懸崖の下・後
タクシーを下りた男が薄暗い階段を下りると銅版に打ち出された『喫茶室志摩』の看板。ドアは磨き立てられたオーク材の年代物で古風なノッカーが付いている。そのノッカーに『準備中』の札が掛かっていたが男は頓着せずにドアを叩く。すると殆ど待たずにドアが開いた。
「ああ、ショウちゃん」
ドアを開けたのは還暦になろうかと思える目鼻立ちの整った婦人で、白いシャツに黒いベストとタイトスカート姿が歳を忘れさせるほど似合っている。
「お父様たち、お待ちかねよ」
一歩店に入ると、そこは独特の臭いがした。店内の空気は澄んでいたが、それは山や海のものとは違う。芳醇なコーヒーの香りとハーブの微かな香りを含んでいる。四十年前の開店当初からこの店は禁煙で、それは厳選された挽きたての香りを愉しむ人々にとって必須の条件だった。
狭い入り口の階段からは想像も出来ぬほど広い店内は、温かみのある電球色で程よく照明されている。重厚な調度類と目立つ柱時計。古いオーク張りの床は見事にワックスがかかって、眩しい位に室内灯を反射していた。
男がここにやって来たのは三ヶ月振りだったが、店内は時間が止まったように四十年前から変わらない。いつ来てもこの静謐な雰囲気は名刹の堂内を思い起こさせた。
男が店内を見渡していると、奥まった場所にあるボックス席から、やおら二人が立ち上がる。彼らが手招くまでもなく男は大股にそちらへ向かい、ふと立ち止るや、
「マサシ兄、タケル兄、ご無沙汰しております」
深々と頭を下げた。
「少し疲れているようだな」
立ち上がって男――伊勢を迎えた片割れが低い声を響かせる。
「お気遣いありがとうございます。大丈夫です」
すると続けてもう一人が、
「聞いている。またあの鬼尼が勝手をしたようだな」
二人の男は六十代後半くらい。揃ってグレーのスーツにボータイを締め、伊勢によく似た風貌は彼の言う通り兄弟を予感させた。
「ええ、まあ」
伊勢は曖昧に相槌を打つと、
「父上、ご無沙汰しておりました。お加減はいかがですか?」
問い掛けられた相手は、立ち上がった男たちの間に座る年齢不詳、和装の老人。顔に浮かぶ老人性の紙魚や深い皺が目立つ。
「なんとかやっている。正臣、まあ、座れ」
落ち着いて深みのある声音を受けて、伊勢は三人に向かい合う形でソファに腰を降ろした。伊勢をショウちゃんと呼んだ女性が銀のトレーに飲み物を用意してやってくる。
「ショウちゃんにはいつものこれ」
伊勢の前にショットグラスを細長くしたようなちいさなグラスが置かれる。中身は黒に近い焦茶色と上澄みの白。
「お父様、兄さんたち、お代わりは?」
「貰おう」
猛が答え、二人が頷くと彼女は優雅に退場する。
「それで?」
うまそうに生クリームをのせたコーヒーリキュールを干す伊勢に、将史が短く問う。
「まあ、どうにかこうにか。先月お話した筋書きですが、達成度は八割といった所でして」
「具体的には?」
と、これは猛。
「予定通り対象Eのナンバー2を排除。対立する対象Tが有利になる訳で、EがTへ仕掛け始めました。既にTの幹部一名が襲撃され死亡。対立が激化する前に手打ちを進める動きがありますが、これは欺瞞情報を双方に流し、疑念を掻き立て撹乱させていますから尻つぼみになるでしょう。所轄と桜田門には逐一詳細情報を情報屋経由で流しています。当座は彼らに任せて大丈夫でしょう。問題は先日の一件でして」
「中華料理店だな」
「そうです。あれはやり過ぎでした。筋書きでは一人ずつ病死と事故死に見せかけて排除、時が来たら暗殺されたと暴露、双方の抗争に発展、というものでした。バックアップも念入りに用意してあったのですが」
「あの鬼尼めが二人一編に引導を渡して台無しにした、と言うわけだ」
猛が鼻を鳴らす。
「小玉の当主は愉しんで人を殺めている。危険だな」
将史も腕を組んで不満を隠さない。
「まあ、そうとも言えますが」
伊勢は軽く弁護の姿勢を見せると、
「今回の標的がいたく沙由妃の逆鱗に触れた様子で。対象Aの幹部Kは、まあ、何と言うか古い仁侠を感じさせる男で、それでいて今風のマルボウに備わるビジネスライクな雰囲気をも兼ね備えていましてね。そういうのは彼女が一番嫌いなタイプなんですよ」
「だからと言って勝手を許すものでもないだろう、正臣」
