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鉄道の日のお話 (改稿版)

作者: 或る鐡

日本で一番最初に鉄道を体験したのは、果たしてどなたなのでしょうか?はい、正解は濱中万次郎、ジョン万次郎さんです。


天保12年1月5日(1841年1月27日)の事でございます、14歳の万次郎は足摺岬沖で仲間達と漁をしておりました、すると突然の突風で船が流されてしまい航行不能となってしまいます、そのまま潮に乗って流された距離は720km約5日半ほど流され、たどり着きましたるは伊豆諸島の鳥島でございました。

そしてそのまま時は流れまして同年の5月9日、鳥島に1隻の船が立ち寄ります。

その船の名はジョン・ハウランド号アメリカの捕鯨船でございました、船は鳥島で食料として海亀を調達しようと立ち寄ったのでございます。そして、海藻や海鳥を食べ生き延びていた万次郎達を保護したのですが、当時の日本は鎖国状態、帰国しようにも容易には叶いません。万次郎達をのせた船はそのままハワイに向かいます、ホノルルで仲間4人は下船をしましたが、万次郎はと言うと頭の良さを買われてそのまま捕鯨船の一員となりアメリカ本土へ渡るのでした。

そのまま時は流れます事、嘉永2年(1849年)日本へ帰る為の資金を得る為に金鉱山で働く事にしましたジョン万次郎は、その時の日本に「鉄道」という存在が伝わる前にアメリカ本土で鉄道に乗るのでした。

因みにジョン万次郎の名は乗船していた船のジョン・ハウランド号からきております。

そして、これが日本人と鉄道の初めての会合となりましょうか?


その5年後の嘉永7年(1852年)日本に初の鉄道がやって参ります、鋭い方はもうお解りの事と思いますが

かの有名な「黒船来航」でございます。ペリー提督はこの際に手土産として常用可能な、今風にいえば「ミニSL」「ライブスチーム」をアメリカ本国より持ち込みます、組み立てに1週間程かかったと記録がありますから、縮尺は4分の1位の大きさだったのでしょうか?

その後横浜の麦畑に線路を敷いて実演し侍を乗せた汽車がエンドレスの線路を走ったのでした、その後佐賀藩がそれを小さく複製したものが、今も埼玉の鉄道博物館に展示してございます。


そして、今日から時は遡ること150年前の10月14日


西暦で言いますところの1872年(明治5年)9月12日 これは太陰暦でありますから、太陽暦に直しますところの10月14日この日は友引との事でした。


この日、朝から新橋停車場は非常に賑わっていました

ここで言いますところの新橋停車場と言うのは今で言うところの汐留にあります日テレ本社ビルや旧新橋駅停車場鉄道歴史展示館付近のことでございます。


まだまだ高い建物もなく周囲は広々としていた新橋停車場を囲うように紅白の垂れ幕が掛かり、それを包み込むようにワイワイガヤガヤといった人々の声、それに加わるチンドン屋の音とそれはそれは大層な賑わいをみせておりました。


そんな賑わいの風景の中、ぬかるんだ道を人々を掻き分けて色んな国の国旗が書かれました黒塗りの馬車が、新橋駅に向かってまいります。乗っているのは諸外国の全権大使たち、駅の表玄関につくとそのまま駅舎に入って開業式の式典会場へと向かっていきます。


そして、全権大使たちが到着後続いて到着しますのは16の花弁の金の菊の御紋をあしらった馬車が先頭に1台、御紋の馬車の後ろに1台と隊列を生して駅舎へと向かってまいります。

正面玄関に着きますと近衛たちが馬車の入口から駅玄関までのあいだを守り、侍従により扉が開けられます、乗っておられた明治天皇と有栖川宮親王がゆっくりと駅の中に入っていかれます。


この新橋停車場と横浜駅は設計がリチャード・ブリジェンスという方でアメリカの方でございます、しかし本州の東日本の鉄道はイギリスから輸入されたので、これまたどこでアメリカからの設計者を雇い入れたのか非常に気になるところではございます。


所変わって、駅のホームでは9両の客車を連ねた2号機関車が推進運転でプラットホームへと入線してまいります、最後尾では青旗がはためき、それがパッと赤に変わるとすぐさま列車は止まり、ガチャガチャガチャと鎖式の連結器の音を響かせながらホームへと横付けをされました。


既に駅のホームの式典会場には、日本国の重鎮や鉄道敷設に関わった外国人技師達が座り式典の開始をまっております。


開業の式典では雅楽の演奏や日比谷練兵場と品川沖からの軍艦による祝砲が式典に組み込まれていました。

そんな中で式典の会場に来ていた、井上勝鉄道頭と後の総理大臣大隈重信は肩を並べていました。


「おぅ、おはよう。やっと、ここまで来たな。」


「あぁおはよう、ようやくここまでだな。

にしても、土地の確保には苦労したな。」


「すまん、心当たりがあり過ぎて分からん。」


「ほら、あそこの石垣区間だよ」


「あっ、あそこか.....

