第一話 灰色のコート
“コツコツ”
聞きなれた音に僕は夕食を作る手を止めた。
目の前の窓からは小屋を覆うほどのクラルの大木が見える。クラルは夏の間に栄養を蓄え、秋に黄色くこぶしほどの実を付ける。酸味はあるが甘く、僕は小さい時からこのクラルが好きだった。そんな美味しいクラルの実は冬が近づくにつれ茶色く、硬くなっていく。そして冬の訪れとともに地に落ち、ひと冬を越して春に芽吹くのだ。
このクラルの実が屋根に落ちると“コツコツ”という音を立てて、転がり落ちていく。よく夜中にこの音を聞いて、一緒に寝ている祖父に「お化けが来た」としがみついたものだ。祖父はそういう時、決まって「お化けじゃあないよ、精霊が冬が来たのを知らせて回っているんだよ」と微笑みながら僕をなだめてくれた。
“コツコツ”
また実が落ちたようだ。今年の冬はいつもより少し早い気がする。祖父の看病に忙しく秋を感じる余裕がなかったせいかもしれないが。
本格的な冬が来る前にもう少し薪を集めておいたほうがよいだろう。ここいらはそこまで寒さが厳しくないとはいえ、雪も降るし気温もそれなりに下がる。用心をするに越したことはない。
“コツコツ”
今年はクラルの実が豊作のようだ。茶色く硬くなった後でも、殻を割り砂糖漬けにすれば十分おいしく食べることができる。薪と一緒にクラルの実も拾うことにしよう・・・
「誰もいないのか?」
僕は再度夕食を作る手を止めた。声は僕の背中側、玄関の方から聞こえている。どうやら訪れたのは冬ではないらしい。
ここは山奥で滅多なことが無い限り立ち入る場所じゃない。ましてはウチを訪ねてくる人もまずいない。可能性があるとすれば遭難者くらいだろう。しかし、この時期に遭難することはまずありえない。ここいらの森は光がよくとおる。鬱蒼とした薄暗い常緑樹の森と違い、落葉樹の森であるため秋になると木々は葉を落とし、枯葉は太陽の光を反射し、黄金に輝く。雪が降っているならまだしも、この見通しの良さなら少し高い場所に登れば方角くらいは分かるだろう。第一、まだ日が高い。傾き始めたとはいえまだ昼間だ。
言い知れぬ不信感を抱えながら僕は玄関の方に向かい、扉の脇の小窓から扉の外を覗き見た。
そこには、一人の男が立っていた。背は僕よりひとまわり高く、短髪でそこそこに整った顔立ちをしている。まだ秋だというのに長い灰色の外套を羽織り、手には黒い手袋をしている。表情は返答がないことに対する困惑により少し曇っているようだが、それ以外はいまいち何を考えているか見透かせないところがある。
「どなたですか?」
居留守をするには少々分が悪い。察するにただの遭難者ではないだろう。僕は扉の閂をかけながら慎重に声をかけた。
「ザハル君か?」
男の返答は僕の顔を歪ませた。この男は僕の名前を知っている、しかし僕はこの男を知らない。心の中で不信の種は花開き、警戒へと変わっていた。
だんまりを決め込む僕に、男はまた話しかけてきた。
「すまない、不審がらせてしまったようだね。俺の名前はクラエル。おじいさんから聞いてないかい。」
男の声は先ほどとは違い、とても穏やかだった。