ユリシーズ、キレる。
夜の町は、まるで善悪の区別がない赤子の夢のようだった。建物の明かりに照らされて、酒瓶を片手に肩を組んで歌う荒くれ者たち。そんな彼らを相手に商売をする女たち。道のいたるところには昼間の戦いの死体が転がっていて、ときどきそれに蹴躓いた男が悪態をつきながら唾を吐きかける。その光景はおぞましく背徳的でありながら、どこか幻想的な雰囲気があった。人間の定義する善悪よりも純粋な、生き物としての営みが、死体の上に腰かけて食事をする恋人たちの姿から感じられる気がした。ユリシーズはそんなことを考えながら道を歩いている。
少年はすでに食料を売っている店を数軒回っていたが、どこも完売していた。銃を携えた店主が言うには、在庫も何もかもミンチメイカーたちに買い占められてしまったらしい。彼らは皮肉っぽく笑いながらも、迷惑料みたいなものだ、とミンチメイカーたちの行いに少なからず感謝しているらしかった。集まった荒くれ者たちが暴徒化しないのも、彼が精神的な支えになっているかららしかった。
ユリシーズは店主にこの町で一番大きな酒場の場所を教えてもらった。そこならまだ営業していると聞いたので、彼は急いだ。
酒場は目抜き通りに面していたのですぐ見つかった。ユリシーズはマントの内側で拳銃を触ってたしかめ、入り口を押し開いた。
中に入ったとたん、愉快で軽快な音楽とやかましい歌声、さらに猛烈な酒とたばこの煙に襲われた。薄い酸素にくらくらしながら、ユリシーズは白い空気と人ごみをかき分けて、なんとかカウンターにたどり着いた。
「あら、かわいいお客さんだ」
カウンターの向こうから声をかけてきたのは、グラマラスな体型の女性の店主だった。
「何にするんだい? ジュース? ミルク?」
「あの、ハンバーガーかなにかを――」
「おいおい、子供はお家に帰る時間だぜぇ?」
いきなり、ひげをたくわえた筋肉質な男がユリシーズの肩に腕をまわしてきた。少年は男のあまりの酒臭さについ顔をしかめる。男はその顔を見て、不愉快そうに眉をひそめた。
「なんだいシケたツラしやがってよぉ。酒がダメなら家でママのおっぱいでも吸ってな!」
「おやめよ、嫌がってるじゃないか」
店主がたしなめるが、それがかえって男のプライドに傷をつけたようだった。
「俺はなぁ、年上の酒にはつきあうべきっつー社会のルールをだなぁ! わざわざ親切に教えてやってんだ! 感謝してホシーくらいだぜ!」
「や、やめてください」
臭い息と唾を飛ばしながら喚き散らすので、ユリシーズはとうとう我慢できなかった。男が、すでに赤い顔をますます赤くした。
「なんだこのガキ!」
男がいきなりユリシーズの懐に手を突っ込んだ。ユリシーズがアッと気づいたときには、男の指にはアングレカムから預かった金貨袋が引っかかっていた。
「授業料だ、もらってくぜ」
「返してください! 大切なお金なんです!」
「オイオイ、ケンカは外でやんなさいよ」
店主は呆れた様子で顎をしゃくり、入り口を示した。
男は背が高く、金貨袋を高く掲げられると、背の低いユリシーズではジャンプしても届かない。目の前でぴょんぴょんと跳びはねる少年をいじわるく眺めて男は笑い、周囲の人間も面白がってはやし立てた。ユリシーズの指先が金貨袋を弾くとどこからか指笛が飛び、男がおどけた様子で脅えた真似をする。カウンターの前でその見世物はしばらく続いた。
やがてユリシーズの息があがって、彼は両膝に手をついて背中を丸めた。対する男に疲労した様子はない。
「おいおいどうした? あ? もう終わりか? んん?」
男がおかしな顔をしてユリシーズを煽る。周りの客たちは「あきらめるなー!」とか「あと少しだぞー!」だとかの無責任な激励をユリシーズに投げかけていたが、彼はもうすっかりくたびれてしまっていた。
「この――」
ユリシーズが小さく呟いた。男は片手を耳に添え、大げさなしぐさで顔をよせた。
「んん〜? なんだってぇボウヤ、よく聞こえないなぁ?」
直後、いきなりユリシーズが顔を上げた。
「――このド××××野郎!」
ユリシーズの不意打ちの蹴りが男の股間に直撃した。
「おぽッ!?」
男が奇声を発してその場に崩れる。手から離れた金貨袋が床に落ちる前に、ユリシーズは素早くそれをキャッチする。
歓声があがった!
