4-20 悪魔公女 ③(済)
『さぁギアス……ここなら邪魔は入らないよ。望みを言うといい。今なら特別にその魂だけで、彼女が幸せになった時代に送ってやろう』
亜空間の奥深く……。様々な次元と接触するための【扉】を創る【研究室】にて、悪魔ヒライネスはギアスの耳元に囁きかける。
異界に渡れるほどの強い魂は滅多にお目に掛かれるものではなく、百年以上その魂を熟成させてきたが、そろそろ収穫の時期だ。
最後の仕上げにじっくりと……悪魔は魂を痛めつけるようにギアスの心を折る。
『彼女を奪え。お前の力なら簡単だ。他の男のモノになっていても、すでに子を作っていたとしても、全て殺して奪えばいい』
「……そんな、……彼女の」
『いいのかな……? お前以外が彼女を幸せに出来るのか? お前以外が幸せにしても良いのか? お前の居るべき場所を奪われたままで良いのか?』
「………あぁ…」
残酷なまでの“悪魔の囁き”が心を浸食し、ギアスは顔を手で覆い涙を流す。
その様子に、悪魔達の顔に愉悦の表情が浮かぶ。
『何を悩むことがある? お前は好きにすれば良いのだ。奪われた場所を取り戻せ』
「そんなこと……できないっ」
『ならば、今の状況を見せてやろう。これが現実だ』
亜空間の闇に、以前ギアスが見せられた異世界の光景が映し出される。
『見ろ。……今ちょうど、知らない男が指輪を取り出したぞ。お前の妻だった女の顔を良く見てみろ』
「もう吹っ切れて、未来に生きる顔になってるわ」
『そうだ。お前はもう過去の存在になっている。お前はそれでいいのか……? お前のことを本当に待っていたと信じられるのか?』
「女心と秋の空……あなたなら知っているでしょ?」
『そうだ。女の心なんて……』
「………」
「………」
『……はぁっ!?』
いつの間にか隣で、一緒にギアスの心を苛んでいた金髪の少女に、ヒライネスは慌てて飛び下がり距離を取る。
『お、お前っ、どうやってここまで来たっ!?』
「あら、お邪魔しておりますわ、ひら…ひ、……ヒヤシンスさん」
『誰だそれはっ!』
亜空間を震わせるようなヒライネスの怒声に、好みでない人物の名を覚えるのが苦手なユールシアは少しだけ困った顔で眉尻を下げ、真っ黒な扇子で口元を隠す。
「お猿さんでしたわね。ところで息が臭いですよ……ここまで漂ってきますわ。胃が悪いのではありませんの?」
『……………貴様っ』
もしストレスで胃が悪くなったとしたら、確実にお前のせいだと言いたいヒライネスだったが、それを言えばこの奇妙な悪魔のペースに嵌りそうな予感がする。
その直感が正しいと示すように、その【存在】に気付いた瞬間から奇妙な空気が生まれ、ヒライネスは目眩を起こしたような気分になった。
そもそも、ここまでどうやって来たのか?
ヒライネス以外、あの門を通り抜けられるのは“罪を犯した者”か“悪意を持つ”人間だけで、他の悪魔や精霊が通り抜けようとすれば、かなりの時間と魔力を消費することになるだろう。
それは次元を渡る悪魔である【魔神】でさえ例外ではない。
ならば……目の前にいるこの【悪魔】は何者なのだ……?
『……こんな処まで独りで来るとは……。お若い【魔神】よ、自分の力を過信しすぎではないのか?』
とりあえず詮索は後で良い。
先ほどヒライネスが撤退したのは、【魔獣】リンネの存在があったからだ。
魔界で高位悪魔同士の争いが滅多に起きないのは、例え相手を滅ぼしても、自分の力が減退していればその隙を突かれ、他の悪魔に滅ぼされると分かっていたからだ。
その唯一の例外が、自分が滅びることさえ恐れず牙を剥く【暗い獣】で、ヒライネスもアレとだけは戦おうと思わなかった。
その【魔獣】でも、ここに辿り着くまで数ヶ月は掛かるはず。
「私一人ならどうとでもなる……と?」
『そう言っているのだよ、ユールシア』
じわり……と、二柱の高位悪魔から漏れる【気配】に、ギアスの魂が萎縮して身体が痙攣を始めた。
「おっと……お待ちなさい。あなたに良いことを教えてあげましょう」
『……今更臆したか』
「まぁまぁ、人間の魂に“仕上げ”をしたいなら、こんな方法もありますのよ」
『………』
悪魔達は気配を収め、ユールシアはふわりとした笑顔でギアスに言葉をかける。
「ギアスさん? 長い時間、頑張ってきたんですね。……50年以上も」
「………え?」
50年。その言葉に違和感を感じてギアスは顔を上げた。
ギアスは今まで100年以上魂を集めていた。それをこの少女は何を言っているのだろうか。
「あの光景……少し知っていますわ。夢かと思ってたんですけど……。あの光景は私が知っている時代より最低でも4~50年は過去の物です」
「え…な、……なにを」
「不思議に思って少しあなたを“視させて”いただきました。ひょっとして、時の流れを誤魔化されていたのではありませんか?」
「……なっ」
ギアスが三歳の頃に見せられた光景は、“現実”の時間の出来事だった。
ヒライネスはそれを“未来”の話としてギアスを騙し、ギアスが限界になる時に、彼女が他の男と幸せの絶頂になるように、ギアス個人の時間を歪めて調整していた。
「思っていたよりもあなたが頑張ったおかげで、50年も掛かりましたけど」
