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 懸崖の下・前

 男がこの街に来たのは初めてだ。私鉄とJRのターミナルがあるこの街に、車ではなく特急でやって来た。携帯ではなく公衆電話で一本電話を掛けた後、橋上駅のコンコースを南に下りる。駅前のタクシー乗り場は空いていて、すんなりと一台の客となる。晴れていたが梅雨直前の空気は湿って重い。車内は冷房が効いていた。

「蒸しますね」

 人懐こい運転手が声を掛ける。

「ああ、暑いねぇ」

「お仕事ですか?」

「いや、私用だよ」

「これは失礼しました。きっちりした格好なさっているからてっきり」

「ああ、これね。ちょっと真面目な話をしなくちゃならないんでね」

「それは大変だ。この街は初めてで?」

「そうだよ」

「時間がおありでしたら大社おやしろに行かれるといい。あそこは涼しくていいですよ。日本で二番目に古いくすのきや名水百選の泉が見所でして」

「ああ、楠には興味があってね」

「そうですか、ではぜひご覧になるといい」

 男は頷くと苦笑を浮かべる。

(俺の興味があるクスノキは、もうないがね)


 男はこの街の市役所や税務署、警察署などが建ち並ぶ官庁街でタクシーを降りる。待ち合わせの場所は、行政書士の事務所と不動産屋に挟まれた印章店の二階にあった。ちょっと見ただけでは見落としてしまう小さな木の看板に『珈琲一番館』とある。職業柄、観察眼に優れた彼は普通の人間なら通り過ぎるところを一度で見つけた。狭い木の階段を昇ると、同じように古い木の扉を開く。カランとカウベルの音が来店を告げた。

 相手は十五分後に現われた。出て来た店主にアイスコーヒーを頼み、男の前に座るなり挨拶もなく声を潜めて、

「困るな。先輩」

 男はただ笑っただけだった。二人の沈黙は続き、店主がよく冷えたグラスをテーブルに置き、奥へ引っ込むまで話は始まらなかった。

 店主の姿が消えるのを見届けるや、男はカップのコーヒーをゆっくりと飲むと、

「俺は休暇中、偶然この近所に来た。どうせだからと昔の同僚に挨拶の電話をした。あんたは昔話とか今抱えているヤマの話とか、まあ、愚痴を言いに会って見る。元同僚は、どうせ権限はないんだし、視線が変われば何か得られるかも知れない、ってな」

 相手の男は溜息を漏らす。

「そんな白々しいシナリオなんてウチの課長の鼻息で吹き飛んじゃいますよ」

 やれやれといった感じで首を振ると、

「で、何をどうしたいんですか?」

 男は一枚の新聞切り抜きをテーブルに置く。

「こいつを知ってるな」

「やっぱりな。知ってるも何も、ってやつで。全国区になってますからね、このヤマ。まあ、どうもヤマになりそうにないが」

「大都会からおかしな男が来て……」

「え?」

「いいんだ、忘れてくれ」

 相手は真剣な顔で、

「でもこいつの話は出来ませんよ。幾ら先輩でも」

「いいや、お前から聞こうとなんて思ってないよ。その代わり、こいつの金魚の糞に興味があってね」

 男は記事の顔写真のひとつを指差して、意味深に相手の顔を見る。

「先輩。どうしたんですか?まるで出来の悪いサスペンスドラマみたいだ。すっぽん刑事デカ吉岡、謎の中華料理店殺人事件ってね」

 思わず男、吉岡警部補は笑い出す。

「お前のユーモアのセンス、鈍ってないな。いや、元気そうでなによりだ」

 相手は再び嘆息する。暫く笑顔の吉岡をじっと見つめていたが、やがて、

「自分のしていることは、分かっていると?」

 吉岡は笑顔のままだ。すると相手は更に声を潜めて、

「そう言えば遠藤って、図体ばかりでかい奴がめそめそ泣いてやがったな。見栄の展示会みたいな葬式では少し目立っていたっけ。奴っこさん、オツムは鈍いが死んだ男の取り巻きでは一番可愛がられていて、運転手をやっていたらしい」

 ふと言葉を切ると再び吉岡の顔をじっと見つめる。

「独り言ですよ」

 それだけ言うと、手を伸ばした吉岡より一瞬早く伝票を取ると、

「マスター。これツケといて」

 レジに伝票を置くと、さっさと店を出て行った。吉岡はそちらを見ることなく、冷め切ったコーヒーを飲み干した。



 午後四時の東京は銀座。眉根を寄せ、顰め面をした男が黒い公用車を降りる。

「今日はもういいよ。帰りなさい」

 男は運転手にそう告げると、早足で歩道に上がる。走り去るニッサン車を見送ると混雑した銀座通りを日本橋方面へ数分歩く。ブランド宝飾店と老舗デパートの横を通り過ぎ、高級文具店の脇を抜け、裏通りに入った。

 行き交う人種は、そぞろ歩きのウインドーショッピングを楽しむ人々から、事務員や運送業者など街を支える裏方へと変わる。更に男は小さな画廊と高級和食店が一階に並ぶ雑居ビルの間、細い通路のような横道へ入り込む。そこはすれ違うのも半身にならねばならないほど細い道で、真っ直ぐに五十メートルほど伸びていた。知らない者が入るには躊躇する場所だ。男は慣れた感じで歩調を緩めず歩き通し、反対側から通路を抜ける。そこも裏道だったが、微かに生ゴミや揚げ物の匂いが漂う場所で、実際ゴミ入れの大きな容器が幾つも並んでいた。カラスが一羽その容器の縁に留まって、威嚇するように羽ばたいた。

 男はその道もどんどん歩いて行き、とある雑居ビルの通用口に入る。そのビルは築五十年は軽く越えた古い建物で、薄暗い蛍光灯が殺風景な廊下を照らしていた。

 両側に鉄扉の並ぶ廊下を慣れた足取りで歩くと、廊下の突き当たりにあったドアを手前に引く。そこはこのビルの正面出口に面した一角で、左手に警備員の詰所と入館者が記載する入館名簿が置いてあるカウンターがあった。しかし詰所のカウンターには『巡回中』の札が置かれ、人の気配はなかった。

 男はそのまま正面入り口のドアを開く。途端に都会の喧騒が溢れた。そこは銀座通りを一本外れた裏通りで、人通りは激しかったが、雑居ビルから出て来た男を見遣る人間は存在しなかった。

 男はそのまま人の流れに乗って歩くと、最初の交差点で立ち止まる。やがて流しの個人タクシーがやって来ると手を振って停め、ドアが開くなり素早く乗り込んだ。

「新橋まで行ったら銀座通りを折り返して、ここの反対側まで戻って来てくれ」

 男は先に五千円札を差し出してそう告げる。ベテランの運転手は「どうも」と札を受け取り、後は黙って指示に従った。東京の繁華街で流し中心のタクシー運転手をしていれば、おかしな客は幾らでもいる。とにかく金さえ貰えれば文句はなかった。




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