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 午前二時。眠らぬ都心と違い、郊外の住宅地はこの時間、ひっそりと静まり返っていた。

 若葉の美しい季節、そよと吹く夜風が生暖かい。夜空は雲一つなく月は十六夜いざよい中天にあり、淡い光と濃い陰が住宅街をモノクロの世界に仕立て上げる。

 そんな街中を青年が一人歩いていた。彼は二十歳を迎えたばかり。早生まれの青年は元より童顔。白いシャツにジーンズ履きの彼は、今し方も巡邏のパトカーに呼び止められ職質を受けたばかりだった。

 散々な一日だった。大学も二年となった彼は、人気の講義の申し込みが抽選で落ちたため、余り興味のなかった講義を受ける羽目になっていた。しかし当の講義は初回の今日、突然の休講。時間を持て余した彼は、熱心な会員ではないマスコミ研を覗いた。ところがそりの合わない三年が新人を前にご高説を語っている最中、最後までそれにつき合わされ、飲みにも連れ回された。挙句、バイトをすっぽかす羽目になり、侘びの電話を掛けたものの、漸く出た店長は不機嫌に一言、首にしてもいいぞ、と受話器を叩きつけた。酒との付き合いも浅い彼は、注がれた酒や無理やりオーダーされた酒を見計らって席後ろの観葉植物の鉢へ零していたが、それでも先程から込み上げる胃液に辟易していた。挙句が職質。気を付けて、と直ぐに開放はされたものの、それまでの経緯もあって、彼は憤りを抱えて歩いていたのだ。

 彼の住むワンルームまでは、最寄り駅から歩いて二十分掛かる。

 中学生の頃、両親が離婚し高校卒業まで父と二人暮らしだった彼。上京し大学に通うことを許した父は、彼の入学直後、突然脳溢血で他界した。残された彼は親戚筋の厚意と、ゴールデンタイムにCMが流れる大企業の支店長だった父の残した遺産で、そのまま大学生活を続けることが出来た。しかし、他に兄弟もなく、実母は三年前に再婚し相手にはまだ小さな連れ子もいる。ほとんど天涯孤独と言えた。


 彼がまだ怒りの赴くまま様々な思いを巡らせていた最中、突然タイヤの小さな赤い自転車が直ぐ脇を通り過ぎた。ひったくりや通り魔も少なくはない時勢のこと、音もなく近付いて来た自転車に少々ひやりとした彼は、自転車の後姿に振りの拳を振り上げる。そこは真っ直ぐな道で両側は住宅地。月光に照らされた道を無灯火の自転車は走り去って行く。その乗り手は見るからに若い女、長い髪が揺れて金色に光る。それが妙に鮮やかに見え、彼は上げた手をゆっくりと下ろす。その瞬間、ひやりと涼しい風が首を撫でた。その風に何を感じたのか、彼は再び歩き出す。何かに急かされたかのようにその歩みは速い。


 その角は曲がらないはずだった。彼のワンルームマンションはまだ先にある。同じような路地が幾度も交わるこの街で、道を外れて道草をしたこともない。その彼が今夜だけはその角を曲がった。無論彼は気付いてはいないが、それが彼の宿命だったからだ。


 角を曲がって百メートルほど、深と静まる住宅地の中に突然現われた空き地。路地はそこで大きく曲がり、両側供に広い空き地になっている。旧家が数軒取り壊されたその後の姿は、この一帯に時折見かける常景だった。立ち入り禁止の看板と管理者の不動産会社の名前、そしてマンション反対の張り紙。普通はフェンスに囲われるか目隠しの鉄板で無骨な塀を造るものだが、この土地は鉄パイプに渡した黒黄のロープのみ。街灯が切れていてその一角は周辺より濃い闇の中にあった。

 彼はその暗がりの片方に何かを感じた。伸び始めた雑草を踏みしめる音。人の気配に他ならない。彼の歩みは自然ゆっくりとなり、切れた街灯を付属する電柱の影、斜め前方に空き地を見渡せる位置で立ち止った。

 闇とはいえ、殆ど欠けていない月に照らされている。黒と黄の虎縞ロープに無造作に赤い自転車が立て掛けてある。その先、空き地のほぼ真中でライターの火がぽっと点いた。見えた顔は中年らしい男のもの。この距離では表情までは分からない。直ぐにぽつんと赤い点が動くだけになる。

