第三章 家出少女に叱責と強がりな誓いを 4
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現在の時刻は夜の十一時。――――田中七日は今、統南が働いている『焼き肉屋小波』の休憩室で美春が貸してくれた少女漫画を読みながら、店が終わるのを待っていた。
「…………」
美春が貸してくれた漫画の主人公である女の子はいつも友達や家族のために悩んで、そして最後には女の子のおかげで全部解決という都合がいい話で、……そして羨ましい話だった。だってその女の子の周りはいつも笑顔があった。
今こそ七日は統南や美春たちと一緒に居て笑う事が出来るが、家を出る前は姉の冬奈と接する時以外は上手く笑う事さえ出来なかった。
家族はみんな七日に無関心で、兄などはとても冷たい態度で接しられていた。それが辛くて、イライラして一ヶ月程前には小学校から仲が良かった友達に八つ当たりで酷い事を言って嫌われてしまい、その事が原因でクラスで孤立してしまった。学校でも家でも基本的に一人だった。
唯一の支えは冬奈だけだった。冬奈だけは何をしても、何を言っても優しくしてくれた。一緒に笑ってくれた。でもその支えさえも壊れてしまった。
冬奈が兄と一緒にベッドで抱き合っていた。その行為の意味は中学生の七日でも十分過ぎるくらい分かった。驚いた。気持ち悪かった。怒りが湧いた。怖かった。悲しかった。なぜだか完全に居場所が無くなったなと確信した。
気付いたら叫んでいた。叫びながら激昂し、兄や冬奈に酷い言葉をぶつけた。そしてそのまま家を出て行ってしまった。きっと自分は裏切られてしまったと思ったんだろう。冬奈だけにではない。兄にも両親にも、友達にも。自分はこんなにも苦しいのにどうして誰も助けてくれないのか。どうしてみんな自分の傍に居てくれないのかと。
みんな死んでしまえばいい。居なくなってしまえばいい。嫌いだ。みんな大嫌いだ。みんな苦しんでしまえばいい。
そんな汚い感情が浮かんで来て、その感情が消えはしなかった。七日はこの汚い感情を持つ自分が怖くなってしまった。嫌いになってしまった。
今だって一人になると汚い感情がふつふつと浮かんでくる。幸せそうにしている美春たちや統南にもその感情が向かってしまいそうで、恐ろしくて仕方が無い。
だから七日は統南や美春たちと一緒に居たかった。統南たちと居れば、まるで自分の心が浄化されて綺麗になって行くような気がしたから。
そう考えながらも気を紛らわすように漫画を読み続けていると、ノックの音が聞こえた。
「はーい」
七日が返事をすると、柔らかい女性の声だ。
「七日ちゃん入るわよー」
そう言って美春は休憩室の中に入って来る。
「どうこの漫画面白い?」
美春は部屋に来てすぐに貸してくれた漫画の感想を求めてきた。
「はい面白いです。なんか見てていいなぁっていうか羨ましくなりました」
「羨ましい?」
「ええ、羨ましいですよ。羨ましすぎてなんかこうジタバタしたいくらいですよ」
七日は素直な感想を言う。しかし妬ましいなどのマイナスの感情は出て来なかった。
きっと以前の自分ならどうしてこの漫画に出てくる主人公の女の子はみんなを助けてくれるのに自分は助けてくれないんだろうとくらいは思ったはずだが、今は大丈夫だ。
「……七日ちゃんは今、幸せ?」
唐突にそんな事を聞かれる。
「……。あたしはですね」
不幸か幸福かと問われたら七日は迷わずこう答えるだろう。
「幸せです」
その言葉に嘘偽りはない。
「だって美春さんは優しいし、義隆さんもいい人だし、風香ちゃんは可愛いです。……それに統南も居てくれるから」
七日は自分の『あがき』を止めてしまった人物である、片岡統南の名を呼ぶ。
「だからあたしは家に帰りたいとかそんな事思ってませんよ。だってあの人たちとはただ血を繋がっているだけで、もう『家族』じゃないんですから」
七日は美春に何も聞かれてもないのに饒舌に喋ってしまっていた。なんとなく漫画を貸してくれた美春が家に帰りたくないのかと訊ねてくると思ったから。
「…………。……本当に?」
