下・急
言葉が人を殺す。『言詠み』は『那真会』を詠み、人から那真会即ち『魂』を別つことを『孤露詞』と呼んでいる。それは殺人ではないと彼らは言う。人が殺意を以って人を殺めることと那真会を別つことは根源が違う、と。
那真会を識ることは言詠みだけが可能な真理だ。那真会を失うことは人生の終わりを意味する。故に生殺奪与が自在な言詠みは、その気になれば世界を握ることも可能。しかし過去、そのような欲に己を溺れさせた言詠みは存在しない。無論、その技を使い覇者を創造したことはある。天下人と呼ばれた者たちの中に彼らを使い成り上がった者がいる。だが、言詠みはそのような状況においても常に陰にいた。力を持って成り上がることは力に因って滅ぼされる。そのことを誰よりも知っていたからだった。
技は業とも言う。技を捨て我が代限りと願った言詠みもいたが、結局は子に伝えた。業の重みは一個人のささやかな願いなど省みることはない。かつては沙由妃の父も我が代限りと願ったが、数百年の伝統は簡単に彼を解放することはなかった。身が細る苦悩の末、彼は幼い我が娘に秘儀を伝えた。
父がそうであったことを沙由妃も知っていた。家族の死以来、沙由妃も一代限りと誓い、出来ることなら技をも捨てたかった。それでも彼女は技を使う。それは早世した家族に繋がるものであったし、生きる術でもあったからだ。その願いと現実の相違を彼女は殊更意識したことはないし悩んだこともない。しかし、彼女は何時かこの技のために自分が斃れる日が訪れると確信していたし、それが明日だとしても惜しいとは思わない覚悟は出来ていた。
言詠みの孤露詞とは、このように壮絶な覚悟の上にある技であった。
今、一人の男が那真会を詠み、相手は悶絶する。しかし詠んだ男は言詠みではない。言詠みは面に現われずとも悲壮な覚悟で技を使う。対し、男は単純な復讐欲、征服欲を持って相手の那真会を詠んだ。その顛末は?
「苦しいか、苦しいよな新谷。ざまあみろ。土屋も苦しんでいる。サトヤさんやあの探偵もさぞ無念だったろうよ。お前にはお似合いの最後だぜ」
沙千也は息を殺して成り行きを見守っていたが、楠田の表情の変化に思わず目を逸らす。その顔はあの自信と貫禄に裏打ちされた一種カリスマに近いものではなく、単純な快楽と残虐な有様を愉しむものに見えたからだ。
彼は楠田を恐れてはいたが極道とはいえ、心のあるリーダーとして尊敬に値する人物だと思い始めてもいた。ところが今の楠田はただの復讐者だった。もちろん新谷は殺されても仕方のないような悪人なのだろう。だが、それを愉しみながら殺そうとする楠田も結局は同類に思える。
今、初めて沙千也は楠田が真のターゲットであることに違和を感じなくなった。
新谷は胸に手をやったまま円卓に伏す。ガチャンと皿が押し出されグラスが倒れ酒が零れる。苦しそうな息遣いと波打つ背中。そんな新谷を満足げに眺める楠田。押さえ切れない笑みが広がり、興奮に顔が紅潮している。
「新谷、心配するなよ。お前のシマはきっちりウチが貰ってやる。安心して逝くんだな、え?」
しかし楠田はそこで言い淀む。押さえた笑い声が聞こえ出したからだ。新谷の震える背中は変わらないが、なんとそれが笑いを堪える震えに転じたのだ。
「死ぬもんかよ。テメエがいくら喚こうがそれじゃ俺は死なないぞ!」
言うや否や新谷がさっと起き上がる。
「ああ、こういう悪ふざけも楽しいな、え?楠田」
そして呆然とする楠田を尻目に沙由妃へ、
「小玉さんとやら。信じて見るもんだな。手紙が来た時には冗談か悪ふざけと思っていたが、まさか本当だったとはなぁ。コンドウには悪いことをしたが、こうでもしないとあんたの技とやらを確かめようがなかったし、楠田が怪しむ可能性があったからな」
