序
この作品は、五分大祭(2010・5月)に出展した短編「よみびとしらず」の世界観を拡大、シリーズ化としたものです。作者は遅筆故、更新には長い時間を必要とするはずです。ご了承下さい。
人。その存在、全てが必然である。
人は、ある種の人々から『那真会』または『識流史』と呼ばれるものを持つ。
個々の那真会なり識流史は、それぞれが意味を持っている。
人はこの那真会が忌み成す運命のなか、生きて行くことを強いられて来た。今も地域的・家系的に存在する『忌み名』なる風習も、この那真会の存在を憖っかに漏れ知った者たちが伝え広めたのではないかと思われる。
だが那真会は呼び名等の記号的なものではない。それは個としての人、そのものを示しており、普通の者にそれを読み解くことは適わない。
しかし、時にこの那真会を認識する能力を持つ者も僅かながらに存在した。
その特殊能力者も、那真会を『ことば』として認識する者、『いろ』や『かたち』で認識する者、二種に分かれる。
前者を『言詠み』と呼び、後者を『色詠み』と呼ぶ。
人の那真会は、個の存在、ありのままの意味であるから、これを別名『魂』とも呼び、人が臨終を迎える時、その器である人を離れ浮遊する。
魂は、個体差はあるものの大抵は新たに生を受けた者に行き着き、新しい器に入り、その者に生きる意味を与える。
これが輪廻である。
魂即ち那真会自体に意思はなく、いわゆる『こころ』ではない。それは言わば指針であり因果である。人は那真会を受けた器として意味を与えられ、無意識下に那真会の指針を守ってこの世の営みに意味を為すのだ。
さて、この那真会を詠み解く能力は一体何の役に立つのか、とお思いの筋もあろう。
既述のように那真会は隠れた存在、真理であり、それを受ける者にも知られることはない。ために、那真会を言い当てられる事により、その者は生の意味を失い、那真会はその者を離れ、那真会を持たない初な者を、新たな器を求め去るのだ。
それは即ち、その者の死を意味するのである。
そう。那真会を知る者『詠み人』は、人を殺すことが出来るのだ。
故に古来、詠み人は秘儀を守り陰の存在として生きて来た。
権力の下、陰の手、人狩として生きる者もいれば、自らの能力を疎み、誰知らず仙人の如く世を捨てる者もいた。
そして詠む力は親から子へと遺伝するが故、いつしか秘儀を守り力を無闇に広めぬため、彼らは世捨て人として仙人となった者以外、幾多の離散集合を繰り返しながらも纏まって行き、最後には『言詠み』の家系、小玉家と『色詠み』の家系、雑色家とに集約されていったのだ。
しかし、世が個の命を重んじる方向へ動き出すと、このニ家の運命も衰退の一途を辿る事となる。秘儀により成される『孤露詞』は、尋常ではない死が目立つ世では、逆に彼らの存在を暴きかねず、ために彼らを脅かすことになった。
この状況下、両家とも考え方の相違はあったが、概ね一子相伝により能力を保持し、目立たぬように生きることとなって行く。
ここに女が一人いる。
身長百五十五センチ体重四十四キロ。一重の目・小さめの鼻・少しだけ張った顎。なで肩で軽くO脚の彼女。すれ違っても振り返られる事などはない平凡な顔立ち、不細工ではないが、十人が十人美人と褒めそやす顔でもない。その中で唯一つ目立つ、黄金色に輝き肩に靡く長い髪。
これは、そんな貴方の隣にもいそうな風体の女、小玉家本家最後の言詠み、沙由妃の物語である。