「やるじゃねぇか、ボウズ!」
「モロに入った! アレはイテえぞぉっ!?」
周りから口々に賞賛の声が投げかけられる。ユリシーズは呼吸を整えながら、だんだん恥ずかしくなってきた。
「いや……その、あの僕……」
少年は顔を赤らめる。周りの客たちが次々と彼を席に誘うが、彼は申し訳なさそうに断りを入れて、金貨袋をカウンターに置いた。
「これで適当に、持って帰れるハンバーガーみたいなのをお願いします」
「はいよ。アンタ、見かけによらずやるねェ」
店主が赤い唇の端を吊り上げて微笑んだ。少年はさっきとは別の種類の気恥ずかしさを感じた。
「この……クソガキが……!」
怒りに歪んだ声がして、ユリシーズはそっちを見る。さっきの男が近くの椅子に手をついて、ふらふらと立ち上がろうとしているところだった。
「ここは紳士協定だろうが……! てめぇもツイてるくせに、なんてやつだ!」
「ご、ごめんなさい。ちょっとやりすぎたかも」
「ブッ殺す!」
激高した男が腰の銃に手を伸ばす。店内の明るい空気が一変――
「そこまでだ」
――する前に、横から伸びてきた腕に男の手が押さえられた。男は動きを止め、冷や汗を流しながら目だけで隣を見た。
「あ、アンタ……」
「子供相手に大人気ないぞ。彼も謝っている」
ミンチメイカーがそこに立っていた。男がおとなしくなったのを見て、ミンチメイカーは腕を離す。
「夕食ぐらい落ち着いて食え」
「わ、悪かったよ……すまねぇ」
男は引きつった笑いを浮かべながら自分の席へと戻っていった。ミンチメイカーはその背を見送り、ユリシーズに向き直った。
「君、怪我はないか」
「え、ええ……ありがとう、ございます……」
ユリシーズはあいまいにうなずいた。彼の頭の中で様々な感情がうずを巻いていた。充分予想できる遭遇であったのに、あまりに無警戒だった。ユリシーズは感情を上手く言葉にできず、思わずうつむいてしまった。
その様子を見たミンチメイカーは、ユリシーズに心配するような視線を向ける。彼は軽く息をつき、微笑みかけた。
「君、名前は?」
「え、あ……ユリシーズ・ヴィクトル・ハルトマンと申します」
「立派で男らしい名だ。ハルトマンくん、もしよかったら、少し話をしないか? さっきの金的、見事だった」
「……え?」
「予定があるか?」
「い、いえ、そんなことは!」
とっさに答えて、ユリシーズは自分も彼と話をしてみたかったのだと気がついた。ミンチメイカーはニッと笑った。
「私のテーブルはこっちだ」
ユリシーズは彼についていく。他の客たちの隙間をすり抜け歩いていくと、ふと、少年は奇妙な感覚にとらわれた。
周りは頭が痛くなるほど騒がしいはずなのに、それらの音が遠いところから聞こえるような気がする。大勢の人々の熱気がこもって蒸し暑いはずなのに、気温が一気に下がったように身震いした。全身の毛がざわざわと逆立ち、胃が縮んだ。彼はその理由を、案内されたテーブルを見て理解した。
「あら、お客様?」
綺麗に飾られたドレスを着た、赤いリボンの金髪の少女が、可愛らしく笑いかけながらユリシーズを迎えた。




