天国の理屈
アングレカムは立ち上がり、片手でライフルを回して次弾を装填する。飛び出した薬莢が地面に落ちた。
「ユーリィ、ついてこい」
彼女は丘を駆け下りて、充分に警戒しながら悲鳴の聞こえた方向へ行く。
わずか100メートルほど離れた廃材の山の影で、ひとりの男が苦しそうにうめいていた。黒いフードつきマントを身につけ、首からガスマスクをさげた彼は、廃材の山によりかかって、憔悴した目でふたりを見上げた。彼が押さえているのは右肩で、傷口から溢れ出した血が、雨に撹拌されている。
彼は自分のライフルから手を離して、両手をあげようとしていたが、怪我のせいて上手くできないようだった。
「参った。降参だ」
「もうひとりはどこだ」
アングレカムがドスの効いた声でライフルを突きつけた。
「利き腕を撃たれた。もう戦えない」
「もうひとりいただろう」
「そのへんで死んでるよ。あいつはミロクの手下だから」
「ユーリィ、探してこい」
彼女はユリシーズに拳銃を投げ渡した。
「わかった」
彼はおっかなびっくり銃をかまえ、注意してあたりを探しはじめる。
アングレカムは彼の足音が聞こえなくなってから質問を再開した。
「おまえは誰だ、雇い主は誰だ?」
「俺はハユハ、賞金稼ぎだ。一応『黒い悪魔』で通ってる」
ハユハはにっと口端を吊り上げた。彼の上顎と下顎は左右に大きくずれている。
「アンタのことはギルドで見たことある、隻眼鬼さんよぉ、アンタとは戦いたくなかったんだよ」
「雇い主は誰だ」
ひひっとハユハが笑った。
「アンタも賞金稼ぎならわかるだろ――」
彼が言いかけた言葉は、途中で苦痛の悲鳴に変わった。アングレカムが動けない彼の傷口を踏みつけたのだ。ブーツの底の金属スパイクはハユハの傷口をえぐり、押さえている手の甲にも小さな穴をいくつもあける。降り続く酸性雨が傷口に染みて、ハユハの痛覚神経を焼く。
「あ"あ"あ"あ"あ"あ"ああああああッ! ああひいいああッ! 痛い痛い痛えああああああ!」
「雇い主は?」
無感情にたずねるアングレカムに、ハユハは涙目で歯を食いしばり、首を振る。
「まだ足りないか」
彼女はマントの下からナイフを抜き、その尻を指先でつまんでハユハの上で揺らした。雨がナイフを濡らし、水滴が刃をゾッとするほど冷たく輝かせる。鋭い切っ先から垂れ流される水が、ハユハの上下する腹にまっすぐ落ち続ける。
「5秒待つ」
「ま、待て……」ハユハは青ざめた。
「4、3、2」
「わかった! 言う! 言うから!」
ハユハは顔をくしゃくしゃにして叫んだ。そしてむりやり絞り出したような声で言う。
「ミロクの町に住む、マララという女だ。よく笑う女だ」
「よく笑う……女、か」
ナイフをしまいながら、アングレカムは少し考えるようなそぶりを見せる。ハユハは舌打ちをして、まるで今にも世界が滅びるかのような顔をした。
「ああクソ、言っちまった」
アングレカムがハユハの上から足をどけ、彼の銃を足の側面で蹴りとばした。
「行け」
彼女がハユハを見下ろしてそう言っても彼は動かない。ただうなだれてヒヒヒと不気味に自嘲し続ける。
そのとき、ばしゃばしゃという足音が近づいて、ユリシーズの声がした。
「アンジィ、その人の言うとおり、そこでさっきの人が死んでたよ」
「そうか」
「その人、どうしたの?」
ユリシーズが引きつった笑い声をあげ続けるハユハを見、心配そうな声を出した。アングレカムは無言で頭を振った。
「なんでもない、行こう」
「待てよ」
ふたりがつま先を別の方向に向けた直後、ハユハが低い声を出した。彼はふたりを睨んだ。
「行く前に、俺を殺してけよ」
ユリシーズがマスクの下で怪訝な顔をしてふりかえった。アングレカムはまだライフルを納めてはいない。
「どうした、聞こえてんだろ。返事しろよ……」
「どうしてそんなことを仰るんですか?」
「おっしゃる? おっしゃるか、ヘヘヒ」
ハユハは顔をあげた。彼はどこか遠くを見ていた。
「依頼主の名前を吐いたんだ。賞金稼ぎとしちゃ終わりだ。この腕の傷じゃあ、もうまともに銃も撃てねぇよ。野盗もできない。死ぬしかない」
「そんなことありません。生きていれば、道はあります」
「苦しんで生きるくらいなら、さっさと死んだほうがましだ!」
ハユハは唾を飛ばして喚いた。ユリシーズはたじろいだ。
「見ろよ周りを! どこまで行っても錆、錆、錆! 空気は毒、雨は害! ヘドが出る! 知ってるか? 空の上には天国ってところがあって、そこでは太陽の光も浴び放題、うまい空気も吸い放題なんだってよ! ぎゃははは!」
ハユハはしばらく狂ったように高笑いしていたが、いきなり激しく咳き込みはじめた。かと思うと小刻みに震えはじめ、ひ、ひ、と奇妙な音を喉から出す。ユリシーズは気づいた。
「呼吸ができてない!」
少年は大きく口を開けて苦しむハユハにすがり、丸めた背中をさすってやったりするが、何も良くなる兆候はない。アングレカムはその様子を見ながら大気分析器を確認した。
「硫化水素ガスの濃度が上がってる。こいつは死ぬな」
「ダメだよ! 死んじゃダメだ! 頑張って!」
「コ……コ……」
ハユハが白目を向いて、顎を上げたまま動かなくなった。顔は青ざめた、ぴくりともしない。喉と胸を掻きむしったあとが抉れていた。
ユリシーズは息を呑み、うなだれた。肩が小刻みに震え、指先に力が入っていた。
「……まだ慣れないか」
アングレカムの問いかけに、ユリシーズは小さく頷いた。
「死体には慣れたけど……やっぱり、人が死ぬのは、見たくない」
「はやく殺せるようになれ」
彼女はそう言ってハユハの死体を仰向けに寝かせる。平然と彼の持ち物を漁りはじめるアングレカムを見たユリシーズは、批難するでも、肯定するでもない視線を向けた。
「生きてるより死んでるほうがいいなんて、おかしいよ……」
「それはこいつの言う『天国』の理屈だ。中途半端にしか生きれない人間には、人生は拷問だ」
それから彼女は少年の首輪を一瞥。
「私だっていつまでおまえを守れるかわからない」
アングレカムは戦利品をポーチにしまって立ち上がった。
「行くぞ。まだ仕事は終わっていない」
踵をかえして歩き出す彼女に、ユリシーズはとぼとぼとついていく。最後にもう一度、野ざらしのハユハをふりかえる。
「それでもやっぱりあの人も、本当は生きたかったはずなんだ……」
少年の呟きは雨音にかき消えて、誰にも届くことはなかった。