青春イニシエーション
一序
私には友達がたくさんいる。
かっこいい兄貴だって居るし、最近彼氏だって出来た。父親はムカつくけど、ママとは仲良しで、休日には二人で買い物に出かけたりだってする。
私の高校生活は今のところ順調だ。そりゃあ、友達と喧嘩することだってあるけれど、仲直りの方法もこの歳になればもうわかる。
二年生になって生徒会に入って、塾にも通い始めて、将来何になるかなんてまだわからないけれど、そこそこ偏差値の高い大学に行っておけば将来の職業はつぶしが利くだろうし、その学力だってある。
本当に順調だ。このまま毎日少しだけがんばって、みんなと楽しく過ごしていくことが出来れば、何も問題はない。
でも。
そう頭ではわかっているし納得もしている。今の自分に大きな不満はない。
けれど。
少しだけ、ほんの少ぅしだけ、心の隅っこに引っかかっているものがある。それが何なのかはわからない。その引っかかりは、どんなに友達や彼氏と楽しい時間を過ごしていても消えることは無く、いつも心の端っこにいて、ふとしたときに語りかけてくる。
「何か足りてないものが、あなたにはあるんじゃない?」
…本当に迷惑な話だ。
その小さいけれど確かに存在する何かを、無かったことに出来たのは、高校二年生の夏休み、相馬奏に出会えたからだ。
僕には友達がいない。
中学の時にはまだかろうじて、友達と呼んでも良い人たちが何人かいた。居たと言っても、数えたら両手の指で事足りてしまうくらいだったし、向こうが僕のことを友達と思ってくれていたかどうかは、今となってはもうわからない。そして、その数少なかった友達も、みんな別の高校に行ってしまい、今や本当に文字通り、友達が居なくなってしまった。
学校では息を潜めて過ごし、淡々と授業を受けて、弁当を食べて、終礼後は真っ先に家路に着く。
毎日学校に行くのが億劫だ。学校さえなければ、もっと毎日を充実して過ごせるのに。
学校が終わると、僕は毎日、一人で楽器を弾く。その時間だけは、この世のあらゆる憂鬱が些末なものに感じられる。
その楽器を弾き始めたのは物心ついた頃からで、自分でも、よく続くなぁと思う。ただそれも、今となってはそれが好きだからなのか、それとも単なる現実逃避なのか、自分でもわからなくなってしまった。
…このままで良いのだろうか。
学校で友達も作れなきゃ、将来どうやって生きていくんだ。楽器は好きだけど、それで生きていけこうと、生きていけると思うほど、僕はもう子供ではない。
17歳。
生きていくからには、社会に参加しなくてはならなくて、僕はそれが出来ていない。
けれど、どうにも出来ない。どうすればいいのか、わからない。
…本当にわからなかったんだ。高校二年生の夏休み、橘夕夏に出会うまでは。
二 夕夏
高校2年生の7月。
もうすっかり夏の気候で、みんな思い思いに、夏休みの予定に胸を膨らませている。でも高校生だって、大人が言うほど遊んでばかりはいられない。楽しい楽しい夏休みの直前には、いつもとても大きな乗り越えなくてはならない壁がある。
期末試験。
その最終日、最後の科目、数学。
私は最後の一問に取りかかっている。わかりそうでわからない、応用問題。授業中に先生が教えてくれたことだけでは解けないらしく、自分の頭で道筋を見つけなければならない、ようだ。私はいつも、こういう問題が解けそうで解けない。日頃の勉強の成果を試す試験なのだから、教えてくれた通りに手を動かせば出来る問題だけ出せよ!と、心の中で先生に文句を言いながら、必死に考える。けれどやっぱりわからない。途中まで書いた数式が見当違いの方向に進んでいたことに気づき、あわてて消しゴムをとろうとする。
「あっ…」
指先に当たった消しゴムが、床に落ちていく。
同時に、時間切れを告げるチャイムが鳴った。
「やあ~っと終わったぁ~。」
チャイムはまだ鳴り終わっていないというのに、後ろの席の美佳の腕が、机越しに私の両肩にもたれ掛かってきた。
「もう、美佳、重い!」
最後の問題が解けなくて、少しいらいらしている私がその腕をどけようとすると、美佳は笑いながら、今度は私の頭をくしゃくしゃにまさぐってくる。
「夕夏~、アイス食べに行こう~。」
「もう!ほら、早くテスト用紙回して!」
私はようやく美佳の腕から逃れると、美佳の机に置かれた、美佳より後ろの席の子の解答用紙を取り上げて、前の良太に渡す。
数学の問題が解けなかった苛立ちは、美香のおかげで、水に溶ける綿あめのようにシュンッと消えてしまった。
「夕夏~アイス~。」
「わかったから!…もう。」
心が和む。
しょうがないなぁ、というポーズをとりながら、私の口元は緩み切っていた。
友達がいること。
それだけで、そのほかの不満は全てどうでも良くなる。
先生が、集められた答案用紙をチェックし終えると、今日の日直が号令をかけた。みんな起立して、その号令にあわせて一礼する。
「じゃあ、今日はこれで終わり。みんな、明日は終業式があるからな!まだ夏休みじゃないぞ!」
先生はそんなことを言うけれど、みんなの気持ちは完全に夏休みモードだ。
先生が出て行くと、クラスのみんなはそれぞれにこれからの遊びの予定をたてたり、部活の話をしたりする。一部のまじめな人は、終わったばかりのテストの答え合わせを始める。
私はぼんやりと、何味のアイスが良いかなぁ、なんて考えながら帰り支度を進める。テストの日は荷物が少ないから、帰り支度も楽だ。
…ふと視線を感じて前を見上げる。前の座席でとっくに帰り支度を終えた舘良太が私のことを見下ろしていた。
背が高い良太が立っているのを、座っている私が見上げると、首が疲れる。
「え、何?」
「何?じゃないでしょ!夕夏、今日俺と『オーリーズ』行くって約束したよね!?」
「あ…。」
「あ…って!夕夏、今絶対アイスの味何が良いかなぁ、って考えてたでしょ!?ひどいよ!」
テストが終わってすぐに美佳に誘われたものだから、すっかり頭が流されてしまった。良太に申し訳ないと思いながらも、付き合っている彼女に約束を破られかけたというのに、怒気を感じさせない良太の人なつっこい表情を、愛らしいと思う。
良太とは今年の3月から付き合い始めた。
仲良くなったきっかけは、ありがちなパターンだ。
高校に入学して同じクラスになって、二人とも「たち」から始まる名前で出席番号が続きだったから、最初の席が前後続きだった。自然と同じ友達グループになって、学校で一緒に過ごす時間が長くなっていった。良太は軽音部でベースを弾いていて、ライブに誘われて行ったりした。
良太は人に対して怒りを表にすることがほとんどなく、人畜無害という言葉がよく似合う。それでいてベースを弾く時の姿は真剣そのものだった。みんなが普段聞いてるような有名なプロのバンドと比べればひどく拙い演奏かもしれないけれど、その真剣なまなざしが、純粋にかっこよかった。
3月。高校一年生の終了式の日に、「クラス替え、別々になったら寂しいね」って言ってみたら、「じゃあさ、付き合おうよ。そしたら俺も寂しくないし。」って、顔を赤くしながら言ってくれた。
とても嬉しかった。
結局に2年生になってもまた同じクラスで、その時は二人して大笑いした。
「ごめんごめん!ちゃんと約束通り、行くよ。」
私は両手を合わせて、良太に謝る。良太は安心したように、にんまりと笑った。その笑顔がまたかわいい。
「へへ、ありがと!じゃあ俺、部室で楽器とってから行くから、下駄箱で待っててな!」
そう言うと良太は、廊下へ駆け出して行った。
ふと、今度は後ろから視線を感じた。振り返ると、美佳がわざとらしく恨めしい顔を作って、私をねめつけている。
