下・破
指定暴力団という組織同士の関係は戦国時代の閨閥に似て、微妙なバランスの上に成り立っている。表側にある最大の脅威、警察や公安各局、最近は無碍に扱えば痛い目にある暴力追放の市民団体、そして無視出来ない外国の組織進出。この共通の脅威が、縄張り争いや面子の問題を一時棚上げして互いが手を結ぶ理由になっている。
しかし、それはあくまで大局的、表面上の話であり、仲の悪い者同士が世間体を気にしてテーブルの下で足を蹴りあうかのような闘争は日常茶飯事。それが拡大すれば発砲事件や襲撃事件に発展する。
楠田が老いた組長に代わり実質上差配するこの組も、一年ほど前からシマを巡って対立する団体から嫌がらせを受けていた。その度合いは次第にヒートアップして、二週間前には楠田が頼みとする若手の幹部が何者かに襲われて、全治一ヶ月の重傷を負う事件も起きていた。三ヶ月前にはやはり幹部の一人が自動車事故に巻き込まれ重傷を負い、四日後に死亡するという出来事があり、事故の相手は街の不良、軽傷で済みわき見運転で逮捕されていた。一ヶ月前にはその事故のウラを調べていた組専属の探偵が路地裏で袋叩きに合い意識不明の重体、幹部襲撃の犯人共々未だ逮捕されていない。それらの出来事のウラには自ずとその団体の存在が見え隠れする。
今宵、その団体の最高幹部が楠田とサシで話し合うことに同意した。わざわざ場所を相手方の息が掛かる中華料理店に指定したのも楠田の必死さを示しているように見えた。奴らは焦り出している。相手の男、新谷は満足げに笑って了承していた。
「新谷さん」
「やあ、よく来たな」
何か不遜な素振り一つで崩れ去りそうな、ピンと張り詰めた空気がひしひしと感じられる中華料理店の個室。お互い五人までと指定した手下をバックに、それぞれの組を牛耳る男が歩み寄り手を取り合った。
楠田が三十前の大男なのに対し、新谷は対照的に身長は百六十センチ、細身の身体の中年で、一見物騒な団体の実質トップとは見えない。だが、その細い目は常に上目使いで、見る者が威嚇か挑発されていると感じる狡猾なもの。ネクタイをしていないシャツの胸元には刺青の鮮やかな紺と紅が覗いている。
「話に乗って貰い済まない」
楠田はにこやかな態度を貫く様子で新谷の手を強く握って離した。
「ああ。こちらが最初に話を持ち掛けた時にそちらが無視しなければこんなに時間が掛からなかったよな」
相手を卑下する態度にも楠田は表情一つ変えなかった。
「こういうのは時間が掛かるもんだ、新谷さん」
新谷は鷹揚に手を振って見せ、
「楠田さんよ、あなたからわざわざ使いを寄越すとは思わなかったよ。俺も最近の出来事には心を痛めていたんだ。ツチヤさんの具合はどうだね?」
新谷が朗らかと言ってよい調子で尋ねると、楠田の背後にいた吉野と言う、最初に沙千也を小突いた男が一歩前に出て、それを横にいた中村という男が引き止めた。
「お陰さまでなんとか危機は脱したようで。意識は回復したよ」
楠田は冷静に告げる。新谷は、睨みつける吉野や中村を例の上目遣いで見遣って、
「それはよかった。気になっていたんだよ」
新谷の背後に立つ手下の一人が思わず浮かんだ苦笑を咳払いに変える。もう、ほんの一言で乱闘が始まりそうな気配に、楠田の一歩後ろに控えた沙千也は蒼白なまま息も出来ない。
「で、そちらの二人は?」
新谷が場違いな二人の若者を指差す。
「申し訳ない。組長の親戚筋の者でね。そろそろ現実の世界を観て見るのもよかろう、と同道するように組長から申し使った。大人しくしているよ。お邪魔なら出て行かせるが」
新谷は被りを振り、