「仰る通りです。反省しております」
「誰がだ?鬼尼ではなくお前が、だろう?」
猛が突っ込むと伊勢は俯いて、
「やり過ぎに関しては必ず改めさせます。尻拭いは着実に行なっております」
溜息と不満の鼻息とが向かいの二人から漏れる。
「で、これからどう出る」
今まで黙っていた老人が切り出す。
「これで東の八奉行とされる組全てに傷を付けました。彼女の噂は随分と広まりましたから、標的としての彼らは警戒を高めています。逆に西のトップに近い組織は興味深く推移を見守っていますから、こちらの読み通りなら、次の一手は西から来るはずです」
「お前の言っていた安全確実なヒットマン、というやつか」
将史が問うと、伊勢は大きく頷く。
「その通りです。これで彼女は暗殺者として商売が出来るようになります」
「次の段階は、対立軸の間引き、というやつだな」
「ええ。上手くすれば三年ほどでこの国の組織は一つだけになるはずです」
「エサを与え、天敵を潰し、太らせてから首を刎ねる。計画通りに行くかな?」
老人は上目使いで伊勢を凝視する。皺に囲まれた穏やかな眼が伊勢の額に汗を浮かばせた。
「行くことを願いますし、私は尽力致します」
いつの間にかお代わりを置いて隣のボックス席に座っていた女が、
「大丈夫。ショウちゃんはちゃんと出来る子ですよ、昔から」
「全くシマコは正臣に甘いな」
将史が嘆息混じりに彼女を見るが、その目は優しかった。
「姉さんの期待に背かないよう、肝に銘じますよ」
伊勢も表情を緩めた。
「では、これでいいな?」
老人が断じると、
「はい」
三人の男が揃って答えた。
「では、食事にしよう。志麻子、頼む」
老人が言うと、志麻子は笑んで、
「国の地魚には敵わないだろうけれど、今夜は築地の大将が直に握ったお寿司よ」
「それは楽しみだ」
緊張が解け、親族の会話が始まるが、楽しげに加わる伊勢の目はどこか遠くを見つめていた。
*
墓の前で跪き祈る男がいた。吉岡はトタンのバケツと柄杓が並ぶ水屋の陰から男を注視している。堅肥りの身体と五部刈りの頭、中背。大きな丸顔に細く小さな目と低い鼻、薄い唇。
(絵に描いたような奴だな)
吉岡は男を見つめながら己の幸運を意識する。読みが当たったと言うものの、恐ろしい位の予想通りの展開。彼は一つ深呼吸するとふらり墓所へ向かった。
「遠藤さんだね」
尋ねる吉岡はかなり離れて声を掛ける。しゃがんだまま振り返った男はさっと立ち上がり、ふらりと一歩二歩、吉岡の方に歩み寄った。
「誰だあんた」
遠藤の声は低く静かで、ともすれば周囲の雑音に消えてしまいそうだった。耳をそばだてた吉岡が、
「私は吉岡と言う。刑事だ」
とだけ言った。案の定、所轄か県警の刑事と思った遠藤はぶっきら棒に、
「ポリ公に用はねえよ」
「生憎だな。私はあんたに用がある」
遠藤は最初、何も話す事はないと粋がっていた。しかし吉岡は長年極道や街の不良を相手にして来た男だ。単純な理屈と世の中への不満を抱え生きて行く底辺の構成員を良く知っていた。案の定、同情と真摯な態度と、相手のプライドを傷付けない範囲での威嚇を織り交ぜた誘導で簡単に遠藤は手の内に入って来た。吉岡は最後の仕上げに取り掛かる。
「若頭のことは警察でも話題だったんだ。統制の取れない野心家がお宅たちを束ねると、やれシマがどうの面子がどうのと騒がしくてコチトラも忙しくて仕方がねえや。その点、河合のトコの新谷より、お宅のトコの若頭はデキた男だった。楠田なら穏かにまっとうにお宅等を導いただろうに」
吉岡は深い溜息を吐いて見せ、
「まったく惜しい男を亡くしたな」
手に持っていた菊の花束をそっと墓前に置く。そして一礼し礼拝した。
その様子を突っ立ったまま見ていた遠藤は、吉岡が立ち上がりこちらを振り向くと、
「全くわけがわからねえ。河合の代紋がウチを狙ってることはとっくに分かってたんだ。若頭は俺たちの先頭に立って闘っていたんだ。なのにこんなことになるなんて」
吉岡は胸の内でほくそ笑んだが表情は同情の色を湛え、
「よかったらその辺で話さないか」
一時間後、大分日の傾いた墓地入り口にある小公園で、二人の会話は佳境に入っていた。無口の理由が寡黙なのではなく、人より物事をゆっくり考える傾向から話に乗れない性質から来ている遠藤。こうした人間は一度腹を割って話し出すと、溜め込んだものを吐き出すものだ。