「ごめん美佳!良太と約束してた!」
私は慌てて謝る。
「もう~しょうがないなぁ…。ま、二人の間には入り込めないか!」
一転、こんどは私を茶化すように、にやにやとし始める。
「本当にラブラブでうらやましいですなぁ~。…『オーリーズ』って何?ホテル?」
「ばか!違うって!」
私は美佳の頭をはたいた。
「いたいっ!はいはい、二人でラブラブしてくればいいじゃん!私は早希達と女同士寂しく、アイスをつつきますよ。…夕夏達は何をつつき合うんだろうねぇ~?」
「違うって言ってんでしょ、もう~。良太が待ってるから行くね。アイス、また今度!」
「もう誘ってやんないよ~だっ!また明日ね~。」
こういうやり取りが気兼ねなくできる友達が居ることを、とてつもなく幸福で、奇跡みたいに感じることがある。
私は美佳と、バイバイのハイタッチを交わして、充実感を抱いて、教室を出た。
下駄箱ではすでに良太がベースを背負って待っていた。私は良太にまた謝って、良太は笑って許してくれた。二人で『オーリーズ』に向かった。
7月の1日は長い。
晴れ渡った空だけを見ていると時間の感覚が無くなる。私たちの時間は、まだいくらでも残っている気がする。うだるような暑さも、厳しい日差しも、「まだまだこれから楽しいことがあるぞ!」って、私たちの青春を鼓舞してくれているようだった。
『オーリーズ』は地元のライブハウスだ。
学校の最寄り駅から電車で15分くらい行った駅の、駅前の商店街の中にある。夜にはお酒も出しているようなお店らしいけれど、オーナーさんが若者好きで、特に高校生バンドを応援するのが生き甲斐の一つで、日が暮れるまでは練習やライブの場所として、ただ同然で場所を貸してくれるという話だ。だから、私たちの学校以外の高校生バンドも良く集まるそうで、夏休みなどは特に、たまり場になっているらしい。バンドのたまり場と聞くとちょっと怖い場所というイメージがあるけれど、オーナーさんがそこらへんはしっかり弁えているようで、私みたいな女子高生が出入りしても全く問題ないとのことだ。まぁ、そんな話を聞かなくても、良太が出入りしているところなら、私は安心だ。
夏休みの後半、お盆が開けた最初の日曜日の昼間に、軽音部のライブを『オーリーズ』で開催するらしく、良太は今日からそのライブに向けて、『オーリーズ』で毎日のように練習するらしい。
「オーナーも本当に良い人でさ、ずっと夕夏を紹介したかったんだ。」
良太はそういって私を誘ってくれた。
なんだか選ばれた人しか知らない秘密の場所への招待状のようで、私は誘われた時とてもわくわくした。『オーリーズ』を知らない子と、知っている私。ちょっとしたステータスだ。
「いつもは他校の奴らも練習に来てたりしてさ、楽しいところだよ。まぁ、今日はうちの学校の奴しかいないから、そんなに緊張しなくていーよ。」
『オーリーズ』へ向かうクーラーの効き過ぎた電車の中で、良太はいつもの笑顔で、私にそう言った。
始めて行く場所、初めて会う人たちを想像して、少しだけ緊張していたのに気づかれていたことが少し恥ずかしかった。
恥ずかしかったから、強がった。
「緊張なんかしてないよ。」
「はいはい。夕夏は緊張すると口数が減るから、わかりやすいよな~。」
図星だったのでちょっぴり悔しい。けれどそう言って意地悪そうな笑顔を向けてくる良太が、私のことをちゃんと知ってくれていることが嬉しくもある。
「もう!…でも、そうなんだ。じゃあ今日来るのは、良太のバンドの子達だけ?」
「そうだよ。」
なんだ、そうなのか、と心の中で呟く。それなら、緊張する必要は全くない。
「まぁ、あいつ等はちょっと遅れるって言ってたから、着くのは俺らが最初。だから最初に、オーナーを紹介するね。」
「そのオーナーさんって、どんな人?」
「かっこよくて、良い人だよ。歳は40くらいかな?この辺育ちで、高校も俺らと一緒みたい。で、高校出てからすぐにそのライブハウスで働き始めて、最近先代からオーナーを引き継いだんだって。」
「へぇ~。」
私には大人の知り合いなんて居ない。だからか、そんな歳の大人を友達のように語る良太がいつもより大人っぽく見えた。
「なんか高校時代にお世話になった先生がまだ学校にいるらしくて、俺らの前で悪さ出来ないしさせられない!って笑いながら言ってたよ。そんな人だから、みんな慕ってるんだ。」
「その先生って誰のこと?」
「それがいくら聞いても教えてくれないんだよ。そんな昔からいる先生なんて校長暗いかとも思ったけど違うらしいし…。」
「ふぅ~ん。」
この話を聞いて、少し安心した。安心してから気づいた。
他校の人達が今日は来なくて、集まるのは顔を知っている子たちだけ。それなら緊張なんてしないと思った。
でも、良太が慕っているとはいえ、知らない大人と会うことに私は多少不安を感じていたらしい。もしかしたら良太には、その不安も気づかれていたのかもしれないなと、ふと思った。さっきからオーナーさんの話ばかりで、少しでも私にオーナーさんの情報を与えておこうとしてくれている。
さすがに考えすぎかもしれないけれど、良太がそういう気遣いが出来る人だということは良く知っている。何せもう、1年以上も彼のことが好きなのだから。
「あ、あとオーナーの甥っこさんがうちの学校にいるって言ってたなぁ。しかも俺らと同い年。」
「え!誰?」
「それがわかんないんだよなぁ。そいつに口止めされてるらしくて教えてくれないの。名字も違うらしいし。」
「口止め~?なんでだろ?」
「さぁ?俺だっったらあんな格好良い叔父さんがいたら自慢しちゃうけどなぁ。」
そんな話をしているうちに、電車は目的の駅に着いた。
ドアをくぐると、一気に熱気が体を包む。クーラーで冷えた体には心地いい。商店街がある駅だけあって結構たくさんの人が降りたから、私たちははぐれないように手を繋いで改札に向かう。
手を繋いだら、まだかすかに残っていた緊張と不安が、すっかりなくなった。
三 奏
学校が死ぬほど退屈だ。
興味がないことを教わるために何時間もじっとしていなければならないし、休み時間だって友達の居ない僕はただ時間が過ぎるのをぼーっと待つだけだ。
本当はその暇を使って練習できれば、時間が経つのももっと早く感じることが出来るのだろうけれど、学校では目立ちすぎる。それは煩わしい。中学時代にはそれでひどい目にあった。だからもう、学校では秘密にすると決めた。
夏休み前の期末試験。最後の科目は数学。
良い点数なんてとる必要はない。赤点さえとらなければ夏期講習を受けなくて済むのだから。そうすれば明日からまるまる一ヶ月、学校に来ずに、一人でひたすら好きなことだけして過ごせる。だから僕は、最後の難しい応用問題を解くための努力を放棄して、ただただじっと、試験終了のチャイムが鳴るのを待っている。
シャーペンを机において、両手は膝の上で固く結び、目をつむる。
聞こえてくるのは、クーラーがしゃかりきに部屋を涼しくしようと働いている音と、クラスメイトの筆音。そのほかには何も聞こえない。誰の話し声も聞こえないこの状況は心が落ち着いて好きだ。みんなが問題を解くのに必死になっている中、僕はなにも考えずただじっとしている。
なんと贅沢なことだろう。
その静寂なひとときに終わりを告げるチャイムが、鳴った。
それを合図に、クラス中の口という口が開いて、さっきまでの静かでピント張りつめていた空気が嘘のように騒々しくなった。
「オワッタァ!」「サイゴノモンダイトケタ?」「ゼンゼンデキナカッタ!」「ブカツナンジカラダッケ?」「アイスタベニイコウヨ!」「コノアトドウスル?」