楠田の顔が見る見る紅潮する。新谷は笑いながら斃れた手下を見下ろし、
「まあ、どうせこの近藤は野心ってヤツが強くて手に負えなかったから、一石二鳥ってやつだな」
「小玉!」
楠田は新谷ではなく沙由妃に飛びかかろうとする。しかし既に沙由妃は数歩離れており、楠田の大きな手は虚しく宙を掻いだ。
「やれ、小玉さん」
新谷の声に応え、沙由妃は声高に詠んだ。
「貴公は『戯韻』」
「貴様ぁ――」
楠田は沙由妃に飛びかかろうとしたが、そこまでだった。その動きが急ブレーキをかけられたかのように停まり、両手は自らの喉を押さえる。まるで喉から何かが飛び出すのを必死で押さえるような仕草。息が出来ないのか、ヒューヒューと喉が鳴っている。目は見る見る血走って飛び出さんばかりに見開かれ、涙が滔々と流れ落ちた。最後の息で怨恨の声を振り絞る。
「コ……ダ、マ……」
沙千也は未だ座ったままその一部始終を眺めていた。時も場所も忘れ、ただ一人の極道が倒れのたうつ様を虚ろに観ている。やがてのたうつ身体は動きを止め、楠田は操り人形が崩れ落ちたかのような格好で事切れていた。
新谷は慎重に歩み寄り、突然楠田を蹴り上げる。動かないのを確認するや首筋に手をやって脈を診る。
「確かに、死んでいる」
何かしみじみと呟くと沙由妃を見上げ、
「小玉さん、ありがとよ。こいつは約束の謝礼だ」
空いている椅子においてあった手提げ鞄から白く部厚い封筒を取り出し、円卓の上に放る。沙由妃は何の迷いも見せずに拾い上げ、中身を確かめもせず自分の黒いポーチに入れた。
直後、恐ろしく醒めた目で新谷を見る。彼女は時間を無駄にしない。視線に新谷が気付き何かを言う前、一気に片を付ける。
「貴公は塵酪」
「馬鹿な!」
今度は新谷がそっくり楠田の断末魔を擦る番だった。殺伐とした光景に慣れていない沙千也にはもう見ていられない。溢れる嫌悪と吐き気が襲い、痺れるような疲れが自然と目を瞑らせ、耳を両手で塞ぎ、顔を下げさせる。そうしていれば、自分はこの世界から切り離される、とでも信じているかのように。
「沙千也」
感情に乏しいあの声と肩に掛かる華奢な手。びくっと震えるや沙千也は顔を上げる。その顔は涙で濡れていた。
「何でだ」
嗚咽を抑えた問いに沙由妃は被りを振り、
「呆けるのは後にしろ、先触人。先ずは脱出が先」
斃れた新谷を頓着なく跨ぐとテーブルの上から布ナプキンを引き寄せる。
「いいか。これからお前は面白いものを見ることになるが、何が起きても慌てず騒がず、静かに座ったままでいろ。私が良いと言うまで喋るなよ」
そう沙千也に告げるなり、ボールペンを取り上げて手元にあったナプキンに素早く何かを書き付ける。そうしておいてから瞬時目を瞑った。何事か念じた後で目を開き、右手の中指と人差し指を揃えて空に印を切る。
「われよみびとなる なんぢわれにせいをうけ そらをまい まわるよし いで まいあがりわれをけしたまへ」
沙由妃がそう呟くと突如ナプキンがふわり浮き上がり、一つの角を頂点に伸び上がる。それは正しく鎌首をもたげた蛇の動きで、沙千也が目を丸くして見守る前、滑るように宙に跳ね上がる。そして天井すれすれに留まると、まるで皿回しの皿のようにくるくると回転し出した。
突然、部屋のドアが蹴破られ、完全装備の機動隊員二人が飛び込んで来る。二人は入るや否や手にした拳銃を左右に振り、叫んだ。
「動くな!」
沙千也は思わず身動ぎするが、いつの間にか隣に座っていた沙由妃が手を伸ばしその右手に触れる。最初に触れられた時感じたあの熱。彼女に触れると思わず身震いするほどの熱を感じる沙千也が沙由妃を見ると、彼女は被りを振って指を一本、口の前に立てた。
機動隊員はドア側の壁を背に、左右に別れ部屋を確認すると、
「安全確認!」
