エリアーデ、君は残酷だ
『エリアーデ、エリアーデ、僕の愛しい人。
例え生まれ変わっても、僕は君を忘れやしない。
必ず君を見つけ出して愛し抜くと誓うよ。』
─── その言葉を本当に信じたわけではないけれど・・・。
情事後の気だるい熱を孕んだ閨の睦言に酔ったのは遠い過去の私だ。
囁かれた甘い言葉や注がれた熱い眼差しは、確かに心からの私への愛情を感じさせてくれていたし、私もそれに負けない愛情を返していたと断言できる。
そう、私たちは確かに愛し合っていた。
病めるときも健やかなる時も、二心なく、一点の曇りもなく、心からの愛し、愛された。
私たちは本当に幸せな恋人たちだった。
ゴーン、ゴーン、と鳴り響く重厚なる鐘の音に、記憶の片隅に残っていた、いつかの別離の鐘の音が重なる。
あれは彼の葬儀の時の鐘だったなと、視線を遠く、私はボンヤリと空を見上げた。
あの日もよく晴れていた。あの日の青空を思い出しながら、同じぐらい澄んだ青空を見上げて瞑目する今の私の目元にはあの時には被っていた黒いベールはない。
黒い喪服でもなく、明るいパステルカラーのドレスが、今日この日を祝福する為に私を主張し過ぎぬ程度に彩ってくれている。
もうじきすれば、あの教会から純白の花嫁が出てくるだろう。
幸せそうな笑顔を振り撒きながらピタリと寄り添い会うのは私の親友と、その婚約者だ。
いや、もう夫になるのだから、婚約者という肩書きも間違いになるのか。
「おめでとうイライザ。」
きっと今頃は神父の前で愛を誓いあっているはず。
ポツリと、今はまだ此処にはいない可愛い親友の名前を呟く。
「おめでとう、ニコラス。」
なんの因果か。なんの皮肉なのか。
誰よりも愛した夫の死後、数年して私も息を引き取り、天に召されたはずだった。
が、神は再び私たちの魂を地上に甦らせたのだ。私たちを、である。
神のイタズラか、はたまた気まぐれというやつか。
かつてとまるで変わらぬ容姿をし、かつてと同じ名前を与えられ、かつての記憶を引き継ぎ生まれ育った私と同じくかつてと同じ容姿と同じ名前の彼は、けれどかつての事を何も覚えてはいなかった。
『エリアーデ、その、ちょっと聞いてほしい事があるんだ。』
『改まってどうしたの?』
『ずっと言いだせなかったんだが・・・』
期待を、全くしなかったと言えば嘘になる。
覚えていなくても、また私を選んでくれるんじゃないかと思ったのは一度や二度じゃない。
かつての彼が、かつての私に想いを告げてくれた日の年齢に近付けば近付く程に胸は高鳴ったし、想いは深まった。
彼の真剣で熱の籠った眼差しから目を逸らせずにいれば、彼は躊躇いがちに、言葉を紡いだ。
『実は、小さい時からずっと・・・イライザが好きなんだ。』
その時の私の気持ちったらない。
悲しいと思った。苦しいとも。
けれど裏切られたという気持ちにはならなかった。
だって、仕方がない事なのだわ。
彼は何も知らない。
記憶は私だけにしかない。
生まれ変わっても、なんて、若さと熱情に浮かされたあの日の囁きを、信じたわけじゃない。
だけど嬉しかったし、愛しかった。
私もよ、なんて囁き返した言葉がまさか自分にだけ果たされるとは思ってもみなかったが、こんな結末をどこかで想定していたような気もするのだ。
ゴーン、ゴーン、と鳴り響く祝福の鐘の音。
その音に合わせて私はゆっくりと目を開く。
もう行かなくちゃ。
そろそろあの扉が開く。
あの扉が開いたら二人が出てくる。
二人が出てきたらその周りを親類や友人たちで取り囲んで口々に祝福の言葉を向けながら二人の頭上に花弁をまくのだ。
花弁の入った籠を手に、扉へと進む。
「心の準備はできたのか?」
「・・・オルフェ。」
「バカな男だなニコラスは。」
二番目の幼なじみは心底バカにしたように笑って、私のまとめ髪を崩さない程度に優しく撫でる。
ニコラスと私、そしてこのオルフェの三人で私たちは幼い頃の日々を過ごした。
かつてと同様に、だ。
「お前も教えてやれば良かったのに。」
「私と貴方は前世で愛し合い、来世を誓ったのよって?
