仕舞
ナビの指示通りに街を抜け、高速道沿いの県道まで来ると、沙千也は漸く楽に息が出来るようになった。夜の八時を回り、車の通行量は減っている。
「荷物を一切置いて来たな」
彼がポツリそう言うと、
「問題ない」
素っ気なく沙由妃が応じる。
「ケータイや財布は?」
「足の付くもんじゃない」
「組では俺たち録画されてないか?」
「大丈夫。おっちゃんが手を回す」
沙千也はフーっと息を吐いて、
「これで殺人の共犯か」
「済まないな」
全く心の籠もらない言い方に強い口調で返す。
「本当にそう思ってるのか?」
沙由妃は宥めるように隣で手をヒラヒラとさせながら、
「ほらほら、イラつくなよ。運転に集中しろ。初心者のわき見運転は心臓によくない」
体よくあしらわれた沙千也はぐっと堪えると、
「はいはい。お嬢様」
後は運転に集中し沙由妃の方を見ることもなかった。
ナビが示した終点は、街から十数キロ離れた山間にある部落の先。迷路のように枝分かれする山道を行った所にあった。ベンツは途中、曲がり切れずに擦ったり、狭い山道のガードレールに押し付けたりしてへこみや傷だらけになっていた。最初は掠る度に首を縮めていた沙千也だったが、それが何度も起きると構うもんか、と大胆になっていた。
そこは古い神社の前で、沙千也は石の鳥居前に僅かに出来た空き地に停めると、
「ここだと思うけど」
「そうだな」
夜の闇に沈み、街灯もなくベンツのヘッドライトに浮かぶそこは不気味以外の何物でもなかった。沙由妃はドアを開け、さっさと鳥居を潜る。沙千也も降りようとしたが、神社には明かり一つないことに気付くと、ダッシュボードを探る。ライターと懐中電灯を見つけると明かりが点くことを確認し、エンジンを切る。たちまち真っ暗闇になり、慌てて懐中電灯のスイッチを入れ、車のキーを持ってドアを開ける。カチャンとドアの施錠される音が不自然に大きく聞こえた。深と静まった背景の森。神社は月夜の中黒々と聳える。
「さっさと来いよ」
沙由妃が声を掛ける。足元を照らし、踏み石に蹴躓かないよう気を付けて沙由妃の前まで行く。
「おっちゃんは多分、明け方早くに来るだろう。少し寝ておくよ」
沙由妃は目線で神社の社殿を示す。それは社殿と言うより祠と呼んだ方がしっくりとくる小さな建物だった。
「そんな所より車の中のほうが寝易くないか?」
沙千也の声に不満と嫌悪が隠されていた。沙由妃はフンと鼻を鳴らし、
「そんな車の中で寝ていたら、奴の亡霊が現われるぞ」
思わずぎょっとした沙千也だった。もちろん冗談に決っているのだろうが、沙由妃が言うと全く冗談に聞こえない。沙千也は何か気の聞いたことを言おうと口を開いたが、沙由妃はさっさと祠の階を昇り、観音扉を軋ませながら開いて祠の中に姿を消してしまった。
何かの夢を見ていた。それは酷い悪夢であり、醒めなければならないと気付いてもいた。
彼は必死で目覚めようとする。だが瞼は重く、身体も金縛りにあって動けない。それでも起きなければ、と彼は力む。このままでは自分は何か得体の知れぬ邪悪なものに取り込まれてしまう。焦る彼の前、ポツリと灯りがともる。それは蝋燭のようで、揺らめく灯りが少しずつ近付いて来た。
最初は宙に浮かんでいた燭台は次第に近付くにつれ、それを捧げ持つ人物を浮かび上がらせる。その姿は最初黒い影だったが、やがて蝋燭の灯りに照らされて、沙由妃だと分かるようになる。彼女は着物を着ていて、それは時代劇に登場する姫の格好。煌びやかな簪や錦が蝋燭の光に浮かび上がり、華やいで美しい。彼は心からほっとして脱力する。すると呪縛が解けたのか、身体が動いた。彼は彼女に声を掛けようとする。しかし声は出ない。もう一度やってみるが、発声することはままならなかった。
