安堵の夜
男とスマイルは屑鉄の丘を上がりきると、双眼鏡とオペラグラスで遠方を見た。夕方の複雑な深緑色の空を背景に、急勾配に囲まれた盆地の底、何本もの鉄塔がでたらめに絡み合ったような背の高い構造物がそびえている。
「ねぇ、パパ。あれがそう?」
「ああ。計算ではあの塔のふもとにある町が一番近いはず」
「やった! とうとう着いたね!」
スマイルはぴょんぴょん飛び跳ね、不安定な足場に一瞬よろけた。
「おまけにあの町にはこの星に5つしかないラジオ局がある。うってつけだ」
「ラジオかぁ……はずかしいなぁ……」
もじもじとするスマイル。パパと呼ばれた男は双眼鏡をしまった。
「代わりに俺が喋ろうか?」
するとスマイルは憤慨した。
「やだやだ、私が喋る! やっぱりこういうのは、言い出しっぺがお話するのが誠意だと思うもん! ああでも、私の声が世界中に届くのかぁ……これをきっかけにアイドルにスカウトされちゃったり? そしたらカッコいい王子様と結婚しちゃうかも! あ〜ん、どうしよう!」
両頬をおさえてひとり盛り上がる少女を、男は悲しみに満ちた瞳で眺める。それから彼は背負っていた散弾銃の弾倉をたしかめた。
「深夜を待ってから行こう。それまではここで休憩だ」
「はーい」
元気に返事をしたスマイルは、手首に絡めていた鎖を引いてふりかえった。
「あなたもありがとうね、ちゃんと残さず食べてあげるから!」
笑いかけた彼女の視線の先には、片目だけ残されて耳、鼻、頬、唇を削ぎ落とされ、両腕と両胸を切り落とされた包帯だらけの少女が地面に這いつくばっていた。
深呼吸をして、ユリシーズは扉をノックした。返事がないのでもう一度すると、誰何の声に、彼は名乗った。
「入れ」
「お邪魔します……」
ユリシーズが扉を開けると、そこは3メートル四方ほどの狭い部屋だった。片方の壁にくっついてベッドがあり、窓はごく小さな換気用だけが天井に近いところにひとつだけある。照明は裸の蛍光灯が天井からぶらさがっていて鬱陶しい。ベッドと反対側の壁にはサイドボードがあって、そこには旧型のラジオと空の水差しが乗っている。さらにその上の壁には『発砲禁止』の貼り紙といくつかの弾痕と赤黒い染みが残っていた。
アングレカムはベッドに腰かけ、引き寄せた小さな椅子の上に銃を分解た部品を並べていた。ユリシーズは所在なく入り口に立ったままだった。
「何の用だ」
「酒場でのこと、謝りたくって」
アングレカムが顔をあげた。彼女はシャワーを浴びてきたらしく、まだ湯気の立つ黒髪をタオルでターバンのように包んでいる。素顔だったので、いつもは眼帯に隠されている部分が顕になっている。彼女の右目は、無かった。
本来ならば目蓋と眼球があるべきところには黒い大きな穴が開いていて、がらんどうの眼窩の中に世の果てのような色の闇がわだかまっている。彼女はいたって平然としていたが、その傷跡のあまりの痛々しさにユリシーズはいまだに直視できない。そのことに気づいたアングレカムは枕のわきに置いてあった眼帯に手を伸ばし、身につけながら「何をしてる、ベッドにでも座れ」と言った。
ユリシーズは彼女の隣に座った。彼はさっそく口を開いた。
「昼間はごめん。勝手にあんなこと言って、迷惑だったよね」
「気にするな」
アングレカムは平然と言った。それから彼女は頭のタオルをとる。黒い長髪が背中に落ちて、石けんの匂いが周囲に広がる。
「私こそすまなかった。ユーリィがあそこで止めてくれなければ、私は荒野で野垂れ死んでいただろう。ありがとう」
「……こっちこそ、ありがとう。行かないでいてくれて」
「それともうひとつ」
アングレカムはユリシーズの顔を見て、金色の目を細めた。
「ユーリィ、私はおまえの家族じゃない。母でも父でも、ましてや妹でもない」
ユリシーズは無言で彼女を見つめ返す。
「また同様に、おまえも私の家族じゃない。みなしごだった私を育ててくれた、私のおじいちゃんではない」
彼女はそこまで言って、口の端をつりあげ、微笑んだ。
「だが、目的を同じとする仲間だ。そういう意味で、私はユーリィを大切に思っているよ」
「アンジィ……」
ユリシーズはうつむいた。そしてまた顔をあげ、にっこり笑った。
「明日からまた頑張ろう!」
「……ああ!」
ふたりは笑いあう。
「それにしても、屋根と壁があるところで寝るのも久しぶりだね」
「そうだな。おまけにギルド所有の建物だから、夜襲を気にせずぐっすり眠れる」
「熱いシャワーも浴びれたし!」
「自分の服の汗臭さに驚いた」
苦笑しながらアングレカムは上を見上げた。ユリシーズもつられて上を見る。するとそこには、壁と壁の間に張った紐に彼女の洗濯物が干されていた。シャツやズボンやマントはもちろん、下着もぶら下がっている。ユリシーズは恥ずかしくなって目をそらした。
「あ、こ、これは何かな?」
白々しくサイドボードに近づいて、上に乗っているラジオをいじった。つまみをひねると電源が入り、女性の美しい歌声がノイズ混じりで流れ出す。ユリシーズはその曲を聴いたことがある気がして、しばらくその場に立ち尽くした。
「……なつかしいな。妹が好きだった曲だ」
「音量をあげてくれ」
アングレカムがベッドに寝そべって言った。椅子の上には銃の部品が散らばりっぱなしだった。
「今日はつかれた……もう寝るよ。ラジオはつけっぱなしでいい」
「……うん、わかった。おやすみ、アンジィ」
「おやすみ、ユーリィ」
そうしてユリシーズが部屋を出ようとしたときだった。
ラジオのノイズがいきなり激しくなり、不自然に音が大きく歪んだ。ユリシーズはラジオのところに戻ると、眉をひそめてつまみをいじる。
「あれ、壊れた?」
「待て、なにか聞こえる」
アングレカムが体を起こして言った。ユリシーズが耳を澄ますと、激しいノイズに混じって、たしかに誰かの声がする。
「……ス……テス……イク……」
「この声……女の子?」
嫌な予感に、少年は口を歪めた。ラジオの音声はだんだんとはっきりしてくる。
「……あー、あー、ただいまマイクのテスト中。ただいまマイクのテスト中。本日は晴天なり。本日は晴天なり。いちどやってみたかったんだよねー、これ。あ、みなさん聞こえてますかー! はじめまして、私、スマイルっていいます!」
「『奴』!?」
ふたりは絶句した。