そんな七日に美春は付き合うように静かにゆっくりと訊ねる。
「本当です」
「それで後悔なんかしない?」
「! 後悔なんてする訳……。する訳…………」
七日は即答しようとするが、返事さえする事が出来なかった。
「答えられないって事はまだ七日ちゃんは後悔しちゃうって事じゃないの?」
七日が答えないでいると、そのまま美春が七日に語りかける。
「……バカみたいね」
その声は嘲笑うみたいだった。
「私はあなたの事情なんか知らないわよ。でもね、私ならきっと家出するくらいならそんな事考えない。だってきっと七日ちゃんの家族ってそれはもう酷い人たちなんでしょ」
「っ!」
美春の言葉に七日は何かが切れかかる感覚に陥る。
「七日ちゃんだって本当は分かってるんでしょ? 事情を知らない私にだって分かるのよ。あなたの家族はあなたみたいな中学生が家を飛び出してしまう程、嫌で気持ち悪くて最低な人たちだって」
「……ん……ない」
七日は呟く。自分でも何を言ったのか分からない。美春も聞こえなかったのかそのまま喋り続ける。その表情は人をこれでもかという程憐れんでいる目だった。
「もう一度言うわ。あなたの家族は最低な人間なの。それは七日ちゃんが一番分かってる。だからこのままそんな家族の事忘れなさい。いっその事このままここに居座ればいいわ。私はあなたに協力するわ」
美春はまるで名案が浮かんだかのようにはしゃいだ声を出す。
「うんいいじゃないそれ。もちろんあなたの家族とこのまま関わらないでいるのは無理だけど、そんなものどうでもなるわ。中学でも卒業したらここで雇ってあげるわ。それに今の時代高校に行かなくとも大学には行けるんだし」
美春はまるで天使のようにも悪魔のようにも聞こえる声で七日を誘惑する。
「そうしましょう。そうすれば統南君とだってこのまま一緒に居られるし、楽でいいじゃない。あなたはもう苦しまなくいいの。そんな泣きそうな顔なんてしなくていいの」
美春に言われて七日は初めて気付く。自分が涙を浮かべている事に。
「七日ちゃんはきっと悪くなんかないわよ。悪いのは全部あなたの家族。――――もう家族の事なんて忘れなさい。そしたら全部が楽になる」
美春はそのまま肩に触れてくる。その仕草は女の七日でさえ、ドキリと動揺してしまうものだった。そんな仕草のまま美春の七日の頭を触れようとする。
「…………」
楽になれる。その言葉を聞いて七日は初めてその選択肢を見つける。そして同時に思う。いいんじゃないのか。もう全部誰かに任せてしまえば。あとは統南や美春に甘えたらなんとかしてくれる。自分にはその権利はある。だって自分は――
「あなたは子供だから。だから頑張る必要なんてない」
自分の思っていた事を美春は口にする。そして最後に安らかな声で言う。
「そう頑張らなくいい。それは全部無駄なあがきだから。何をしてもあなたの家族が良くなる事はないわ」
「…ざけ……な」
その言葉で七日の切れかかっていた何かは完全に切れてしまう。
「ふざけんなっ!」
気付いていたら怒鳴っていた。涙を零れないようにしながら。美春が撫でようとしていた手を叩き落としながら声を上げて怒鳴っていた。
「アンタに何が分かるのよ! 姉さんの事も兄さんの事も何も知らないくせに! アンタには分かる訳ないじゃない。あたしの父さんがどれだけ頑張ってきてくれたか! あたしがどれだけ母さんの事なんて好きか知らないくせに!」
七日はどうやら先程から美春の言葉に怒りが溜まってしまっているようだ。それが証拠に感情が湧き立つように口は考えがまとまるよりも先に動いていた。
「何が気持ち悪くて最低な人たちよ! そんなのアンタには言われたくないわよ。確かにあたしは母さんと父さんがケンカしているのを見ると悲しかったし、ムカついた。兄さんや姉さんの事だって思い出しただけで気持ち悪い」
でもと七日はそのまま続ける。
「あたしだって美春さんと一緒で何も知らないの。母さんと父さんがどんな理由であたしを見てこなかったのか、兄さんや姉さんがどんな理由で一緒に居たのかなんて知らない。だから……だからッ! 希望くらい持ってもいいじゃない!」
