1.無意識
世界に、歌が落ちた。
それは響いたのではない。染み込んだのだ。
悲しみだけで編まれたその旋律は、人間も、獣も、植物も、地殻の奥に眠る無機物さえも、等しく濁らせた。
光は鈍り、色は沈み、世界は自らの輪郭を疑い始めた。
宗教団体「零燃」が生まれたのは、その日だ。
同日、煙草という文化が、この世界から完全に消失した。
だが誰一人として、それを「喪失」として認識しなかった。
喫煙者たちは理由の分からない禁断症状に苛まれ、怒り、震え、壊れていった。
何を失ったのか分からないまま、彼らは代用品に溺れ、薬物に手を出し、あるいは静かに社会から脱落していった。
“愛好家”だった者ほど、現実への復帰は困難だった。
かつて、大きな声で笑う子供がいた。
だがその声は「五月蝿い」と切り捨てられ、
やがて背中を丸め、視線を落とし、存在を薄める少女へと成長した。
高校生になった彼女は、いつも考えていた。
――自分には、何ができる?
――いや、そもそも「できること」など、最初から存在しないのではないか?
恐怖は、常に胸の奥にあった。
自信という概念が、彼女の中には欠落していた。
頭の中では、もう一人の「私」が、絶えず騒いでいる。
「五月蝿いんだよ」
その声が、現実と重なった。
静まり返った教室で、言葉が刃のように響く。
「あ……すいません」
「筑波。後で職員室に来い」
「はい」
量産された笑い声。
個性を持たないクラスメートたちの、均一な冷笑。
家畜のように飼い慣らされた教師が、それを正義として黙認する。
放課後の職員室は、説教という名の暴力で満ちていた。
「背筋を伸ばせ」「協調性を持て」
意味のない言葉を、呪文のように繰り返す。
周囲の教師たちは、関わりたくないという視線だけをこちらに投げてくる。
――晩御飯、どうしよう。
――お腹、空いたな。
――早く、帰りたい。
「ちゃんと聞いているのか?」
「聞いてますよ。もう帰っていいですか」
「いいわけあるか」
「成績いいんですから、別に問題ないでしょ」
唸り声を背に、彼女は職員室を出た。
理性も、怒りも、すべて置き去りにして。
スーパーに寄るか、それとも真っ直ぐ帰るか。
そんな些細な選択より、頭から離れないものがあった。
――昨日の夜に、聞こえた歌。
悲しくて、苦しくて、胸が締め付けられるようで、
それでも――美しかった。
言葉では形にできない。
だが確かに、心の深い場所を、暴力的に撫でられた感覚があった。
どうすれば、あんな歌を歌えるのだろう。
私の声は、ただの騒音だ。
羨望、嫉妬、焦燥。
それらが絡まり合い、内臓のように蠢く。
――そんなことを考えているが。
実のところ、私は
日本有数のインフルエンサー
黒蝶である。
フォロワー数、二百五十万人。
動画投稿サイト「カプリ」に、日々「歌ってみた」を投稿している。
最初に投稿したのは、オリジナル曲
「情報集合体ラインコード」。
自信作だった。
だが再生数は、伸びなかった。
認識されなかったのだ。
曲ではなく、概念として。
最近、ずっと感じている。
この世界は、少しずつ欠けている。
確かに存在していたはずのものが、
音もなく、意味もなく、消えていく。
不安が、常に背後に立っている。
――私がおかしいのか?
――それとも、気づいてしまった私が、間違いなのか?
誰も、気づかない。
誰も、気づこうとしない。
きっとそれが、
この世界における「正しさ」なのだ。




