沙由妃は既に寝息を立てていた。伊勢は肩を竦めると沙千也に、
「君も寝るんだな」
言われるまでもなかった。沙千也はクッションの効いたシートに凭れ暫くはうとうとしていたが、やがて眠りの底に沈んで行った。夢を見ることもなかった。
先触人
自らは名乗れない、という掟のある『言詠み』に付き従い、紹介の労をとる付き人のこと。宿命により言詠みの名前と同義の那真会を持ち、詠み人が成熟した大人になると運命的な出会いをする。その出会いは必然であると伝えられている。過去、先触人は秘儀や目晦ましの術以外に抵抗手段のない言詠みの護衛も兼ねており、言詠みの『臣縛りの術』によって超人的な格闘能力を得る。