…口々に放たれる言葉は、どれ一つとして僕に向けられたものではなく、それぞれが響きあって混じり合って、音が波のように僕の耳に流れ込んでくる。
ああ、五月蠅い。
終礼が終わると、僕は一目散に教室を出た。そして、『オーリーズ』へ向かった。
僕が『オーリーズ』に通い始めたのは、高校生になってからだ。
通っていると言っても、放課後は近くの高校生が良く来るというので、はち合いたくないから行かない。だから、ライブの予定の入っていない日の夜か、休日の店が開く前の午前中くらいにしか行っていない。行ける時間は限られているけれど、僕はその時間をとても楽しみにしている。よいうより、それしか楽しみがない。
『オーリーズ』に行くようになるまでは家で練習していたけれど、マンションでは思いっきり音が出せない。公園で人の少ない時間を見計らって練習してみたりもしたけれど、やっぱりどうしても周りの目が気になってしまった。叔父さんは、僕がまだ小学生だった頃から『オーリーズ』に誘っていてくれたけれど、両親がこどもをライブハウスに一人で行かせることに難色を示した。高校生になって思い切って勝手に行ってみたら、とても居心地がよくて、人の居ない時間を叔父さんに教えて貰って通うようになった。両親に内緒で行動するのは最初はとても勇気が必要だったけれど、慣れてしまえばなんてことなかった。今では僕が『オーリーズ』に通っていることを、両親も知っているけれど、もう高校生だからということなのだろうか、何も言ってこない。それがとても心地良かった。
いつもは夜暗くなるまで『オーリーズ』に行かないのだけれど、前に叔父さんに聞いたら、今日は明るいうちは使う人が居ないということだったので、試験が終わって真っ先に向かったのだった。
試験勉強にモチベーションなんて無いけれど、やはりそれなりの成績は取らないといけないなとは思うから、そのための勉強くらいはする。
そして、試験期間が終わったら、好きなことを好きなだけしたい。この感覚は、みんなと同じだろうなと思う。想像しかできないけれど。
みんなと違うところは、その好きなことを友達と共有できるか、出来ないかという点だ。それが出来るみんなは、あの試験終了後のざわめきにとけ込んで、そこで決まった作戦のもと、これから始まる夏休みを協力して楽しいものに作り上げていくのだろう。
けれども僕は、それが出来ない。というより、僕の好きなことは、一人で没頭できるから好きなのだ。みんなと共有しなくても楽しいと思えるから、好きなのだ。
…いつまでもそれではいけないのかもしれない。本当はみんなと同じように時間を、気持ちを、思い出を、価値観を共有することが、大人たちが青春と呼ぶ短い期間の正しい過ごし方なのかもしれない、とかそういうことをもやもやと考えないために、早く楽器が弾きたかった。
『オーリーズ』は最寄りの駅前から始まるそれなりに大きな商店街の、ちょうど中心あたりにある。入り口は地下にあって知らない人はその建物の入り口が何処にあるかすぐにはわかりづらい。ツタの絡まった煉瓦作りの外装のその建物は、始めて見たときには秘密基地のように思えて、少しわくわくした。今となってはそこに入って行くのも慣れたものだ。
午後2時。日差しがピークに達していて、駅から走ってきた僕の背中は汗でぐっしょりと濡れている。その不快感から早くの逃れたくて、走った勢いのまま階段を一段飛ばしで降りて、飛び込むように扉を開けた。
「お、奏、早かったなぁ。」
入り口からすぐ右手に位置するカウンターの中で、背の高い制服姿の男ーこのライブハウスのマスターである叔父が洗い物をしていた。真っ黒でウェーブがかかった長い髪を束ねている。
「叔父さん、借りるね。」
叔父にそういいながら、目も合わせずに僕はステージに向かった。
「なんか飲むか?」
叔父さんが背中越しにそう聞いてくれたけれど、一刻も早く楽器にさわりたかったから、断った。
僕の楽器はいつも、ステージの隅に置いてある。幼い頃に祖父が亡くなり、その形見分けでうちにやってきたその楽器は、家では僕しか興味を持たず、気づけば僕のものになっていた。今では僕が弾かないときは、『オーリーズ』のインテリアの一部のようになっている。
僕は楽器をステージの真ん中に持ってきて、手の汗を制服の裾で丹念に吹いてから、その手を弦に宛がう。
ようやく、不安とか不甲斐無さとか、そういうもやもやを全て忘れて無心になれる。
…などと考えていたのも楽器に触れるまで。
今や僕の耳には、僕が奏でる音しか入らない。
四 夕夏
『オーリーズ』のある駅へ着いたのが14時30分頃だったから、今は多分、14時45分くらいだろうか。
駅前の商店街は買い物客や下校中の学生でそれなりに込んでいた。途中、揚げ物屋さんのコロッケが私を誘惑してきたけれど、良太の手前、一応我慢した。
良太と私は、結局ずっと手をつないだまま、商店街を歩いて『オーリーズ』へと辿り着いた。
『オーリーズ』は、ぱっと見ではライブハウスとは思えないような外観で、例えるなら秘密基地みたいだなって思った。
良太の手にひかれるまま階段を下りると、そこには木造でドアノブが銀色に鈍く輝いているドアがあった。ここへ至るとやっぱり少し緊張がよみがえってきて、つい良太の制服の裾を摘んでしまう。良太が重たそうな扉に手をかける。その手にぐっと力が入り、血管が浮かぶ。男子の腕だなぁ。少し見とれる。
ふと、耳にとても澄んだ音がしみこむようにゆっくりと入り込んできて、夏の蒸し暑さを吹き流すような心地よさを持って、私の心に届いた。
ハープの音色だ。
兄の部屋でよくかかっていたCDの音色と同じだったから、それがハープの奏でる音色だと、すぐにわかった。
ライブハウスには似つかわしくない印象だ。私がライブハウスで聴く音楽といえば、エレキギターやベースがアンプを通して耳に打ち付けてくるような音で、歌声もマイクを通して拡散されて、予め歌詞を知らなければ何を言っているのかすら聞き取ることが出来ないような類の音だ。実際、良太のバンドが演奏する曲も、私にとっては歌詞とかメロディーとか実は結構どうでもよくて、みんなで盛り上がれれば楽しいし、ステージ上で躍動する良太が格好良いいのだ。
その時流れていた音色は、それらとは全く異なっていた。
音色そのものが綺麗だった。
何処までも心地よくて、歌は英語で何を言っているかなんて全然わからなかったけれど、なぜか、感情が心に語りかけてくる。
衝撃だった。
とても静かな衝撃。
それ自体が初めての経験で、私は惚けてしまった。
「あれ?マスター居ないみたいだな。…ってかあれ、あのハープ弾いてんの、相馬じゃない?」
「え?」
良太にそういわれてステージを見る。確かにそこに居たのは、同じクラスの相馬奏だった。一度もまともに話したことはないけれど、間違いない。
「ほんとだ、相馬君だ。」
ハープを真剣に弾いている相馬奏の顔は、私たちが知っているそれとは全く違っていて、言われなければ気が付かなかったかもしれない。
相馬奏と言えば、多分クラスに友達なんて一人も居ない、いわゆる「ぼっち」というやつだ。いつも一人で俯いていて、同じクラスになって三ヶ月近く立つというのに、誰かと話しているところを見たことが無くて、彼の声もすぐには思い出せないくらいだ。
その相馬奏が、ハープを弾いている。歌っている。
さっきドアをくぐった直後に受けたものとは意味が異なる衝撃を、私は受けた。そして今度は良太も同じ衝撃を受けているようだった。
リズムに体をゆだねて体を揺らし、その指は弦の上で踊っているようになめらかで力強く、その表情は感情であふれていて、目が、耳が、どんどん引き込まれていった。
