私はあなたの花嫁だから②
嫌だ。ここにいたくない。逃げなければ。でもどこに? そうだ。アークナイツ城だ。あそこに行けば、みんな私を守ってくれる。
私は山道を必死に走っていた。足の裏が小石で切れ、鋭い枝で頬が切れ。なぜ私がこんな目にあわねばならん。私が何をした。私はただ——
その時足元が崩れ、私は崖から真っ逆さまに転落した。この先は奈落。もう終わりか。そう思われたが、途中の出っ張りに身体が引っかかって、私は辛くも一命をとりとめた。
しかし雨が降り始めた。寒い。暗い。火が欲しい——いや、できない。あの日の炎がフラッシュバックし、私は頭を抱える。
暗闇の中、何もできずうずくまる。降りしきる雨に体温が奪われていく。びゅうびゅうと吹きすさぶ風は、やがて人の声へと変わり始める。
『謀反だ!』
『即刻死刑に処すべき巨悪ですぞ!』
『死ね、悪党!』
私は耳をふさぐ。
『自害しろ、ダレン。これ以上一族に恥をかかせる前に』
兄上の声が言う。
『なぜお前のような愚か者が我がアークナイツに生まれたのだ。この恥さらしが。さっさと死ね』
父上も言う。
もうだめだ。父上も兄上も私を見放した。私の味方は誰もいない。あんなに周りにいたはずの人間たちは一人残らず去っていった。いや、最初から誰もいなかったのか。頬を伝うのは雨でなく涙だった。
『この臆病者』
ふいに響いたこの声は……。そうだ、あの不愉快な娘だ。私が逃げ出して、今頃どうしていることだろう。喜んでいるのだろうな、きっと。別に悲しいとも思わない。所詮あの娘は偽装花嫁。私のことなど——
「ダレン様! 臆病者のダレン・アークナイツ様! いるんだったら返事をしてください!」
その時、不愉快な声が私の名を呼んだ。
*
あれから私とハンジ殿は、二手に別れてダレン様の捜索をしていた。雨が強くなっている。空も真っ暗で辺りがよく見えない。痕跡もとっくに途絶えてしまった。
「ダレン様! いるんだったら返事をしてください!」
私はがむしゃらにその名前を叫ぶ。
「ここで返事をしなかったら、私、腹いせにダレン様のポエムを勝手に発売しますよ!」
声がかすれるくらいの大声で絶叫し、身体がもう限界だった。それでも私は叫び続ける。
「臆病者のダレン様! 弱虫でヘタレのダレン様! こんなに言われて言い返せないんですか!」
「……何を言っておるか、つるぺた芋娘」
「ダレン様!」
足元から弱々しい声がして、のぞき込むと、突き出した岩場にうずくまっている彼がいた。激しい雨の中、岩場は今にも崩壊しそうだ。
「そこにいては危ないです。今すぐこの手を取って、上がってきてください!」
私は手を差し伸べる。
「よせ。私はもう終わりだ。ここで死なせてくれ」
しかしダレン様は手を取ろうとしない。そうする間にも、岩場からピキピキと破片が落ちていく。
「そうやってまた逃げて。失ったものを失ったと認めるのがそんなに怖いですか。自分の運命と向き合うのがそんなに怖いですか」
「……お前に私の気持ちは分からん」
「分かります。分かるんです、私には」
死にたいと言う彼に、どうしてあんな感情的になってしまったのか。ようやく分かった。彼が昔の私に似ていたからだ。不幸に打ちひしがれ、毎日泣いて過ごすしかなかった幼い私に。
お母様が死んで、今までの幸福を全て失って。泣いて泣いて、失ったものを数えるだけの日々だった。この暗闇がずっと続くと思っていた。だから、もう死んでしまいたかったのだ。
だけど、私は動き出した。きっとお母様はそんなこと望まない。そう気付いたから。
『あきらめなければ、幸せになるチャンスはどこにでもあるのよ。目の前のチャンスを見逃さないようしっかり顔を上げて、前を向いて歩いて行くの』
お母様の言葉が私に進む勇気をくれた。
「失ったものは戻りません。どんなに辛くても受け入れるしかないんです。だから、まずはいっぱい泣いてください。その後、しっかり前を向いて未来を掴み取りにいくんです」
うつむいていたダレン様は、その時ようやく顔を上げて私を見た。
「私はダレン様と幸せな夫婦になりたいです。だから、この手を取ってください」
「……なれるはずがない。私は大罪人。国中に死を望まれる男だぞ。お前とて私などいない方が幸せだ。それでも私を救うというのか?」
『それでも彼を探しに行きますか?』
ハンジ殿の問いが蘇る。あの時と同じ。私の答えは決まっている。
「もちろんです。だって私はダレン様の花嫁なんですから」
にこっと笑うと、私は体勢をさらに屈めてぐっと手を伸ばす。
「たとえ国中がダレン様の死を望んでも、私だけはずっと味方です。私はあなたとの幸せをあきらめません。だからどうかダレン様も逃げないで。あきらめないでください」
光を失った彼の瞳が、ほんのわずかにだけどきらめいた。恐る恐る伸ばされた手。私はすかさずそれを掴んだ。
瞬間、ガラガラッとダレン様の足元が崩れ、彼の全体重が私の腕にのしかかる。
「手を放せ! お前まで死ぬぞ!」
「お断りします!」
せっかく掴みかけた幸せ。絶対に放すものか。私は一層強くダレン様の手を握りしめる。
「ランカ・リーデルはフォンデルシア一あきらめが悪いんです!」
このまま引っ張り上げてみせる。私は思い切り地面を踏ん張って——しまった! 瞬間、私のいた地面が崩れ落ちた。私、そしてダレン様は空中に投げ出される。何か、何か掴むものは——
その時、何かが私たちの襟首を捕まえた。ハンジ殿だ。
「二人だけの世界に行かれていたようですが、一応私もおりますので」
物凄い力で引っ張られ、反動をつけて地面に投げ飛ばされる。助かった……。私は胸をなでおろし、隣に横たわる人物に目をやった。
「……死ぬかと思った」
ダレン様は呟いた後、
「やっぱり死ぬのは怖いのでやめにする」
と、堂々と宣言をした。
「お帰りなさい、旦那様」
私はそんな彼に微笑んだ。