その時、やって来るのは彼女独りではないことに気付く。その後ろ、灯明の揺らめく灯りに見え隠れするのは大きな男。彼は眼を凝らし、誰であるかを見定めようとする。そしてそれが誰であるか気付くと同時に凍り付く。その陰は楠田だった。青白い顔に何の表情も浮かべず、じっと沙由妃の背中を眺めているようだ。
――沙由妃!彼は叫ぶが声は出ない。すると後ろの陰が二人三人と数を増し始める。それは、新谷。近藤と言う新谷の手下。その後ろが、あの病院で逝った楠田の女。更に最初の出会いで沙由妃が殺すのを見た空き地の男……次々に現われるのは沙由妃に葬られた者たち。既に那真会が抜け、単なる器となった亡者。その数は増え続け、彼の知らない顔が次々と――
そこは青白い光が木の床に模様を描く部屋。沙千也はハアハアと忙しなく息を継ぎ、汗まみれの身体を意識する。目覚めの直前、何かを叫んだようで、何と言ったのかは分からないが自分の声を聞いた気がした。飛び起きようとしたのだが、身体が動かなかった。パニックが訪れかけたが、自分の身体が寝袋に包まれているのに気付き、金縛りの理由を理解した。祠の中には二人分の寝袋とミネラルウォーターのボトル、非常用缶詰のカンパンが用意してあった。水だけを飲んでさっさと寝たのを思い出す。こうして今の状況を把握し、意識してゆっくりと呼吸をするようにする。すると漸く身体の緊張が解け始めるのを感じた。
「夢を見たのか」
闇の中から声が掛かり、ぎょっとしたが、直ぐに声の主の姿が黒く浮かんで沙由妃だと分かる。
「ああ。酷い夢を見た」
沙千也は寝袋を開いて上半身を起す。ひんやりとして埃臭い空気が漂っている。正に悪夢の原因となった会食に着て行った礼服。上着は脱いで畳んでいたが、ズボンとワイシャツは着たまま寝袋に入っていた。さすがにネクタイは外していたがワイシャツのカラーが首を絞めるようで、彼は胸のボタンをもう一つ外した。
闇の中の沙由妃は、高窓から差す月の光が照らす床の反射で辛うじて黒い塊となって見えていた。例の体育座りをしているようだ。上着を脱いでいるので、白いブラウスと黒いスカート姿のはずだが、彼の位置からは確認出来ない。
「お前の後ろに死んだ人が群れている夢を見たんだ」
随分と経ってから沙千也が言う。
「それは済まなかったな」
別段済まなそうな感情の籠もっていない声。逆にそれを聞いて安心する沙千也だった。
「お前といるとこれから先、こういう夢ばかり見るのか、と思って嫌になる」
「悪いが慣れるしかないな」
「……だよなぁ」
沙千也はハアーっと大きな溜息を付く。これがすっかり癖になりつつあった。
「私も夢を見たよ」
少し感情の滲む声。
「何の夢?」
「両親の夢だ」
「そうか」
「いつも『孤露詞』の後にみる」
「いつも?」
「大概はな」
沙由妃が身動ぎし、床がギイっと鳴る。
「私の両親が私に名前を付けたときの夢だ」
「へえ」
沙千也は続きを待ったがいつまで経っても沙由妃は話さない。五分も過ぎた頃、焦れた沙千也が声を掛ける。
「なあ、沙由妃ってどういう意味だい?」
問い掛けたが声はない。諦めかけた頃、声があった。
「ユキは幸せのユキだそうだ」
「でも字が違うね」
再び身動ぎの気配とミシッという床の音。
「父は私に幸せのユキを付けたかったようだが、知っているか?これと『沙』の組み合わせは最悪の名前だそうだ。それで字面の良い、由緒正しいのユイに楊貴妃のヒにしたそうだ」
そこで沙由妃からクククと忍び笑いが漏れる。
「まあ、名乗れないなら、ないも同然の名前だが」
「だから俺がいるんだろ?」