ああ、この曲はなんという曲なのだろうか。
こんなにも物悲しく美しく、何を伝えようとしているのだろうか。
具体的な言葉は、私の脳に届かない。ただただその感情負だけが心に伝わってくる。
悲しい。でも、不快じゃない。
ずっと、聴いていたい。
そう思うと、演奏が終わった。
私と良太は思わず拍手をした。してしまった。相馬奏が、その拍手に気が付く。
「え、なっ、え、えっ…。」
つい今まで音に乗った感情が魔法のように流れ出していた源と同じ穴から漏れているとは思えないほど、弱々しく情けない声だった。さっきまでの演奏は、本当に彼が奏でていたのだろうか、と疑ってしまうくらい別人のようだ。
「ねぇ!相馬奏だよね!?ほら、俺ら同じクラスの!」
良太が相馬奏に大声を投げかけた。
相馬奏はビクッと反応して、立ち上がると同時に座っていたいすを倒してしまった。彼は転びそうになりながら床においてあった鞄をひったくると、こっちに向かって走ってくる。
「うわっ。」
そのまま私と良太の間を通って、ドアの外へと駆けだしていってしまった。
私の耳には、さっきまで彼が奏でていた音楽が、まだはっきりと残っていた。
良太は自分の楽器の準備をし始めた。私は客席の椅子の一つを拝借して、ぼんやりとそれを眺めている。
「でもさっきの相馬の演奏、本当にうまかったなぁ。最初、マスターがCDでも流してるのかと思った。…まぁでも、ライブハウスには少し似合わないか。綺麗だったけど、盛り上がんないもんなぁ。俺も多分、ずっと聞いてたら寝ちゃうかも。」
良太はそんなことをしゃべりながら、手際よく楽器のチューニングを進める。
私はぼんやりと良太に相槌を打ちながら、考えていた。
さっき彼が弾いていた曲はなんて言う曲なんだろう。帰って兄に聞いたらわかるかな。それとも明日、相馬奏本人に聞いてみようか。でもさっきの相馬君の、あの調子じゃあ、学校で話しかけても、まともに答えてくれるだろうか。
「なんでハープなんかやってるんだろね。同じ楽器でもギターとかベースなら、みんなとバンドも組めて楽しいけど、ハープがいるバンドなんて聞いたことないし。相馬は一人で弾いてて楽しいのかな?」
確かに、良太の言う通りだ。
高校でハープなんて弾けても、誰とも時間を共有できない。私はたまたま、兄がそういう民族音楽的なものにはまってるから、何となく聞き馴染みがあるけれど、学校のみんなはその音色を聞いたことすらない子ばかりだろう。
うん、良太の言うとおりだ。言うとおりだけれど。でも、本当に?
「みんなと楽しめる」以外のことに価値はない?
少なくとも、多分、相馬奏はその価値観で楽器を弾いているのではないのではないだろうか。
自分が楽しいから、すること。自分が楽しいから、続けられること。
誰と共感するためでもなく、自分のためだけに続けられるって、もしかしてすごいこと?
私は、相馬奏がどんな人なのか、知りたくなった。
良太がギターのチューニングを終えた頃、「ただいま~」という低くて良く通る声とともに、男が一人、『オーリーズ』に入ってきた。
「あ、マスター!お邪魔してます!」
良太が手を挙げて挨拶をする。
「えっ、あれっ?今日おまえら来るんだっけ?」
買い出しにでも行ってきたのだろうか。両手に、ぱんぱんに詰まったスーパーのビニル袋を提げている。
「ひどいなぁ、ちゃんと使わせてくれるって約束してたじゃないですか~。」
どうやら、マスターは良太たちとの約束を忘れていたようだ。良太がギターをスタンドに立てかけて、マスターの元に駆け寄る。私も、とりあえず良太について、近づいてみる。
「悪い悪い。…あれ?さっきまでそこで、誰か練習してなかったか?」
「あぁ、居ましたよ。俺らと同じ学校の相馬奏が。」
「あちゃ~、会っちゃったか…。ま、しょうがないか。お、その後ろの子がもしかして?」
マスターが良太の陰に隠れるようにして様子を窺っていた私に気づいて、話を降ってくれた。
「そう!俺の彼女の、橘夕夏。」
「はじめまして。今日は良太の練習を見に来ました。お邪魔します。」
「はじめまして、『オーリーズ』のマスターやってる、織尾奏多です。まぁ、ゆっくりしてってよ。」
織尾、奏多…?
「織尾さん、あだ名ってもしかして、オーリーですか?」
言ってから、いきなり失礼だったかなと思ったけれど、言ってしまったものは仕方がない。だって、ピンと来てしまったんだもん。
「お!夕夏ちゃん、良くわかったね~。でも俺のことは、kがるにマスターって呼んでよ。」
気さくそうな人だ。良太や他の子達が慕うのも納得だ。
「あの、相馬君って、良くここに来るんですか?」
会話が弾んでいるうちに、私はさっきから気になって仕方が無くなっっている、相馬奏のことを聞いた。
「ああ、そうだね。あいつは妹の子供なんだけど、高校生になってからは良く来てるな。人が居ない時間だけだけど。いや、今日もてっきり昼間は誰も来ないと思ってたからなぁ。あいつに悪いことしたな。」
多分そうだろうとは思っていたけれど、やっぱり彼が、良太が電車の中で話していた私たちの学校に通っているという、マスターの甥だったのか。
「えぇ!?あいつがマスターの甥っ子さんだったんですか!?」
良太は素直に驚いている。こういう、素直でちょっと抜けているところも、大好きだ。
「そうだよ。喋るなって言われてたんだけど、まぁ、仕方ないか。で、あいつは帰っちゃったのか。相変わらずだな。」
「相変わらずって?」
私は聞いた。
「いや、多分奏の奴、学校で友達少ないだろ?」
少ないって言うか、全然居ないけど、私は黙っていた。
「中学に入った頃から、あんまり友達と遊ばなくなったらしくてな。高校に入ってからもここにひとりで入り浸ってたし。「誰も来ない時間だけ使わしてくれ」なんて言ってくるから、ここでも友達は出来ねぇし。まぁ、俺は別にそれでも本人が良いなら良いとは思うんだけど、妹、あいつの母親はちょっと心配しててな。」
「相馬君、いつからハープやってるんですか?」
私は気になっていたことを聞いてみた。
「ああ、ずっとだよ。」
「ずっと?」
「そう、もの心つくかつかないかって言う頃からずっと。まぁ特に誰かに習ったとかってわけじゃなくて、おもちゃ代わりみたいなモンだったけどね。」
すごいなと思った。うらやましいなと思った。
私はそんなに長い間何か一つのことを続けたことがない。良太だって楽器が弾けるとはいえ、やり始めたのは中学生に入ってからだって、前に聞いた。
物心つく頃からずっと。
それは本人にとって、どんな感覚なんだろう。どうしてそんなに続けられるんだろう。
今の自分の日々に不満なんて全然無い。けれど、何かに打ち込んだり、人に誇れるようなことも何も持っていない。
私はますます彼のことが知りたいと思った。もっとちゃんと話してみたいと思った。
そして、これかもしれない、と思った。
友達や彼氏に囲まれた充実した日々を送っているはずなのに、いつもつきまとう小さな引っかかり。
相馬奏。
彼のことを知れば、それが何なのかわかるかもしれないと、何の確証もないけれど、思ったのだ。
「あいつの演奏、中々なもんだったでしょ?ま、これもいい機会かもしれないし、同じ音楽好き同士し、仲良くしてやってよ。」
これが、短いけれど大きな、私と相馬奏との出会いだ。
五 奏
(最悪だ。学校の人に見られた。聴かれた。叔父さん、今日は誰も来ないって言ってたのに、何でだ。)
僕は家に帰ってくると、制服も着替えずにベッドに倒れ込んだ。