「そういうことなら構わんよ。幾つだね?」
と、これは沙由妃に。
「十八になりました」
沙由妃はどこかあどけなさの残る声で答える。微かに含まれる震えといい、全く普段の様子の欠片もない。緊張して視線が泳ぐところを見て新谷は、
「まあ、そう緊張するなよ。なるほど。こういうお嬢さんやお坊ちゃんが同席するなら、と、まあ、そういうことだな。結構結構」
そこで始めて気付いたように新谷は、
「ああ、立ち話でもないだろう、さあ、乾杯しようじゃないか」
そして付け加えるように、
「そこのお二人もな」
円卓には新谷と頬に向傷のある男が座り、遅れて楠田と沙由妃、沙千也が座った。他の手下は隣の部屋に追い遣られた。新谷は背凭れの高い椅子にふんぞり返って、
「ウチの連中は大丈夫だが、楠田さん、そちらの面々は大丈夫かね?」
楠田はにやりと笑って、
「いい鍛錬の場になるよ。何か起きたらそれがどんな理由であれ、落とし前を付けてもらうと言い聞かせてあるから」
「それは結構」
そこで呉越同舟で飯を喰う破目になった手下たちのことを頭の隅に追い遣って、
「急な呼び出しだったのでたいした物は用意出来なかったが、ここの店主が精一杯がんばったそうだから期待しよう」
チン、と卓上の呼び鈴を鳴らすとドアが開いて四人の給仕が前菜と飲み物を運んで来た。
「ビールでいいか?」
新谷に尋ねられた沙千也は何とか震えを押し殺す。
「冷たいウーロン茶でもいいですか?」
「構わんよ」
「ありがとうございます」
「お嬢は?」
「同じ物で結構です」
金色の髪が額に掛かり、前髪の間から覗く目は怯えの色を湛えてきょろきょろと忙しなく動く。
白いシャツに蝶ネクタイの給仕四人は強面の男たちの前でもきびきびと動き、皆の前に置かれたグラスにはたちまち飲み物が注がれた。新谷が立ち上がり、全員が立ち上がるとグラスを翳して、
「では、新井と河合、二つの組の繁栄を祈念して。乾杯」
「乾杯」
楠田がビールを空けると空かさず給仕がグラスを満たした。新谷もグラスを空けると見事に鳳凰飾りに盛り付けられた前菜を見て、
「これは期待しても良さそうだな。さ、遠慮なく」
食事は会話もなく静かに続いた。料理は新谷の予言通り、盛り付けも味も見事なものだった。
「最近は体重を気にしろと医者にしつこく言われていてね」
新谷は最後の大皿だった鯉の丸揚げが片付けられると漸く口を開いた。
「だが、こんなご馳走を前にしたら無理ってもんだな」
「いや、新谷さんは健康そのものに見える。これから益々ご活躍といったところだな」
楠田の言葉にはもちろん棘がある。それを分かっていて新谷の横、頬に傷ある男が身動ぎしたが新谷本人は涼しい顔だった。
「ああ、そうとも、楠田さんよ。この先益々活躍して見せようと頑張っているところでね」
「頑張り過ぎは体に良くない、と医者が言わないかな」
「体重を減らすために少し運動しろ、とは言うがね。頑張るな、とは言わないな」
「それはなによりだな」
楠田が紹興酒のボトルを差し出すと、食事の途中からビールに代えて飲み続けていた新谷がグラスを差し出した。楠田はなみなみと注ぐと自分のグラスも満たし、
「ではその健康を祝して」
二人は一気に干すと、新谷は、
「で、どうだね?考えて来たんだろう?」
楠田はやれやれと首を振り、
「考えたから来たんだ。何だ?プレゼントを待ちきれないガキのようだな」
向こう傷の男がキッと睨む。だが新谷は未だ余裕綽々だった。
「ガキでも結構だよ、楠田の。どうせ何を言っても差し出すものは同じだ」
「ほう。随分な自信だな」