ユールシアがちらりと視線を向けると、ヒライネスは忌々しげに顔を歪める。
ヒライネスの計画ではおよそ30年。ギアスの時間で60年以上過ぎて、“老人”となった彼に、夫や子に囲まれる“妻”を見せて心を折るつもりだったのだろう。
それをギアスが50年……体感時間で100年も踏ん張った。
「悪魔と言っても、未来を予見したり、世界の時間を操るなんて出来ませんよ? あなたが最初に見せられたのは現実の出来事……。それから何年経ちました?」
「…………ぁ…ああ、ああああああああああああああああああああああああっ」
ギアスは現実を……“真実”を知って泣きながら崩れ落ちた。
22歳から50年以上経てば生きているかも分からない。
ギアスの魂が絶望に彩り染まる……。
騙された者の心を折るのに、“真実”を告げる以上の言葉はない。
そして……そんなギアスにユールシアは、小さな箱を手渡しながら微笑みかける。
「ギアスさん、望みを言いなさい。私と【契約】をしましょう」
『貴様っ! 何を言うかっ!』
獲物を横からかっ攫うようなユールシアの言葉に、ヒライネスは激高して詰め寄ろうとした。……だが。
『な、なんだ、これは……っ!?』
二人に近づいた瞬間、ヒライネスは時間がずれたように、彼らの姿がダブって見えることに気付いた。
『ユールシアぁあああああああああああああああああああああっ!!!』
人間の心を理解し、甘言を弄することで【魔神】は魂を集める。
ただ殺して集めた魂と、【契約】によって得られた魂とでは格段の差があった。
その為にユールシアは罠を仕掛けた。
会話の中に【神霊語】を含ませ、
『時の流れを誤魔化す』
『悪魔は未来を予見したり世界の時間を操ることは出来ない』
と、その言葉を【神霊魔法】としてヒライネスの“視える”時間を数十秒遅らせた。
そして、そのわずかな間に全ては終わろうとしていた。
「……殺して……くれ」
「はい。ご契約ありがとうございましたーっ」
ボン…ッ。
『ああああああああああっ』
ヒライネスの目の前で、ユールシアはギアスの身体を一瞬で砕き、消滅させた。
「ふふ…」
ユールシアの手にあるのは、真っ黒な絶望に染まったギアスの魂。
ヒライネスの目には、その魂の罪と絶望が【契約】の鎖と化して、ユールシアに縛られているのが見て取れた。
『……やってくれたな。ユールシア……っ!』
「ギアスさんの望みを叶えられなかった時点で、あなたとの契約は消滅していたのよ。まぁ……自分でもここまで出来るとは思わなかったわ。結構必死だったんだから」
よほど無茶をしたのか、ユールシアは軽く息を吐いて汗を拭うような仕草をする。
生まれたばかりの【魔神】が、数千年生きた【悪魔公】を騙そうとしたのだから当たり前だが、そもそもどうしてこんな事が出来たのか。
悪魔は世界の時間を操れないと言っておきながら、局地的とは言え時間を誤魔化した存在とは何なのか。
「なんか魔神と呼ばれるようになってから、力の使い方とか、妙な知識が流れ込んでる気がするのよねぇ……。これって常識?」
『…………』
確かにそう呼ばれるようになれば、悪魔としての【格】が上がり、新たな【力】を得ることは出来る。
だが目の前の【魔神】はあまりにも非常識だった。
それはともかく。
『……その魂を私が得るには、お前を滅ぼすしかないな』
「……それはどうかしら?」
ユールシアは軽くそう言って、あれほど苦労して手に入れたギアスの魂を、あまりにも簡単にどこかへ放り投げた。
『なっ、おいっ!』
ギアスの魂は実験中の【時空間】の扉へと落ちて、悪魔達の手の届かないところへ消えてしまう。
『何のつもりだっ!』
ヒライネスの怒りが亜空間を震わせても、ユールシアのふわりとした笑みは変わらない。
ヒライネスは、この【悪魔】が何がしたいのか分からなかった。
このあまりにも“異質”な【悪魔】は……。
『お前のような【魔神】がいるものか……。だが【魔獣】ではない。【悪魔公】でもあり得ない。……お前は一体“何者”だ……っ!?』
二柱の高位悪魔から【敵意】と【害意】が溢れ、亜空間に亀裂が走り、次元が悲鳴を上げる。
ヒライネスの問いかけに、少しだけ首を傾げたユールシアが小さく微笑む。
「私は悪魔。魔神にして、人の世界に生きる公女……。あなた達古い悪魔は、私のことを何と呼ぶのかしら」
その言葉にヒライネスは息を飲む。古い古い、始まりの時、【悪魔公】【魔獣】そして【魔神】と、彼らを呼ぶ【称号】は誰かが適当に決めたモノではない。
その存在が、あるべくしてそう成った時、古い悪魔達はその存在の意味を、心に浮かび上がる【言葉】として理解した。
目前の金色の悪魔を目にして、ヒライネスは数千数万年ぶりに現れた新しい悪魔の、心に浮かぶその存在の名を口にした。
「……【 悪魔公女 】……」
それを受け、金色の悪魔の可憐な笑みが、凄惨な【悪魔】の笑みへと変わる。
二柱の高位悪魔はそれから言葉を交わすことなく戦いを始め、亜空間を破壊するような衝撃は、数ヶ月間止むことはなかった。
次回ラスト、ほのぼの回予定。
まだ救いは…あるはず!