(明日学校、行きたくない。あの二人、多分クラスメイトだ。名前は覚えてないけど、顔は見覚えがある。どんな顔してクラスに行けばいいんだ。っていうか何で、僕は『オーリーズ』を飛び出して来ちゃったんだ。せめてちゃんと挨拶ぐらいしてれば…。
でも、明日の終業式さえ終われば、夏休みだ。夏休みに入ってしまえば絶対に顔を合わせないで済むんだ。仕方ない、明日だけ我慢しよう。
それにしても、叔父さんにはもう一回、ちゃんと夏休みの『オーリーズ』使える日、確認しないと。)
ベッドの上でそんなことを考え続けていた。
その夜、昔の夢を見た。
幼い頃からハープを弾いていて、中学生になる頃には家にあるCDの曲だったらほとんど弾けるようになっていた。
中学生といえばみんなが音楽に興味を持ち始める年頃だ。みんな口々に、好きなアーティストやジャンルの話をし始める。僕の周りでもそうだった。
けれど、僕はみんなが楽しそうに話す音楽の話にほとんど興味が湧かなかった。同じように、僕が好きな音楽の話をすると、ほとんどの人がとてもつまらなそうな顔をした。それでも僕は、ちゃんと聞いてもらうことさえ出来れば、きっと同じものを好きになってくれる人が居るだろうと、期待していた。
でもその期待は、ある出来事をきっかけに粉々に打ち砕かれた。
そうだ、あの時も確か夏だった。
その日、クラスのみんなで期末テストの打ち上げと称して、カラオケに行った。みんなが歌う歌を、僕は良い歌だとはやっぱり思えなかった。
クラスのみんなで行ったから、誰か一人くらい、僕の好きな音楽に興味を示してくれるかもしれない。そう期待して、僕は少し勇気を出して、好きなアイルランド民謡を歌った。とても美しい、大好きな曲だった。自分の歌が上手だなんて思っていなかったけれど、一人でも良いから興味を持って欲しかった。
歌っている途中で聞こえてきたのは誰かの「つまんね」という言葉だった。
それを皮切りに、みんな口々に「ネムクナル」「イミワカンナイ」「ジコマンゾクカヨ」「ダレカトメチャエ」「カッコイイツモリカナ」「ツギナニウタウ」「ハヤクオワレヨ」と不満を垂れ流した。
最後は誰かが、リモコンで曲を止めた。
誰が、というわけではなかった。僕の「好き」は、みんなの総意に否定されたのだ。
それで、気づいた。
僕は「好き」の共感を、期待することすら許されない。
別にそれをきっかけにいじめが始まったとかそういうわけではなかったけれど、僕はそれ以降、自分の「好き」を誰かに見せることが怖くなってしまった。だからといって、みんなの「好き」に合わせることもどうしても出来なくて、必然、友達が減っていったのだった。
今なら、少しわかる。
僕は自分の好きなものを人に好きになってもらうことしか考えてなかった。こっちから相手に興味を示すことが、まずは必要だったのかもしれない。幼い僕には、そんなことまだわからなかったけれど。
夢見が悪かったせいで、夜中に目が覚めてしまった。
(いい、分かってる。あの二人と話さなければ、今までと変わらない。大丈夫だ。友達が居ないのにはもう慣れた。でも本当にいいのか。
このまま過ごしていくこと。
大丈夫。大丈夫。一瞬だ。とにかく明日は乗り切ろう。)
頭の中で思考がぐるぐると回転したまま、必死に眠りにつこうとした。
六 夕夏
「ただいま。」
私が家につく頃には、20時近くになっていた。7月とはいえ、さすがもう空は暗い。
あの後、良太のバンド仲間が『オーリーズ』にやってきて、暗くなるまでの間練習していた。私はぼんやりとそれを見ていた。時々、良太が気を使ってくれて、「今の演奏どうだった?」とか聞いてくれたけれど、私の頭は相馬奏のことでいっぱいだった。
あのハープの音色が頭から離れなかった。
「おかえり。」
「あ、朝陽、帰ってたんだ。」
私の兄、橘朝陽は大学生で、今は都心で一人暮らしをしている。7月に帰ってくるとは聞いていたけれど、ちょうど良かった。本当はメールで聞こうと思っていたけれど、直接聞ける。
「ねぇ、後で聞きたいことがあるんだけど。」
「何だ、めずらしいな。とりあえず飯食ったらな。」
夕食後、私は朝陽の部屋に入った。
朝陽は高校生の頃から民族音楽的なもの(そもそも「民族音楽」が何を指すのか私には何となくしか分からない。)に興味を持ち始めて、部屋には日本語ではない文字があしらわれた大量のCDや、おもちゃのような木で出来た、弾き方の想像できない楽器、大小さまざまな太鼓などが飾ってあり、私の家の中でその部屋だけ異国みたいだ。
「夕、高校生活どうなんだ?」
まるで父親みたいなことを聞く兄だ。
「楽しいよ。明後日から夏休み。朝陽は?大学ってどんな感じ?」
「楽しいよ。本当にいろんな奴が居てさ。高校時代は趣味が合う奴がほとんど居なかったんだけど、大学ではわんさかいる。俺より詳しい奴も多いしな。」
「へぇ。」
朝陽から大学は結構聞くけれど、いまいち現実感がない。
私の世界は高校の中で完結している。もっとも今日は、良太のおかげで少しその世界が広がった気がした。
「そうそう、この夏休みにこっちでサークルの奴らとライブやるからさ、よかったら友達と来いよ。」
「そうなんだ。うん、きいてみる。」
朝陽のライブには一度行ったことがある。本当にいろんな種類の音楽をやっている人がいて、この部屋のように、自分が日本にいることを忘れてしまうような時間だった。
「で、聞きたいことって?」
「うん、今日、良太に誘われてライブハウスに行ったんだけどね…。」
私は相馬奏のことを話した。
彼の弾いたハープの音色がとても綺麗だったこと。彼の性格。マスターの話。
そして、聞きたかったのは、今日彼が弾いた曲のことだ。私はその曲を鼻歌で歌った。
「…っていう感じの曲なんだけど、なんて言う曲か朝陽なら知らないかなって思って。」
「それは『サリーガーデン』だな。メジャーなアイルランド民謡だよ。」
メジャーといっても、学校の誰も知らないだろう。
「どんな曲なの?」
「一言で言うと、若気の至り。えっと、多分どっかにCDがあったはず…。」
そう言って朝陽は、部屋の隅にある木製の、冷蔵庫のように大きいCDラックを探し始めた。
「にしても、その相馬君、そんなにうまかったのか?」
「うん。でも、演奏はめちゃくちゃ上手だったんだけど、その後、一言もはなせなくて。」
私は、相馬君に友達がいないことも話した。
「まぁ、俺もそうだったけど、マイナーな趣味っていうのは仲間を見つけずらいからな。それが好きであれば好きであるほど、そこを共有できない人と、腹割って話すって難しいし。」
やっぱり、そうなんだと思った。相馬奏は、ハープがなのかアイルランド民謡がなのかはわからないけれど、それが大好きなんだろうと想像してた。じゃなきゃ良太の言っていたように、人と喜びを共有も出来ないのに、一人で子供の頃から続けられるわけない。
その、「好き」という感情が、うらやましかった。
私には、それが無い。
無いから、友達が居るし、良太がいるのだろうか。
そう思いたくはないけれど、その考え方は、胸にしっくり来てしまった。
「お、あった。」
朝陽がCDを一枚、渡してきた。
「その中に入ってるよ。歌詞カードも入ってるから、聞いてみな。英語だけど、そんなに難しくないから、夕でも辞書使えば訳せると思うよ。」
「ありがと。借りるね」
部屋に戻って、私は朝陽に借りたCDを聴いた。
それは確かに、相馬君が奏でた曲だった。
歌詞カードを開いて、意味を考える。わからない単語がいくつかあった。辞書を引きながら、読んでいく。どうやら、失恋の歌の様だ。
But I being young and foolish with her did not agree.