「帰ってきた時の若頭の様子は?」
「病院に入ってたのは一時間半、で、姉さんが死んで……でもおかしなことがあった。若頭は一緒に連れてった女に『ありがとう』って」
「そう言ったのか?」
「へえ。若頭は少し離れてろ、って言って俺たちを遠ざけたけど、俺は離れざま耳を立ててた。耳は昔からいいんだ」
「他に何か言っていたか?」
「女や男の声は良く聞こえなかったけれど、若頭は少し声がでかいから。ナマエがどうたら言っていたな」
「ナマエ?」
「何の話か俺には分からなかったよ」
長年の勘だろうか、吉岡は今、遠藤が相当重要なことを話したのではないかと思った。何かのナマエ。人の名前だろうか?若い女と男。内縁の妻が死んだ直後、僅か数時間前に会ったその女に礼を言った極道。パズルの駒は見え出したが、まだ全体を見るまでには至らない。
吉岡はこの奇怪なジグソーが、とてつもなく大きいことを今更ながらに痛感していた。
午後八時を回った印章店二階の珈琲一番館。
本来なら閉店時間なのだが店主は心得たものだった。九時間前に初めて見た客が、閉店間際に再びやって来ると、常連の刑事との待ち合わせと正確に読んだ。コーヒーを出すとそ知らぬ顔で奥へ引っ込み、ボリュームを絞ったテレビでナイター観戦をしていた。
待ち合わせの刑事は約束の時間を二十分過ぎ、辺りを窺いながらやって来た。
汗を拭きながら座った吉岡の後輩はアイスコーヒーを頼み、置かれた水を飲む。そのまま彼のアイスコーヒーが運ばれるまで挨拶もない無言の時間が過ぎる。
男が運ばれて来たアイスコーヒーを一口飲むと、吉岡は漸く切り出した。
「料理の数は五人分。死んでいたのは三人。五引く三は?」
後輩は無表情のまま黙っている。
「円卓に置かれた紙コースターに走り書き。何と読むのか分からない小難しい二文字」
後輩は目を瞑る。
「楠田のベンツは未だ行方不明。遠藤という運転手のポケットからキーが抜き取られていた。確かに店の駐車場に停めてあったはずだが、出て行ったのを見た者はいない」
後輩は冷静を装っている。
「何故か店の外に布ナプキンが落ちていて、これにも漢詩か経文のような書き付けがあった。筆跡はコースターとほぼ一致する。だが、これらの証拠品は東京から来た男に無条件で引き渡された」
後輩は目を瞑ったまま腕を組む。
「楠田はその三日前、長患いの内縁の妻を亡くしている。死因は心臓発作だが急変だったそうだ。ちょうどその場に楠田が居合わせ看取った。その時、誰も見たことがない若い男女も同席していたという」
後輩は目を開き、重い口を開く。
「私に何を言っても無駄ですよ。帳場は開かない。三人の死因は病死。正式に決りました」
「マスコミがうるさいぞ」
「人の噂も七十五日。死んだのは全て極道ですから世間はさっさと忘れるだろう、と」
そこで後輩は身を乗り出し、真剣な面持ちで囁く。
「独自捜査なんてドラマや小説だけの話だって言いましたよね。そういうことはヨシさん、よく知っているくせに」
そこで耐え切れずに不安な表情を浮かべ、
「ヨシさん。悪いことは言わない、もう止めた方がいいですよ」
吉岡は一瞬寂しそうな苦笑を浮べたが、直ぐに真顔に戻る。
「お前の言う通りだ。でも」
吉岡は虚空を睨んで、
「止めたら一生後悔するんだろうな」
そこで再び寂しそうな笑みを浮かべる。
「済まなかった。もう忘れてくれ。あのおかしな男の言う通りだ。こいつはとてつもなく深いドブの中にある。探ったら自分も臭く汚れるのは必至だな」
ふと吉岡は遠くを見る眼差しで、
「いや、こいつはドブというより崖の上だな。絶壁の下に真実がある。でもそれを見るには底なしの崖を下っていかなくちゃならない。一歩足を踏み違えたのなら……」
「だから先輩――」
「いや、本当に済まなかった。さっさと忘れてくれ。俺のことも事件のことも」
吉岡は伝票を摘むとさっさとレジに向かった。残された男は力なく首を振り、天井を睨んだまま。代金を払った吉岡が店を出るまで、いや、生涯二度と彼の姿を見ることはなかった。
お読み頂きありがとうございます。これでファーストシーズン終了します。
セカンドシーズンは秋、10月以降スタートです。
沙由紀のライバル『色詠み』雑色家登場!お楽しみに。
ありがとうございました!