楠田は鼻息荒く椅子にそっくり返る。その時、楠田はさり気なく沙由妃に視線を飛ばした。同時にテーブルの端にあった布ナプキンを落とす。沙由妃が素早く屈んで拾い上げ、楠田に渡した。
「すまんな」
給仕がさっと寄り、落ちたナプキンを受け取り新しいナプキンと換える。その一連の動きの間、沙由妃はいつの間に書いたのか、紙コースターにボールペンで走り書きしたものを楠田のテーブル前に置いていた。
コースターには二文字。『塵酪』と。
「ジンラク」
沙由妃は布ナプキンを渡す際、楠田にそっと耳打つ。楠田は僅かに頷いて応えた。
「さあ、言えよ楠田。ウチに何をプレゼントしてくれるんだ?」
新谷は憤る風の楠田を上目使いで見る。
「何処が欲しい?」
楠田は憮然と返す。
「この街の三分の二、そうさな、幸、本町、中央、門前町と中上郡全部で手を打ってもいい」
「大きく出たな。それでお次は全部寄越せと来る訳だ」
「そんなにでかくはねえと思うがな、楠田。目立ち過ぎはよくねえ。出る釘は叩かれるって言うからな」
新谷はそこでケラケラと破顔する。
「まあ、近い将来、自然とそうなっても不思議はないなあ」
楠田は思わずテーブルの上に乗せた両手を握り締める。そして大きく息を吸い搾り出すように発した言葉は低いものだった。
「新谷。ひょっとしたら少しは話せるかも知れねえ、と思っていたよ。だが、やっぱりお前は阿呆だな」
新谷の顔から笑いが消え、上目使いがきつくなる。
「ほう、粋がるなあ、土壇場で」
「土壇場てぇのはお前のことだ、新谷。色々とウチにし出かしたこと、きっちり落とし前付けて貰おう」
楠田が立ち上がると頬に傷ある男が右手を後ろにさっと立ち上がる。
「小玉さん」
楠田は二人の極道を睨み付けながら静かに呼ぶ。沙由妃はすっくと立ち上がると向こう傷の男に、
「貴公は『薇剛』」
途端に男は隠し持った拳銃を取り落としそのまま両手で喉を掻き毟る。息が出来ないのか口をパクパクとさせると、そのまま椅子に崩れた。
新谷は信じられないといった顔でそれを見ていたが、
「ノギ、タナカ!」
「無駄だよ、新谷。お前の手下は今頃ぐっすりお寝んねだ。もちろん怪しまれちゃなんねえからウチの人間にも眠って貰ってるがね」
一瞬きょとんとした新谷だったが、いつの間にか給仕の姿が消えているのに気付くや、ぐっと奥歯を噛み締め楠田を睨んで、
「野郎!いつの間にこの店を」
楠田の笑みが広がる。
「新谷。お前は意外と注意力が足りねえな。半月ほど前にここの主人とよく話し合ってな、新井と河合、どちらが有利か、てな。充分に納得して貰ったのさ。時が来たら気持ちよくウチに協力して貰うってことでね」
目付きで人が殺せるのなら、今の新谷が正にそれだった。
「生きて帰れると思うなよ。ヤクなんか使いやがって」
ちらっと視線を倒れた手下に遣る。それを見た楠田は爆笑する。
「ヤクなんか使ってねえよ新谷。お前の手下は料理に仕込んだクスリで眠って貰ったが、こいつはクスリなんかじゃねえ。もっと崇高なもんだ」
そこでふと楠田は悲しそうに首を振ると、
「俺は自分の女をこいつで逝かせたんだ。そもそもはお前のような野郎が仕掛けやがった汚ねえ罠に嵌って、あいつは植物人間になっちまった。その元凶は今頃塀の中だが、お前は目の前にいる。そいつの分まで溜飲を下げさせて貰うぞ」
崩れた男はピクリとも動かない。新谷の顔に不安が過ぎり始める。
「テメエ一体、何をしやがった」
楠田は勝ち誇って、
「人間てえのは魂の器に過ぎねえってよ、だから心配するな、地獄もねえ」
そして楠田は朗々と告げる。
「貴公は塵酪!」
声は響き、相手は驚愕の表情を浮かべるや、ぐっと胸を押さえた。