焦らず、とか、若すぎて、とか、大人がよく使うような言葉だ。あまり好きではない。けれど、メロディに乗ると、こんなにも美しい。不思議だ。
曲を聴けば聞くほど、相馬君の演奏をまた聞きたいという気持ちがどんどん大きくなっていった。
七 奏
今日は終業式だけだ。あの二人と出来るだけ顔を合わせたくないから、遅刻ぎりぎりで教室に入った。違ったらいいのにと少し期待してたけれど、やっぱり同じクラスだ。二人が教室に入っていく僕の方を見たような気がしたけれど、気づかない振りをして、目が合わないように注意しながら、僕は席に着いた。
夏休み前最後の朝礼はすぐに終わり、終業式を行う体育館へ移動する。今度は、二人に間違っても話しかけられたりしないように、誰よりも早く体育館に向かった。
終業式の校長先生や生活指導員の話は、全く耳に入らなかった。
早く学校から離れたい。
それしか頭になかった。
終業式が終わると、クラスで一人一人担任に名前を呼ばれ、期末テストの答案が返却された。僕はそこで、昨日の二人の名前を知った。一応、覚えておいた。
終礼もすぐに終わった。僕は一目散に扉へ向かう。
「相馬君!」
扉に手をかけたところで、名前を呼ばれた。
呼ばれてしまった。
返事をしないといけない。
どうすればいい?
分からなくて、体が固まる。
汗がぶわっと吹き出してくる。
自分の心臓の音が、はっきりと聞こえる。
「相馬君ってば!」
僕の方に手が置かれる。逃げられない。勇気を振り絞る。
「っ、なっ、なに?っ橘さん?」
声が裏返ってしまった。本当に嫌になる。
「何?って…昨日オーリーズで会ったじゃん。」
知られてしまった。知られたくなかった。
知られるくらいなら、友達なんて居なくて良い。ずっと一人でハープに触っている方が良い。
橘夕夏が、まっすぐ僕の目を見ている。直視できなくて、目が泳いでいるのが自分で分かる。
「昨日の『サリーガーデン』、めちゃくちゃ上手だったね。いつもあそこで弾いてるの?」
それは、全く予想していなかった言葉だった。
どうして橘さんは、曲名を知っているのだろう。
「私の兄がさ、民族音楽?が結構好きで、CDも持っててさ。昨日それ借りて聴いたんだ。」
「そ、そうなんだ。」
何とか答えたものの、頭が追いつかない。
「ね、また相馬君の演奏聴かせてよ。」
それに対する返事だけは、決まっている。
「いっ、嫌だ。」
僕はそれ以上耐えきれなくて、口からでてしまった拒絶の言葉を残して、下駄箱に向かって走り出す。
(橘さんが、あの曲を知っていた?そんな人がクラスにいるなんて。いや、知っていたのは、お兄さんか?また聴かせてだって?嫌だ、そんなこと出来ない。どうせ、分かりっこない。分からなくて良い。
叔父さん、今日は高校生は来ないって言ってたはずだ。『オーリーズ』へ早く行こう。いや、昨日もそう言ってたんだ。言ってたのに。何でこんなことに。
とりあえず、早く行こう。
早く。
下駄箱のふたを開けて。
そうだ、靴を履き替えて…。)
「待って!」
靴を手に持ったところで、その腕を捕まれた。
橘さんが、追いかけてきた。
「そんなに逃げなくても良くない?」
あぁ、怒らせてしまった。ごめん、でも無理なんだ。
「ねぇ、本当にすごいなって思ったの。マスターに聞いたんだけど、子供の頃から弾いてたんでしょ?お願いだから。聴きたいの。」
「っで、でも…。」
「ん~っ、もう!今日!これから!『オーリーズ』行こう!暇でしょ!?」
「え…。」
そう言って彼女は、靴を履き替えると、また僕の腕をつかんで、引っ張りながら歩き始めた。
八 夕夏
「こんにちは!」
私は『オーリーズ』の扉を勢いよく開けて、挨拶を、する相手を確認もせずに叫んだ。
自分が怒っていることに、自分でも戸惑っていた。
相馬奏は想像以上にうじうじした、嫌いなタイプの男だった。一つのことをずっとやめずに続けて、あんなに綺麗な演奏をする人が、まさかそんな男だったなんて。
でも、もう一回聴きたい。もう一回聴いて、確かめたい。
私の不安を、私が求めていることを、私が持っていない何かを。
「あれ、夕夏ちゃんと、奏?何?もうそんなに仲良くなったの?」
マスターが、私が相馬奏の腕をつかみっぱなしなのを見て、茶化すように言ってきた。
「違います!ちょっと、ステージ借りますね。」
「はいはい。」
今は大人のからかいなんてどうでも良い。
私は相馬奏をステージまで引っ張っていった。
ここに来るまでも、相馬奏は何も話そうとしなかった。まぁ、私がずっと怒っていたからかもしれない。
「相馬君。」
「…はい。」
自分を落ち着かせようと、ふぅ~っと息を吐く。
相馬君が誰かと話しているのを見たことがない。マスターの話では、相馬君には学校の外でも友達が居ない。
人と話すことに慣れていないのだろう。
しっかり話すためには、落ち着いてゆっくり話さなければ。
まったく、初めてするタイプの気遣いだ。
「さっきも言ったけど、昨日の演奏、本当に綺麗だった。あの後、頭から離れなかった。兄から借りたCDで同じ曲を聴いたけど、相馬君の演奏の方がすごいと思ったくらい。
マスターに聞いたんだけど、ずっと一人で弾いてるんだって?勿体ないよ。それでいいの?」
そんなことを言うつもりではなかった。ただもう一度彼の演奏を聴いてみたかっただけなのに。責めるようなことを言ってしまったかもしれない。大丈夫だろうか?そんなに強い口調にはなっていないはずだ。…でも、相馬君の目から、目を離してやるもんか。
「…僕は、でも…みんな、興味ないと思うし…。」
「私は、君に興味があるの。だから、お願い。」
私は頭を下げる。
女の子にここまでさせて、まさか断らないよね?
「…わかった。」
どうやら通じたようだ。良かった。
相馬君は鞄をおいて、楽器のカバーを外し始めた。
私は客席の一つに座って、その姿をじっと見つめる。
半ば無理矢理うなずかせてしまったけれど、こんな状況で昨日のように演奏してもらえるだろうかと、少し不安になる。けれどもそんな心配は、彼がいすに座ってハープに手を当てると、杞憂だったと気づいた。
さっきまでおどおどしていた男の子と同じ人とは思えない。無心になっているのが、彼の表情と姿勢から伝わってきた。
その一音目から、再び私の心は奪われた。
やっぱりすごい。
なめらかな指運び。
ブレない姿勢。
所作が美しい。
音色が私の心をくすぐる。
もう自分では忘れてしまった、幼い頃の私が世界に対して感じていた幸せや不安、愛。
そう、愛だ。これが愛か。
両親や兄、友達。
良太。
『サリーガーデン』。
詩も今や、メロディに乗ってはっきりと届く。
as the grass grows on the weirs.
私は、そう生きているだろうか?