思わず吐いて出た言葉だった。沙由妃の苦笑いが大きくなる。
「ああ。そうだったな」
再び長い沈黙が続くが、それは何か心温まる沈黙だった。暫くすると今度は沙由妃から話が続く。
「なまえは厄介なもんだ。魂の方ではなく人の名前は、不思議と魂の意と一致するか正反対だったりする。人は自分の子孫になまえを与えるが、その行為は命を吹き込む意を成すことを、無意識としても感じているのだろうな」
宗教談義のような話だったが、沙千也はその言葉を噛み締め、理解しようとした。
「難しいな、人間って」
素直に沙千也が感想を言うと、沙由妃もしみじみと、
「複雑なんだよ。那真会の器だけの割にはね」
月が傾き、高窓からの月光も長く伸びる。いつの間にかその光は沙由妃の足元を掠め伸びていた。体育座りのつま先が青白く照らされる。ストッキングを履いていたはずだったがいつの間にか脱いでいる。裸足の指先がきちんと揃い、時々上げたり降ろしたりを繰り返している。
「寝たのか?」
沙由妃の声にはっとする。随分と長い間黙ったまま彼女の足先を見つめていたらしい。
「いいや、起きている。もう、眠れそうにない」
「だろうな。最初はそんなもんだ。言っとくが、四時間位後に、お前は正体もなく寝ているだろうよ」
「え?」
「興奮しているんだ。で、どっと疲れが来る。まあ、ミッションはコンプリートしたんだ。おっちゃんが来たら好きなだけ休めるからな」
確かにあれが現実だったとは思えない。こうして沙由妃と二人きりで山の祠にいることもだった。
「悪いがおっちゃんが来るまで休ませて貰う」
足先が光から陰へ引っ込み、ガサガサと寝袋の音がする。沙千也は寝袋に足を入れたまま、じっと闇を見つめ、やがて聞こえ出した沙由妃の寝息に耳を傾けていた。
伊勢は日の出の一時間前、仄かに東の空が白んだ頃に現われた。
遠くから車の音がすると沙千也はそっと起き上がり、祠の扉を少し開けて覗いていた。ベンツの輪郭がはっきりと見える位に明るくなって来ている。さっとヘッドライトが差し、ベンツを照らし出す。すると車の停まる音がして、ドアの開く音、続いて人影が七人分現われる。その中の一人が伊勢だということが分かる位に、辺りは急速に明るくなって行く。
伊勢は従えた黒服に何事か指示をする。一人がベンツに近寄って運転席側のドアで何かしていたと思ったらドアを開けた。そのまま運転席に座った男がハンドルの下に屈みこむと、ものの数秒でエンジンが掛かる。もう一人黒服が助手席に座るとそのままベンツは走り去った。伊勢は残った黒服に指差し示して指示すると、その中の二人を引き連れ祠にやって来た。
「おっちゃん」
いつの間にか起きていた沙由妃は、祠に入って来た伊勢に起き上がった格好のまま軽く手を振る。しかし伊勢はいつもの「おっちゃんと呼ぶな」ではなく、苦虫を噛み潰したような顔で、
「沙由妃。あまり好き勝手にやるなよ。ひやひやしたぞ」
沙由妃は大袈裟な仕草で肩を竦め、
「一気に片付けた方が楽だろ?」
「それはそうだが、独断専行が過ぎる。今回はかなり目立ったじゃないか。噂を打ち消すこっちの身になっても見ろ」
伊勢は険しい顔で沙由妃を睨むようにするが、彼女は涼しい顔。
「面倒臭いのはキライだ」
「沙由妃!」
「分かったよ、お説教は後でいくらでも聞くからさ、もう、こんな所出ようぜ、おっちゃん」
言うなり寝袋をくるくると丸め、伊勢に放り出す。伊勢が慌ててそれをキャッチする横を彼女はすり抜け、さっさと祠を出て行った。
伊勢はぐっと肩に力を入れていたが、やがてがっくりと力を抜き、沙千也の顔を見る。
「疲れたかい?」
「正直、もう沢山です」