「見くびられたもんだな」

 そう聞こえた。声は穏やかで潜められていたが、静寂に包まれた住宅街の深夜、辛うじて彼の耳に届いた。

「タナハシはどこだ」

 沈黙の間が長い。

「伝言もないのか?お前はオシか?」

 沈黙。

「どういう意味だ?訳が分からねえ。ションベン臭いガキを寄越しやがって」

 男の声は潜められているが怒りも込められているのが良く分かる。

「おい、黙ってちゃ分からねえぞ。それとも」

 男はそこでクククッと笑う。

「お前は俺のタマでも取りに来たってえのか?」

 沈黙、否、男と五メートルほど離れて対峙していた影が一歩前へ動く。

男の姿は背景の闇に紛れて黒い塊に見える。ところが少女はまるで闇の中から抜け出したかのように、彼の眼にはっきりと映った。

 少女の姿は全く平凡と言えた。薄桃色のシャツに黒いカーディガン、ややゆったりとしたジーンズはダメージのない濃紺で、至ってシンプルなもの。先程も気になった金色の髪だけが場違いに光る。

「貴公は『蠣螺レイラ』」

 少女が初めて声を上げる。それは彼の耳に、まるで詩吟か能曲を謡うように届く。その声は低くもなく高くもないが何故か心地よく耳に残る。すると突然、異変が起こった。

 くだんの男が豹変、ひいっ、と一声。喉を掻き毟る仕草を見せるや、どうと倒れる。

 少女は倒れた男に近付き、見下ろす。男は波打つように身体が震え、苦悶の有様が遠目にも分かる。少女はそれをただ見守るだけ。その十数秒後、男の動きが止んだ。少女が頭を垂れ何か呟くが、青年の耳には届かない。男は硬直したままで先程までの七転八倒が嘘のよう。

(今のはなんだ?)

 自分は何を見たのだ。尋常でない状況に青年は思わず一歩引き、足元の小石を一つ弾いた。

カツン。深と沈んだ闇の中、弾いた小石が思わぬ音を立てる。

 少女がこちらを見る。彼はさっと空き地に背を向け、電柱を背に更に身を縮めた。

 ザッザッザッ。急ぎ足が草を分ける音。コトン、パタ。コトン。側溝を踏む音。少女が近付いて来る。彼は息を止め、電柱の作る小さな陰にすがるようにする。心臓の鼓動は激しく、アドレナリンの放出からか腰の辺りがドクドクと脈打ち、痛い。

「おい、お前」

 はっと横を見る。少女は二メートル先。その目が月光に光る。

「見たな」

 それは彼が幼少の頃に見た悪夢と奇妙に一致する。

 夜の街。人を襲う化物。それを見てしまう自分、そして化物が耳まで裂けた口を開き、見たなお前、と呟く。しかし、現実に目の前にいるのは自分とそう違いのない年頃の少女。

「お、俺は……」

 喉が渇き、腰が痛い。何か言わねばならないが、何を言えばいいのか。すると少女が小さな溜息を漏らし、首を振る。

「無闇なコロシはしたくないが」

「いや、見ていない、俺は何も見ていない」

 彼は激しく被りを振る。助けて、と叫べばいいのか。しかし、あの男が悲鳴を上げてもこの街は犬すら吼えないではないか。では戦うか?女も武器はなさそうだがこちらも武器は素手。しかしこの少女は大の男を何の手も下さず……彼が考えを巡らせた時間は十数秒に感じたが、その実数秒もなかっただろう。少女が口を開く。

「貴公は……」

「な、何?」

 すると少女は、はっと息を呑むや口を閉じ、彼を凝視した。凍り付く一瞬の後、その目が泳ぎ、何か躊躇うような微かな唸り声を上げる。彼は息が詰まったように少女を見やるばかり。すると。

「止めた」

「やめた?」

 彼は拍子抜けするような情けない声で返すしかなかった。そんな彼に少女は吐き出すような声を上げる。

「馬鹿馬鹿しくなった」

 そのまま、ぷいっと少女はそっぽを向く。しかし彼から隠れたその顔は、可愛らしい仕草と似つかわぬ険しいものだった。


………………

 貴公は。そこで言い淀んだ少女。

(まさか本当に)

 彼女が詠み取った彼の那真会なまえ。『あざな』こそ違うが正しく彼女の名前に他ならない。

(出会ってしまった)

 『詠み人』として、人に定めがあり生き様が決まっていることを識っている彼女にさえ、この運命には背筋が寒い。否、彼がこの後歩むであろう運命に同情の念すら湧き上がった。

(なんと、この男が私の『先触さきふれ』か)

………………


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