涙が、溢れてしまった。
本当にすごい。
彼が、誰とも共感することなく、一人で費やしてきた時間。孤独の結晶のような演奏。そうだ。それに触れたかったのだ。
私には何もない。こんなに好きが煮詰まるまで我慢できない。
人と共感したい。一人は寂しい。だから、友達がいる。家族がいる。彼氏がいる。不満は無い。無かった。
私も、欲しい。
自分だけの好きが欲しい。
漠然とした不安が具体的な欲望となって、心の一部を陣取った。
演奏が終わった。
私は放心状態だったけれど、不意に後ろの方から拍手が聞こえて、我に返った。
マスターかな?と思って振り向くと、そこには朝陽がいた。
「朝陽!?何で!?」
「いや、こっちこそ驚いたよ。昨日言ってたライブハウスって、『オーリーズ』のことだったんだな。」
「何だ、言ってなかったんだ。俺は昨日夕夏ちゃんが来たとき、朝陽君の妹だって気づいたけど。」
「なんだよマスター!なら夕夏にそう言ってやれば良かったのに、相変わらず人が悪いなぁ。
でも夕夏の言ってたとおり、相馬君、本当にうまいな。感動しちゃったよ。」
「どうよ。自慢の甥っ子だよ?」
朝陽とマスターが親しく話しているのが、不思議な光景だった。
「で、朝陽。この前ちらっと話してた件だけど、実際聴いてみてどうだった?」
「いやもう、合格も合格。むしろこっちからお願いしますよ。」
私には話が見えなかったので、口を挟む。
「朝陽、何の話?」
「ほら、昨日ちょっと話しただろ?こっちでライブやるって。それ、『オーリーズ』でやるんだよ。」
「え!そうなんだ。…合格って?」
「実はマスターからも相馬君の話は聞いててさ。で、そんなにうまいなら、俺らのライブに出てくれないかな~なんて話してたんだよ。まぁ俺も一回聴いてみてから誘うか決めようと思ってたんだけど、実際想像以上だったからさ。だから、合格。
ってことで、相馬君!来週の俺らのライブ、ゲスト出演してみない?」
朝日の唐突な誘いに、相馬君は明らかの動揺していた。あたりまえだ。初めて会った人に「ライブに出ないか?」なんて言われても、普通でないと思う。
まして相手は、この相馬君だ。私1人の前で演奏してもらうのに、こんなに苦労したのだ。相馬君は人前では弾きたがらない。
私はそれをもったいないと思った。だから、これは相馬君が決める問題だったのに、つい口を挟んでしまった。
「相馬君、やってみなよ!ずっと一人で弾いてるだけじゃ、もったいないよ!」
「っで、でも…。」
「私、今日無理やり相馬君を連れてきちゃったけど、連れてきてよかったって思ってる。本当に、相馬君の演奏が聴きたかったの。そのくらい、感動したの。相馬君の演奏は、力を持ってるんだよ。」
なぜ相馬君が人前で弾きたがらないのか、それはわからない。
良太はライブのために練習してる。私だって、人に自慢できることがあれば、みんなに自慢したい。
相馬君は、そうは思わないのだろうか。
「…橘さんが、聴きに来るなら…。」
相馬君は消え入りそうな声で、そういった。
私は、その言葉に何か引っかかるものを感じた。私が聞きに行くなら?
「もちろん、行くよ。っていうか、もともと朝陽に誘われてたし。」
「なら、やってみる。やらせてください。」
相馬君が、朝陽に向かって頭を下げた。
「よしっ、じゃあ決まりな。明日からうちのサークルのメンバーは毎日ここを借りて練習するから、相馬君も来なよ。」
「あ、ありがとう、ございます。よろしくっ、お願い、します。」
こうして、相馬君の初ライブが決まった。
九 奏
一週間前のあの日。橘さんに無理矢理『オーリーズ』に連れて行かれた日。
唐突な朝陽さんからの誘いに、戸惑った。ライブなんて出来るわけない。誰も僕の演奏になんて興味ない。そう思った。
けれど、目の前の橘さんが、僕の演奏をほめてくれた。それは、ずっと昔に心から求めていたもので、あきらめてしまったものだ。
だから思わず「橘さんが来るなら」なんて言ってしまった。すぐに、何でそんなことを言ってしまったのかと、後悔した。まるで僕が橘さんのことを好きみたいな言い方だ。
でも、ライブは本当にやってみたいと思った。
ずっと、今のままで良い訳がないと、気付きながらも、逃げてきた。でも、自分ではどうしようも出来なかった。
あの日の恐怖が、ずっと心の中心にある。
それをどうにかしたい。
もしこれがチャンスなら、手放したくなかった
橘さんに「もう一回聴かせて」と言われて、朝陽さんに拍手をされて、ライブに誘われて。その全てがとても嬉しかった。
だから、心からやってみたいと思った。
翌日から、毎日『オーリーズ』でライブの練習をした。
朝陽さんのサークルの人達も来ていた。
そのサークルは僕の目にはとても不思議な集まりに映った。
民族音楽というくくりはあるものの、みんな好きなジャンルはバラバラだ。なのに、お互いを認め合っている。決して人数は多くないけれど、自分の「好き」に偽っている人が誰一人として居ない。その空気がとても居心地が良かった。
本番までの練習で、何度も人前で演奏した。人前と言っても、叔父さんと朝陽さんとサークルのメンバーだけだったけれど、それでも僕には初めての経験だった。
居心地のいい空気の中で、好きなことに没頭できる。とても楽しい日々で、時間はあっという間に過ぎていった。
朝陽さんやサークルのメンバー達は、本当に色々なアドバイスをくれた。技術的なことや心構え。そのアドバイスの一つ一つが本当にためになることばかりだった。僕がこれまでいかに独りよがりだったかということを痛感した。
演奏を評価されるということ。
それは、僕の演奏を聴いてくれるということだ。こんなに嬉しいことは無い。
アドバイスのために演奏を止められることだけは、どうしても慣れなかった。あの時の、カラオケの演奏を止められるのと違うということは、頭では分かっているけれど、それども怖いものは怖い。
そう、恐怖はある。
でもそれ以上のものがここにはあると感じ始めていた。それが何か知りたくて、どんどん本番が待ち遠しくなった。
僕は演奏できるレパートリーをいくつか朝陽さんたちの目の前で披露した。どれも好きな曲だったが、やっぱり一番好きな『サリーガーデン』が一番うまく弾けているらしい。「好き」を共感することをあきらめてから、ずっと一人で弾いてきた。だから、自分の感覚と人の感覚が同じかどうかわからなかったけれど、どうやらおおよそ同じらしい。
一番好きな曲が、一番うまく弾ける曲だ。
演奏曲は『サリーガーデン』に決まった。
そして今日、本番。
家で昼御飯を食べてから、『オーリーズ』へ向かう。空は青く晴れ渡っていたけれど、天気予報では夕立が来るらしい。あと数日で8月になる。まだまだこれから暑くなる。
「お、来たな。」
『オーリーズ』に着くと、叔父さんがカウンターでドリンクの準備をしていた。
「…叔父さん、朝陽さんに僕のこと話してくれて、ありがとう。」
叔父さんは目を丸くして、きょとんとしている。
「お、おう。いや、おまえにハープのこと誰にも話すなって言われてたから、勝手にしゃべったこと怒ってんじゃないかと思ってたんだけど…夕夏ちゃんのおかげかな?」
「…そうかもしれない。」
「ま、頑張れよ。ライブってのお客さんってのは、お金と時間を使ってわざわざ演者の演奏を聴きに来てるんだ。おまえはゲストだけど、みんなおまえの演奏を真剣に聴いて、楽しもうとしてる。へまするなよ?」
叔父さんは言いながら、意地悪そうににやっと笑った。
