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世界は地獄だ。

 ユリシーズが雨音に紛れて聞こえる銃声に気がついたのは、気分が悪くなった彼が、部屋の臭いを消し去りたくて窓を開けたときだった。

 しばらくの間、彼はぼぅとその場に立ったまま、かすかに届く恐怖と苦痛の絶叫を聞いていたが、ふと嫌な予感が胸をよぎって、彼はキッチンへと出た。

「アンジィ……?」

 彼女の姿は家のどこにもなかった。呼びかけの声だけが虚しく床へ転がった。

「アンジィ、まさか……!」

 ユリシーズは青ざめ、急いで自分の額の傷に止血パッドを当て、さらにその上からきつく包帯を結んだ。それから自分のガスマスクとマントを身につけ、フードを被って外に飛び出す。

 聞こえる銃声をたよりに、雨の中注意しながら少年は走った。

 逃げ出す人々の来た方向に進むと、簡単に銃声の原因にたどり着く。円形の人の壁の向こうで、見覚えのある人間が死を撒き散らしている。

「アンジィ! 駄目だ!」

 少年の悲痛な叫びは、雨音と悲鳴にかき消された。

 やがて彼女は動きをとめ、遠方を指差す。とりかこむ人々が道を開けて彼女はその間を進んでいく。ユリシーズは彼女にたどり着こうとしたが、分厚い人の壁は彼を阻む。

「待って! 行っちゃ駄目だ!」

 無数の人間と闇の向こうに、アングレカムの姿が消える。

 ユリシーズは人をむりやりかき分け、必死な形相で壁の向こうに飛び出した。と同時に、勢い余ってなにかに躓き、泥の中に倒れる。ユリシーズは、マスク越しにもむせかえるほどの異臭に、ふらつきながら立ち上がった。汚れたガラスを手で拭い、目の前の惨状に彼は目を見開いた。

 死体の海が生まれていた。粘度の高い黒い液体が少年の前に広がり、強い雨にうたれている。海には無数の人間が沈んでいて、なかにはまだ呻きながらのたうち回っているものもいた。少年はさっき自分が躓いたものを見た。男性の顎から上の破片だった。

「そんな……!」

 愕然として、足から力が抜けた。両膝をつくと、血と体液と雨がズボンに染み込んで、皮膚がヒリヒリとする。血がさぁっと頭から引いて、気が遠くなりそうだった。

「いや、まだだ、まだ間に合う……アンジィ!」

 叫び、少年は再び立ち上がって走り出した。死体を踏みつけ、泥を跳ね飛ばしながら走る。途中で肉片に足を滑らせ転びかけるも、堪えてなお走る。周りの人間が不審がり、猜疑と怒りの視線を向ける。少年はそんなもの、これっぽっちも気にならなかった。

 闇の向こう、大穴の前に、一度消えた彼女の背中が再び見えた。彼女は今にもその大穴に足を踏み入れそうだった。

 少年はマスクをかなぐり捨てた。

「アンジィーッ!!」

 アングレカムはハッとした表情で振り返った。その目がユリシーズを捉えると、彼女は急に怯えたように片手を上げた。

「来るなッ!」

 ユリシーズは土嚢の堤防の前で立ち止まる。アングレカムは彼から顔をそむけ、うつむいた。

「来るな……私を見るな……ッ!」

「いやだ!」

 少年は怒鳴った。その表情は、怒りにこわばっていた。

「ごめん、アングレカム! 僕が悪かった! 僕が弱かったから、キミにこんなことをさせてしまった!」

「違う、おまえは弱くない、弱いのは私だ。私には、おまえと並んで歩く資格がない」

 アングレカムは顔をあげて少年を見た。彼女は今にも泣き出しそうに目を潤ませていた。

「じゃあ――僕がキミを守る! キミを二度と鬼にはしない!」

「なに……?」

「アンジィ、僕は今まで戦っていなかった。この旅をはじめてから、さんざん奴を殺すだのなんだの口にしていながら、一度も傷つきもせず、一度も血を浴びたことがなかった……だけど、今は違う」

 ユリシーズはそうして堤防を乗り越え、アングレカムの突き出したままの手をとった。

「僕はやっと傷つくことができた。これでようやく、キミと並んで歩けるんだ」

「……ちがうぞ、ユーリィ。それは駄目だ」

 アングレカムは静かに首を振った。

「おまえはこっちに来ちゃいけない。おまえは血にまみれちゃいけない」

「じゃあ、どうしてアンジィは僕の奴への復讐を止めないんだ?」

 アングレカムは押し黙った。ユリシーズはますます強く手を握った。

「アングレカム、この世は地獄だ。この世のありとあらゆる事象は僕やキミを傷つけようといつも狙っている。生きている限りその渦からは逃れられない……だけど、その苦しみにひとりで耐える必要はないんだ! 僕も同じだ!」

 少年は手を離し、アングレカムに抱きついた。

「だから、お願いだ……もう、僕をひとりにしないでくれ……」

「……わかった、ユーリィ」

 女は彼の頭に手をやった。そして柔らかく微笑んだ。

「一緒に行こう。血の海も臓物の山も、鉄錆の大地も毒ガスの空も、ふたりで歩いていこう。私たちは、家族だからな」

 そう言ってアングレカムはユリシーズに笑いかけた。ユリシーズも彼女の笑顔を見て破顔した。

「あ……」

 アングレカムから離れたユリシーズは、自分の体についていた血が、彼女の体にもべっとりと移ってしまったことに気がついた。申し訳ない気持ちで見上げるユリシーズに、アングレカムはにやりと笑う。

「おそろいだな」

「……うん!」

 ユリシーズは赤面した。

「よく聞け! お前たち!」

 アングレカムは周囲の人間たちに向かって声をはりあげる。

「私たちは今からこの穴の中に入る! 追ってきたら殺す! 容赦なく殺す! 私たちの目的はスマイルだ! グランドコアを奪おうとか、破壊しようとか、そんなくだらないことじゃない! いいか、追ってくるな! 私たちが戻ってくるまで、放っておいてくれ! ちょっかいだしたら全員殺す! いいな!」

 踵をかえして、彼女はユリシーズの横を過ぎた。彼女は大穴の前で立ち止まり、肩越しにユリシーズを振り返る。

「行くぞ。スマイルとミンチメイカーはこの下だ」

「この下に……」

 ユリシーズは大穴を覗きこんだ。角度の大きな坂道になっている深い穴の底には漆黒の闇が溜まっている。少年はつばを呑み込んだ。

「持っていろ」

 アングレカムがユリシーズに拳銃を差し出す。受け取って、少年はぶるりと震えた。

「よし、行こう!」

「ああ!」

 ふたりは大穴を下っていった。

 残された人々は、降り続く雨の中、ただ死の海と共に立ち尽くしていた。

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