暮れの頃のある二人
「そういえば僕はいつだったか、あなたに会ったことがあるように思うんです」
「あら、どうしました?」
「いや、ふと思ったことなんです。確証はないんですけどね」
夕暮れの太陽が二人の座る縁側の影を長くさせる。
今日の最後に選んだ寺院のなかは閉館間際で閑散としており、二人以外には誰もいない。
「あなたにはきっと覚えはないんだろうけど、僕はそれがとてもひどく懐かしくてですね。こうしてあなたの隣で座っているとその妙な懐かしさを思い出すんですよ。変ですよね」
「そうかしら。私はちょっとだけ興味あるのだけど」
「いいんですか?折角の時間をこんなことに費やしても」
「いいの。話して欲しいな」
「あれは、僕がとても小さな頃なんでその前後の記憶があやふやなのですが、どういうわけか、その時に僕はとある港町にいたんです。そこはとても小さく、お世辞にも栄えたとは言えない小さな港町でした。僕は一人で町の中を歩いていました。直前まで雨が降っていたのか、地面にはたくさんの水溜まりが出来ていて、その上をサンダルで踏みながら歩いていました。どんよりとした曇り空はしっかりと覚えています」
彼女はぼうっと庭園を眺めている。
枯れた水の流れを目で追っている。
「寂れた町並み、おんぼろな小さな漁船、錆びて変色した灯台。小さな僕はそれらがとても新鮮でした。気づくと町を抜けて海岸まで進んでいました。雨上がりの海は少し荒れていて、堤防の上まで護岸ブロックにあったった波しぶきがかかってきました。その上を歩いていると、突然、ボオっと海から大きな音が聞こえてきたんです。今にして思えば船の汽笛かなにかだったのでしょう。しかし、僕はとても驚いてしまい、つい私は足を滑らせて下へ落ちてしまいました。幸い、下は砂浜になっていて、ケガをすることはなかったのですが、その時です」
僕は彼女へ振り返る。
「その時、僕は一人の女性を目にしました。純白のワンピースを身に纏った女性です。僕は落ちた痛みだとか音への驚きだとかを一切忘れ、ただただその女性に見入っていました。すると、天がその女性に曇天は似合わないとでも言うかのように、一筋の光が差し込んだのです。眩いばかりに純白のワンピースが輝き、長い髪を風になびかせる姿は正に天使のようでした。」
「僕はなにもかも忘れ、その奇跡のような一瞬をただ見ていました。しかし、風が吹き、落ちたままの体制で寝ていた僕の目に砂が入り、ほんの数秒、目を閉じてしまいました。次の瞬間にはその人はもういませんでした。」
喋り終えると再び庭園の方へ体を戻す。
庭の石がその影をさらに長く伸ばしていた。
「これが僕の思い出です。今でも夢に見るのですが、実際の地名も場所も覚えていないせいで、そこがどこであったのか、未だにわからずいるのです」
「それが私だと?」
「確証はありません。しかし、あなたと初めてお会いした時に僕はこの時とおなじ思いを抱きました。僕はこんな思いを他の人に抱いたことはないのです」
「あら、とても熱烈なお言葉ね。私にはもったいないわ」
彼女は薄く微笑むと、バッグを手に取り、腰を上げた。
「とても素敵な時間だったけど、もう終わりみたいね。もう戻らなくちゃ」
「あ。そうですね。早く出ないと迷惑をかけてしまいますし」
「もっと時間が早かったらこの幸せな時間も伸びたのかしら」
「かもしれないですね。もっと余裕のある時間に来れば急ぐこともなかったでしょうし」
「反省は後にして。ほら、早く行きましょう」
そう言い残し、彼女は出口へと向かった。
後を追おうと、自分も立ち上がる寸前、庭園に目が行った。
もう太陽はほとんど沈み、光より夜の闇が空を覆いつくそうとしていた。
そういえば彼女は僕が話している時にぼうっとこの庭を眺めているだけだった。
「枯山水、ね」
自分にはその趣が理解できるわけではないが、なぜ現代まで残っているのかは理解できる。
そのありもしない水の流れを考えている時は、自分を、今を、忘れさせてくれる。
ふいに、誰かが耳元で囁いた気がして耳に手を当てる。
しかし、そこには誰もおらず、聞こえた気がした言葉も、風の中に消えた。
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