初めてのライブに出演する高校生にこんなプレッシャーをかけてくるなんて、人が悪い。
…みんなが、真剣に、演奏を聴いてくれる。
それは、僕がずっと求めていたことだ。
そうか、それがここにはあるのか。
僕の緊張はどこかに消えてしまい、ただただ、早く演奏したいという気持ちだけが残る。
「臨むところだよ。」
僕はおじさんの目を見据えて、そう言い放った。叔父さんはまた、きょとんとしていた。
開演の30分前から、客席に人が入り始めた。
「人が入ってくると緊張するだろ?」
朝陽さんはそう言いながら、僕の隣の椅子に座った。
リハーサルも終え、出演者はみんな控え室にいる。
「朝陽は初舞台で緊張して鼻血出したもんな。」
出演者の一人、つまり朝陽さんのサークル仲間の一人が朝陽さんをからかった。
「それを言うなよ!どう?奏君。練習通りに出来そう?」
「…はい。大丈夫だと思います。」
「お!言うねぇ。まぁもし失敗しても、今日来てるのは出演者の知り合いばっかりだし、気にする必要ないからな。せっかくの初舞台、楽しんでよ。」
「ありがとうございます。」
「朝陽は鼻血出すなよ?」
またほかの出演者が、朝陽さんをからかって、控え室に笑いが溢れた。
開演時間だ。
照明が落ちる。
司会の朝陽さんが舞台に出て、スポットライトを浴びる。
朝陽さんの挨拶。
そして、ゲストの、僕の紹介。
拍手。
僕は舞台に出る。
椅子にたどり着くまでにちらっと客席をみる。
居た。
一番前の列の真ん中に、橘夕夏。
演奏を始めれば、僕はもう、僕の音しか感じない。だからその前に確認した。
大丈夫。
僕の演奏に初めて、関心を持ってくれた、他人。
彼女が居ることが分かれば、怖くない。
演奏は止まらない。
席に着き、一息、深呼吸。
弦に手をかけ、力を込める。
十 夕夏
指が弦から離れる。
一音目から引き込まれる。
そこから先、相馬君の指は踊り始める。
その踊りに合わせて、弦が震える。
音はメロディーとなる。
歌声がそれ乗って意味を持つ。
音楽が奏でられる。
『サリーガーデン』。
相馬君はどんな気持ちでこの曲を奏でるのだろうか。
…これで相馬君が奏でるこの曲を聴くのは、三回目だ。全く色褪せない。
相馬君が一人で過ごしてきた時間は多分とても孤独で寂しくて、だから純粋で。
その純粋さが音楽になって空気を伝わって、私に染み込む。
その感覚が、私を惹きつける。
孤独が何かを作ることもあるんだ。
as the grass grows on the weirs
私たちはまだ17歳。
草が育つまで、どのくらい時間がかかるのだろう?
焦れったくなるゆっくりとしたスピードで、長い時間を私たちは生きていく。
ライブが終わった。
相馬君の演奏は、やっぱり素晴らしかった。彼の演奏が終わると、客席からは静かな、力強い拍手が起こった。あの日、無理矢理彼の腕を引っ張って良かったと、心から思った。
最後の挨拶が終わると、出演者が客席に降りてきて、観客と挨拶を交わす。相馬君が、私たちの元にやって来る。
「った、橘さん!来てくれて、あ、ありがとう。」
こうやって話す言葉を聞いていると、まだ、ステージ上の彼とは別人のように感じる。
「あのっ、演奏、どうだった?」
それまで、本当に相馬君の演奏が素晴らしかったと、それだけを想っていた。そして、彼が孤独に積み上げてきた時間に敬意すら感じていた。
でもその時、相馬君が私に向けるまなざしで、気付いてしまった。
いや、本当は演奏が始まる前、ステージに出て行く彼と目があったときに、気付いていた。でも、気づかない振りをした。
今まで彼は、真に孤独だったのだ。
私にとってそれは、神聖ですらあるくらいだった。だから同じものを求めれば、心に引っかかるものを取り除いてくれるのではないかと、確信していた。
間違えていた。
私はその神聖なものを壊してしまったのだ。
つまり私は、彼にとって初めての理解者になってしまった。
私の中で、彼に対する尊敬とかあこがれが、分厚い黒い雲に隠された太陽のように、見えなくなってしまった。
あんなに素晴らしい演奏をするのに。
純粋な好きが煮詰まった、きれいな音楽なのに。
彼は知ってしまったのだ。私が知っている喜びを。
そして私は知ってしまった。
彼も心の奥で、それを求めてやまないただの高校生だと。その上彼は、それを手に入れるための努力を放棄して、自分だけの好きで遊んでいたのか。
今、私には、彼が私に言って欲しい言葉が、手に取るように分かる。
「良かったよ。ね、良太?美佳?」
私はわざと、今日ライブに誘っていた二人に話を振った。
二人は口々に今日の感動を相馬君に伝える。でも私は知っている。彼が今聞きたいのは、二人の言葉じゃない。
二人とも、もしまた誘っても、もう来ないだろう。だってふたりと相馬君は、趣味が合わない。彼も分かってるんだろう。私の言葉を欲しそうに、ちらちらとこっちを見てる。気づかない振りをする。
二人が一通り話し終えたので、私たちは帰ることにした。
帰り際、私はあえて、良太と手をつないでみた。予防線。私が好きなのは、良太なんだよ。
相馬君の顔を見る。彼も何かに気付いたみたいだ。私に向ける眼差しが、さっきまでのように熱を孕んでいなかった。
『サリーガーデン』。
お似合いだ。
『オーリーズ』の扉を開けると、夏の重たい雨が降っていた。
十一 終
相馬奏は私が持っていないものを持っていた。
それは孤独を糧にして自分の「好き」だけに費やした時間。
そしてその末に手に入れた、美しい音色。
でも、私が持っていて、彼が持っていないものも確かにある。
友達。
彼氏。
一緒に過ごした時間、思い出、これからの楽しいこと。
私はそれらを、無くて良いものだなんて思えない。
相馬奏の演奏は本当に心打つものだった。
彼の奏でる音が大好きだ。
でも、彼のことを知って、彼のようになりたく無いと思ってしまったことも、偽り無い本音だ。
あの日、『オーリーズ』に彼を引っ張っていった日。
彼の演奏は、私の曖昧な不安は確かに明確な形を持たせた。
でもそれと、私が積み上げてきた年月。
天秤に掛けたら、片方が沈んだ。
もう、迷いはない。
相馬奏に、感謝と心からの哀れみを。
橘夕夏が僕に教えてくれた。
僕の積み上げてきた孤独な時間が、僕をまだ知らない世界に連れて行ってくれるかもしれない、その可能性を。
あの日、僕の腕を引っ張って、扉の在処を教えてくれた。
その向こう側では、何処にもないんだとあきらめていたものが、確かにあった。
ステージがその一つだ。
人にはそれぞれに好きなものがあって、大切なことがある。
それらは実は、本当にバラバラで多種多様で。
でも、それを一つ一つ確かめてはいられない。
だからたくさん共感を求める人は、自分の好きに蓋をして、そしてそれが出来る人しか認めないのだ。
でも、少しで良いのなら、それを認め合うことが出来る人たちもいる。
朝陽さんのサークルのように。
僕にとっての、橘夕夏のように。
僕が一人で積み上げてきたものを、綺麗だと言ってくれた初めての人。
彼女のおかげで、気付くことが出来た。彼女にこだわる必要がないこと。
彼女がいてくれたことが、彼女のようになれなくても良いことの証明だ。
きっと僕が得られるものは多くはないのだろう。
構わない。彼女はそれをたくさん求めて、僕はそうではないというだけのことなんだ。
もう、道は分かった。
橘夕夏に、祝福とさよならを。
幸あれ。