あそこはなぁ頭が痛かった、本当に」


「石垣区間」というのは品川、芝浦付近の線路であります


陸地にある薩摩藩邸や陸軍の施設が「鉄道の重要性」をまだ把握しておりませんで「軍事力」の減衰を理由に鉄道敷設に反対をしやむなく、海上に石垣を築いて

そこを走ることになったのです。


「っと、ほら噂をすれば陸軍の山縣の大将がこちらを睨んでるぞ?まぁ、それでも西郷さんが列車の重要性を認識してくれんと前には進まんかったかもな!」


西郷隆盛と鉄道というとなかなか結びつかないようですが、実は当時の西郷隆盛は虫歯を患っていて横浜の歯医者までわざわざ馬車で通っていたそうです、しかし品川~横浜まで仮開業をしていた鉄道の切符を渡し、乗車してもらった所「馬車で行っていた時のように、虫歯の歯痛にも響かず、こりゃいい!」と大層気に入ったというエピソードが伝わってきています。


「ん、にしても9月9日が雨とはなぁ~」


「あははは、あれは参ったな」


9月9日(10月11日)大安吉日


これは、日本において菊の節句、重陽と言われる日でありまして尚且つ大安の日でもあったのでした。


当時は(現代もそうですが)、大事な式典や儀式には日取りが重要なのです、そこで縁起のいい重陽に鉄道の正式開業をしようと計画していたのでありましたが、暴風雨に見舞われたとの事でしたから、台風でも来ていたのでございましょうか?




午前9時30分、式典が終わりホームに連なるマッチ箱を大きくしたような客車の1番列車へ式典出席者達が乗り込み始めます。


機関車を先頭にして1号車と2号車には明治天皇の近衛の護衛の騎士達が


3号車には明治天皇、有栖川宮親王と井上勝鉄道頭、三条実美(さんじょうさねとみ)太政大臣(だじょうだいじん)そして明治天皇の侍従や工部省の役人達が


4号車には参議院の西郷隆盛、大隈重信、板垣退助やアメリカ、イタリア、オーストラリア、フランス、スペイン、各国の全権大使とその通訳が


5号車にはイギリスとロシアの全権大使、租税頭の陸奥宗光むつむねみつ陸軍大輔(りくぐんたいふ)の山縣有朋と同じく陸軍の小補(しょうほ)で西郷隆盛の弟の西郷従道(さいごうじゅうどう)その他の役人などが


6号車には大蔵省の渋沢栄一と東京府知事の大久保一翁(おおくぼいちおう)や工部省、宮内、省陸軍の少将たちが乗り


7号車には琉球の王子と副使、参議官と公爵が


8号車、9号車にはそれぞれ建設に関わった工部省の役人が乗り込みました。

そして、列車の先頭では大役を任されたはるばるイギリスからやってきた2号機関車が出発は今か今かと白煙を上げています。

この当時、まだ名称こそありませんでしたがこれが一番初めの「お召列車」です。



午前10時丁度


空気を切り裂くような、甲高い単音筒の汽笛を長く一声、天皇一向を乗せた列車が動き始めます。


ピィィィーーーー、フシューー、ボッ、ボッ、ボッ、ボッ


人間が息をするかの如く、一生懸命に力を出して小さな機関車が、ずらっと連なった9両の客車を引っ張って新橋停車場を今ぞ出てゆきます。


ガクン、ガクン。グングンっと、機関車が列車を引っ張る衝撃が客車へと伝わって、列車はスピードを上げて行きます


新橋停車場を出てしばらくするとあっという間に品川駅が近づいてまいります、進行方向の右手の車窓からは、武家屋敷が見えてきます。列車は、今は海上を走っていきます。石垣の上に築いた線路を、そして、石垣の上の信号機を超えて品川、川崎、神奈川の駅を通過して約1時間。時速にして約35km


列車はゆっくりとした足並みを崩すことなく、静かに横浜駅(現在の桜木町駅)へと滑り込んできました

横浜駅では、新橋駅と同じように開業の式典が行われました。

鉄道開通のこの日、10月14日(旧暦9月12日)が


鉄道の日と制定されたのは、

随分経ってからの事でありました。


余談ではありますが、日本の鉄道の黎明期というのは3つの国から輸入した鉄道で成り立っていました

まずは、蝦夷地、北海道はアメリカから輸入をしましたので西部劇映画なんかでよく見る大きな煙突とヘッドライト、カウキャッチャーが特徴の機関車が走っておりました。

対しまして、東日本こちらは産業革命を起こしましたイギリスからの輸入でした、リチャード・トレビシックやジョージ・スティーブンソンといった「蒸気機関車」の生みの親がおりました土地でございます。

さて、最後に西日本こちらはドイツからの輸入でございました幕末とドイツ中々に結びつかない話ですが、日米修好通商条約が結ばれたあとドイツの前身国であるプロイセン王国とも修好通商条約を結んでいて、更に鉄道やその他の視察を行った岩倉使節団はドイツの見学もしていたとの事でしたから、ここら辺が理由となりますでしょうか?

東日本と西日本での電化製品の周波数の違いもこれに因むものですね。

1872年の鉄道正式開業以来、東京を初めとする日本各地の鉄道はすっかり変化をし2020年高輪ゲートウェイ駅開業後に、148年間に渡り鉄道線路を支え続けていた高輪築堤が発掘されました。

元々山手線、京浜東北線が走っていた線路用地の下から発見された訳ですので文明開化の時代と同じ場所でついこの間迄その線路の上を列車が入っていた、と思うとなんだか感慨深い物がありますね

実はこの作中にも名称こそ出していませんが、高輪築堤が登場しています、工事に手間取った"石垣区間"です。


高輪築堤を建設する前の測量時は、まだ武士が平時に帯刀を外すことを許されていなかった時代ですが高輪築堤の測量の際は刀が海水に浸ると錆びると言う理由で帯刀の解除許可も出ていたという記録もあります。

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