頭は正常かと疑われるわ。」
「アイツ、きっと後悔するぜ。
賭けてもいい。」
「ちょっと、幼なじみの晴れの日になんて事を言うのよ。笑えないわ。」
「じゃあ笑わなければいい。」
「オルフェ?」
「無理に笑わなくていい。
好きだったんだろ?今も、まだ。」
皮肉だ。これは悲劇で喜劇で、できの悪い物語で、でも現実で。
ニコラスは覚えていなかった。
私は覚えていた。
そして何故なのか、このオルフェも、また、かつての記憶を保持していたのだ。
「・・・・バカを言わないで。
私は大好きなイライザとニコラスの結婚を心から祝福しているの。
だから、目一杯笑ってやるわ。」
籠を持つ手に力を込め直し、オルフェに背を向けて歩きだす。
急がなくちゃ。もう他の皆は集まっている。
今か今かと主役のお出ましを待っているのだ。出遅れてなるものかと私は歩を強める。
私が扉の付近に着いたのと、扉が開いたのはほぼ同時。
一斉に天高く目掛けて投げられた色とりどりの花弁のシャワー。その鮮やかさに私は目を眩ませる。
「おめでとう!!」
「ニコラスっ、イライザっ!おめでとう!!」
ニコラスとイライザの視線がふと私に向き、ブーケを手にしたイライザが私に手を振った。
「おめでとうイライザ。」
「ありがとうエリアーデ!」
「おめでとうニコラス。」
「ありがとう。」
微笑み、二人を交互に抱き締め、私は祝福を述べる。
幸せそうな二人を見るのは本当に嬉しい。
末永く幸せであってほしいと願う心に嘘はない。
だから、私は呟く。
ニコラスの身体から離れる刹那、小さくそっと。
「さようならニコラス・シンドリー。」
同じ名前、同じ容姿。けれども家名だけは同じままではなかった。
何度も何度も自分に言い聞かせた言葉を今もまた私は言い聞かす。
今の彼はニコラス・ブルーム。
私が愛したのはシンドリー家のニコラスだ。ブルーム家のニコラスではない。
でも、もうシンドリー家のニコラスの事も忘れよう。
忘れて、また新しい恋を探すの。新しい恋と、新しい人生を。
だから、さようなら。
私の呟きはたくさんの歓声に踏まれて消えただろう。
彼の耳に届く事もなく。
それでいい。それで良かった。
私に続くように今度はオルフェがニコラスにおめでとうと祝福し、軽く抱き締めて離れる。
そして次を待つ他の人に譲るように私の肩を抱いて集団の輪から外へと出た。
離れ際、ニコラスが何かを言いたそうに口を開いたのはきっと気のせい。
幸福そうだった瞳が何か他の感情で揺れたように見えたのも、きっと。
あぁ、鐘の音が聞こえる。
ニコラスはバカだ。
ニコラス・ブルームも、ニコラス・シンドリーも、揃いも揃ってバカだ。
バカは死んでも治らないと言うが、本当にその通りだった。
エリアーデ。君は知らないだろう。
かつてニコラス・シンドリーとオルフェ・ブランニーニがたった一人の女性を賭けて競いあった事を。
エリアーデ。君は知るよしもないんだ。
俺が、どれだけ君を欲していたかなんて。
エリアーデ、君を想わなかった日はない。
君がニコラスを選び、その人生を誓いあってからもずっと俺の心は君だけに向いていた。
ニコラスを妬ましくも羨ましくも思った。何故エリアーデは自分を選んでくれなかったのか、ニコラスさえいなければと思った事もある。
けれどもニコラスは大切な友人だった。愛すべき友だった。
だから、内心は兎も角、二人を表面上では祝福したというのに・・・。
手に入れて満足してしまったのか。その心を射止めるのにどれだけ心を費やしたかを忘れ、アイツはあっさりと何の手段も考じず、何の手立ても打たず死んだ。ニコラス・シンドリーの話だ。
今でもはっきりと覚えている。
葬儀中、はらはらと涙を溢すエリアーデの肩を支えるように抱いて別離の鐘を聞いていた時、ポツリポツリとエリアーデが呟いた。
約束をしたのだと。ずっと前に生まれ変わってもまた愛し合おうとニコラスが言ったのだと。
無理矢理笑って、エリアーデは言った。
『本当にそうなったら素敵よね。』
あぁ、エリアーデ。
君はなんて残酷な女なのだ。
それでも、君しか愛せない自分はどれだけ愚かな男と言えるだろう。
葬儀から暫くして、執念とも呼ぶべき愛情がそれを呼んだのか、悪魔を名乗る何かが囁いた。
今生の寿命と引き換えに、人生をやり直させてやろうと。
その提案に一も二もなく飛び付いた。
どの道エリアーデのいない人生になど未練はない。残り幾らともわからぬが、寿命など未練にはならなかった。
悪魔は俺の欲望が気に入ったと嗤い、気前よくサービスをつけてくれた。それが記憶だ。
エリアーデは心からニコラスを愛していた。そんなエリアーデの中からキレイさっぱりとニコラスの想いを消すには、ある程度のドラマ性が必要だったのだ。
魂を肉体ごと再現させる以上、記憶のリセットは難しいと悪魔は言い、けれどタイムラグは作れるとも付け加えた。
時限式のその記憶を開放する鍵はお前が決めろと嗤った悪魔が言う。
ならばと、かつての自分が鍵にと決めたのが、ニコラスの名前だ。
ニコラス・シンドリー。
きっと彼女はヤツへの恋に見切りをつける時、その名前を呼ぶだろう。
エリアーデが愛した男はこの男ではなく、ニコラス・シンドリーであったと自分に言い聞かせて、同じ顔をした男にかつての伴侶を重ねて別れを告げるのだ。
愚かなニコラス。エリアーデの事を漸く思い出したところで、今更もう遅い。
エリアーデの肩を抱き、離れていく俺たちを、失望の眼差しが向いたところで、勝利を確信して愉悦の笑みがこぼれた。
エリアーデ。君は残酷だ。
しかし君は自分の残酷な行いをけして知る事はない。
知らぬまま、新しい道を歩こうと前を向く君を、そっと寄り添い包み込み、俺がずっと傍にいるよと囁いて、その心に侵蝕を謀る。
愛しているよエリアーデ。
だから君は、僕のもの。