沙千也も何かにイライラしていた。沙由妃と同じくさっさと起き出して、寝袋はそのまま、祠を出た。残された伊勢は力なく首を振ると、二人の黒服と一緒に祠の中を片付け始めた。
一時間後、高速道路のパーキングエリアに彼らの車が入り、停まった。
「トイレ休憩だ。この後一気に『啄木荘』まで帰る。十五分後に出発、見える範囲にいろよ」
伊勢はそう言い置くと、さっさとドアを開ける。大型トラックのひしめく駐車場をトイレの方へ歩いて行った。
「おっちゃん、怒らせちゃったな」
沙由妃は苦笑混じりに言うと、
「では手洗いに行くか」
運転する黒服と、直ぐ後ろに付けたもう一台から降り立った三人の黒服から注視される中、沙由妃もトイレへ向かう。
「では、俺も」
見つめる黒服にお愛想笑いをして、沙千也は二人の後を追った。
沙千也が用を足して駐車場に出ると、沙由妃が一人木のベンチに腰掛けているのが見えた。足を揃えてベンチの縁に上げ、金髪を風に靡かせ、東の空を眺めている。日の出の直前、空は薄桃色、風に乗った千切れ雲が流れて行く。
沙千也は同じベンチの隣、一人分空けて座る。そして沙由妃が何を見ているのか、と空を見上げた。すると朝焼けを見つめる沙由妃が空を見上げたまま、ぽつりと言う。
「私は多分、お前たちとはちがう空を見上げている」
「ちがう、空?」
鸚鵡返しに沙千也が言うと、
「そうだ」
その意味を問う気持ちは湧いて来たと同時に失せて行く。何を聞いても今の自分には沙由妃の言葉を理解出来るとは思わない。多分、まだまだ時間が必要なのだろう、そう彼は思った。代わりに彼は気になっていたことを呟いた。
「あの楠田……立派な男に見えたのに」
「ヤクザ者に立派も何もないよ」
沙千也がギクリとしたほど、それは強い反応だった。彼女の横顔には紛れもない嫌悪が滲んでいる。
「奴のプロフィールを読んだろう?十人以上の殺人に絡んでいた。全て証拠不十分ってやつでさ、ずる賢いから頭角を現し始めていて、このままでは手に負えなくなりそうだからおっちゃんたちの標的になった。ゴキブリの親玉みたいなもんだ。潰すのに何の遠慮もないだろう?」
すっと彼女の視線が彼に移る。
「いいか、先触人。あいつらは単なる標的だ。放っておけば何の罪もない人たちが苦しんで下手をすれば死ぬことになる。同情なんかするんじゃないよ」
ひょっとして、と沙千也は思う。沙由妃は過去、暴力団から何かの仕打ちを受けたのではないだろうか?普段はクールな彼女が、ヤクザ者の話となると表情を変える時がある。今まで何人を葬ったのかは知らないが、それに罪悪を感じている様子も見えない。まるで復讐のように……。すると彼は楠田が新谷を殺そうとした時に見せた顔を思い出し、目の前の金髪の少女と較べてしまうのだった。
「まったく下らない野郎どもだ」
沙由妃は空を見上げて吐き捨てる。
「ほんと、くだらない」
その声に含まれる喩えようのない憤怒と不快感。それが痛いほど彼にも伝わった。彼女は立ち上がり、彼の方を省みることなく車の方へ歩いて行く
沙由妃を見つめる沙千也の顔は複雑だ。彼女の後を追いながら声を掛ける。
「お前、こんな生き方、好きか?」
立ち止るが振り返らない肩が軽く上下する。沙千也は暫く答えのないその背中をただ見つめるだけ。
「好きだと思うか?」
その声は平板で、何時もの皮肉が込められていない。
「好きな訳ないだろう?」
こちらの答えを待たずに答えが返る。昇り始めた朝日を受け、背中を見せたまま沙由妃の両肩が僅かに下がったのを彼は見逃さない。そのまま前を向き、彼女は歩き出した。
沙千也も何も言わない。ただ、彼女が歩いて行く三歩後ろに付き従う。
それが彼の任であり宿命だったからだ。