それがどんなに愚かだって分かっている。きっとそこには七日が思っているような優しい理由なんてない。でもだからってそれで全部家族が壊れたなんて思いたくない。そんなのは間違っている。七日はまだ覚えているのだから。家族みんなが笑っていたあの時を。まだ壊れているはずがないのだ。
そんなもの認めない。
「だって美春さん間違ってるもん! あたしがまだ頑張ればなんとかなるはずだもん! だから……だから……」
最後は不安で押しつぶされる形で涙が溢れ出す。
「だからもう……そんな事言わないで……よ」
なんとか声を出して泣くのを我慢するが、涙はポタポタと美春に借りた漫画に落ちていく。
七日が言った事は何も知らない子供がそれでも諦めたくなくて、ただ駄々をこねているだけなのだろう。それでも嫌なものは嫌なのだ。誰かに家族を悪くなんて言って欲しくないのだ。聞きたくなんてない。家族がどうしようもなく嫌いで、それでいて大好きだから。
不意に顔が柔らかいものに包まれる。
「そうだよね。ごめんね。よく言ったね。偉いね」
その柔らかいものとは美春のものだった。美春はまるで小さな子を褒めるかのように七日を抱きしめていた。美春の表情は抱きしめられている七日には分からない。
「美春さん……?」
先程とはまるで様子が違う美春に七日は疑問の声を上げるが、美春は七日を抱きしめるのを止めはしなかった。
「よく言ったね。本当に素直に言ってくれた。七日ちゃんがそう思ってくれるならきっと大丈夫。あたしが保障する。あなたの家族はまだやり直せる」
美春は言い切る。その声はどこまでも優しかった。
「あとはあなたが本当に信頼している人にそれをぶつけなさい。彼ならその想いに必ず答えてくれるから」
七日の耳元で美春は言う。すると突然休憩室のドアが開き、統南と義隆が立っていた。
「まあ美春の言う通りだ。七日ちゃんお前は偉い。でもよ、一つ間違ってる。今お前の前にある問題は七日ちゃんみたいな子供が一人でなんとか出来る程単純な問題じゃねえんだ。だから大人を頼れ。別に統南だけとは言わないぞ。俺や美春、それでも心細いならもっと頼りになる連中にだって俺が話をつけて、七日ちゃんの味方をしてやる」
突然入って来た義隆の言葉は堂々と何一つ迷いなど七日には感じさえしなかった。本当に自分の事を義隆も美春も考えてくれていた。まだ出会って大して時間も経っていないのに。統南と違って事情さえ知らないのに。どうしてこの人たちはこんなにまで優しいのか。こんなお人好しは統南だけだと思っていたのに。
「今の話聞いてたんですか……。それにお店は」
七日が疑問を声に出して言うと、美春は七日を抱きしめるのをゆっくりと止めて、離れながら答える。
「今日もうお終いにしたわ」
あっさりとあたり前のように美春は言った。
「七日ちゃんの事をなんとかしたかったしね。お店どころじゃないでしょ。だから今日はお店を早く閉めてたの。それでさっき七日ちゃんが今どう思ってるのか統南君に聞いてもらいたかったの。でもちょっと聞き方がイジワルだったわね。ごめんなさい」
美春は七日に頭を下げる。
「そ、そんな事は……。あたしだって美春さんにアンタだなんて失礼なこと言っちゃったし。全然いいです。っていうかさっきの話全部統南たちも全部聞いてたんですよね」
七日は美春を許しながら、義隆たちに聞く。
「ちょっくらデリカシーがないっちゃないけどな。悪かった。でもよ、その俺たち夫婦のデリカシーも糞もない行動のせいかは知らねえが、ちゃんとコイツには七日ちゃんの想い届いたみたいだぜ」
義隆は七日が今一番信頼している人物である統南を指差す。
「…………」
統南は義隆に言われても何も言わない。ただ黙って七日を見つめていた。その顔は怒っているようにも、悲しんでいるようにも、迷っているようにも見えた。
「……まああとは二人でなんとか話し合いな。俺たちはもう店の片付けも大体終わったし、帰るから戸締りよろしくな。どうするか決まったら教えてくれ」
それだけ言って、義隆と美春は統南に店の鍵を渡して、『焼き肉屋小波』を後にしていく。
そして店の中は統南と二人だけの空間になる。