その声を受けて、次々に同じ制服姿の隊員が四人、その後ろから私服の刑事が続く。
「死んでいます」
最初に入った隊員の一人が、椅子の背に背中を仰け反らせ白目を剥いている向こう傷の男の脇から報告すると、もう一人が、
「こちらもです」
楠田の脈を診て首を振る。大の字で倒れていた新谷には刑事の一人が近付き、じっと見下ろしていたが、
「ったく。なんてこった」
深い溜息と共に吐き出すと、
「救急車と監察医を。機動鑑識は呼んだか?じゃ、課長にも直ぐ出張ってくれと」
一人の刑事が走り出す。
「手が足りないな、応援を頼め。それに新井と河合、両方の事務所に非常警戒したほうがいいって上申しろ」
もう一人が携帯を取り出し連絡を始める。
「隣は?」
刑事は後から入って来た機動隊員の一人に尋ねる。
「全員眠らされているようで。これってヤクですかね?」
「さあな。ったく参ったな、こいつは蜂の巣を突いたような騒ぎになるぞ」
リーダーらしい刑事はそう言うと天井を睨んだ。正にその視線の先、殺人現場の緊迫感と対比して、なんとも間の抜けたような情景で布ナプキンが廻っている。
沙由妃はそっと立ち上がると沙千也に向かって首を振り、付いて来るように促す。沙千也はおっかなびっくり椅子を引き立ち上がるが、周辺の警察官は誰一人二人に気付かない。
(これも沙由妃の『式』とかいう術なのか)
沙千也がそう思い、件のナプキンを見上げると、またもや彼は度肝を抜かれる。なんとそれは回転しながら沙由妃の頭の上を滑るように付いて行くではないか。沙由妃は構わず機動隊員と刑事の前を通り過ぎ、開いたドアから廊下へ出る。沙千也は慌てて沙由妃の二歩後ろ、忍び足で付いて行った。その頭上ではナプキンが二人のペットのように漂っていた。
店の中は既に警察官で溢れ返り、運悪く居合わせた客や店員が私服や制服の警官から事情聴取を受けていた。二人がそれを横目に機動隊員が固める入り口から外に出ると、丁度応援の警官たちが駆けつけ、追い掛けて救急車のサイレンが近付いて来た。
「お前、あれ運転出来る?」
沙由妃が沙千也に話し掛けたのは、黄色いテープを張り巡らそうと数人の警官が走り回り、野次馬が群がり始めた店の前、向かい合った駐車場に差し掛かった所だった。
彼女が指差したのは駐車場の水銀灯に輝く楠田のベンツ。
「おい、本気か?」
緊張で沙千也の声が掠れる。
「大丈夫だ、警察は気付かない。暫くはね」
「あんな立派なのは運転したことはないけど」
「他のならあるんだろう?」
「人並みには」
「じゃあ、動かしてくれ、ほら、キー」
沙由妃がポーチからキーを出し、沙千也の手に押し付ける。
「いつの間に」
「いいから行くぞ」
沙由妃の言った通りだった。外にいた警官も、駆けつけた救急隊員や野次馬さえも誰もが二人を、そしてベンツを気にも留めなかった。沙千也が近付くと開錠の音がする。そのままドアを開け、運転席に座ると、助手席に沙由妃が滑り込む。沙千也はそのまま数秒間、運転席に座って自信なさげにハンドルを握っていたが、
「どこへ行けばいい?」
「そこのナビ点けて、私の言う座標を入れろ」
エンジンを掛け、慣れないナビの操作に手間取った後、漸く二人は出発する。そろりと駐車場からベンツを出す沙千也は心配そうに辺りを伺ったが、相変らず人々は店の周りで忙しなくこちらを見るものはない。しかし、車は見えているようで、ゆっくりと車道に出ると、ヘッドライトに照らされた警官二名が道を空けた。一体何の車輌に見えるのかその二人の敬礼を受け、ベンツは次第にスピードを上げ、中華料理店から遠ざかって行く。その姿が夜の街に消えると、店の前五メートルほど上空をくるくると廻っていたナプキンが突然力を失い、はらりと地上に落ちたが、それに気付く者はいなかった。