4-03 四年生になりました ③(済)
「どうなっているの……」
魔物の森に設営された巨大な天幕で、黒姫キリアンは焦燥感に駆られながら黒い爪を噛む。
半年前、魔王の宣言を受けて魔王軍の全てがその準備を始めた。
一部の者はこの無謀な作戦に異議を唱えたが、ほとんどの者は【魔獣】の恐怖に耐えかね、嬉々として戦の準備をすると、魔王領から逃げ出すように飛び出していった。
魔王軍は“軍”と称していても、その実態は暴れ回るだけの魔物の群れに近い。
さすがに三国の主力軍は王が主体となり一群となって出立したが、それが出来たのは宣戦布告から三ヶ月が過ぎた年明けで、その他の者達は各地の領主や族長が頭となり、数百人から数千人に別れて我先にと人間国家へと向かった。
だが、一ヶ月ほどで“魔物の森”を抜け、先行部隊が人間国家と接触すると思われた頃になっても、どこからも戦果が届くことはなかった。
会戦の報告さえ届くことはなく、先行部隊のいずれも行方知れずとなり、わずかな戦闘跡は見つかったが、数十名の死体が見つかっただけで、約20万の先行部隊のことごとくが何処かへと消えてしまった。
元々自我が強く気まぐれな者が多い魔族だったので、どの魔族もそれを深刻に受け止めてはいなかった。せいぜい獲物を先に取られずに済んだと笑ったくらいだ。
魔物の森を熟知している魔物の王――黒姫キリアンはいち早く本隊を進め、本陣を築いて侵攻を始めた。……が、先行させたどの部隊からも戦果の報告はなく、魔物の森は何かに怯えるように静まりかえっていた。
「……まさか、勇者が来ているの?」
魔族にも伝承が残る、魔物の天敵。人間側の殺戮者。
だが真の勇者は【光の加護】を受けた者だけで、その勇者も、国家を壊滅させるほどの【邪悪】が、人間社会に現れなければ出現しないはずだ。
「………何が起きている?」
キリアンの苛立ちを現すように、黒い蛇の下半身がうねり、わざわざ魔王領から持ってきた調度品を粉砕し、侍女達が怯えたように身を竦めた。
「次は妾も出る……皆にそう伝えよっ!」
「は、はいっ」
黒姫キリアンの軍は、魔物の血が濃い魔族が17万。知恵のある魔物が12万。それらが駆る騎獣が15万の総勢44万の軍勢だ。
それらが黒姫の号令により一群となって進軍する。
森の道さえ通らず、森の起伏を物ともせず、森を飲み込むように進む様子はまるで黒い津波のようにさえ見えた。
本来ならキリアンも、このような焦りの見える行動を取りはしない。
彼女本来の戦闘スタイルは、罠を張り巡らせ、獲物が掛かるのをじっくりと酒を飲みながら待つタイプのものだ。
だが敵の正体が知れないことよりも、深刻な問題が迫っていた。
魔王領から侵攻を始めて数ヶ月……。持ってきた食料は尽きかけており、途中で動物や下級の魔物を狩って喰らいもしたが、これ以上の停滞は魔物同士の共食いにまでなりかねない。
「皆の者、駆け抜けろっ、人間共の住処に着くまで止まることは、妾が許さんっ!」
四つ首の大蛇が引く屋根のない獣車に乗り、黒姫キリアンはいつしか軍勢の先頭を駆けていた。
「……っ!?」
突然おぞましい悪寒を感じ、四つ首の大蛇が動きを停めた。
感じたのは一瞬だけのわずかな間であったが、ほとんどの将兵は感じた“それ”を何か理解できず、知恵のない魔物や騎獣達は本能でその正体を察して、全軍が号令もなく歩みを停めてしまった。
乗り手達が騒ぎ出すが騎獣や魔物は動かない。
その中で、黒姫キリアンはそれが高範囲の【威圧】だと気付き、背中に冷や汗が流れるのを感じながら暗い森の奥を睨み付けた。
「何者だ……姿を見せいっ!!」
魔物の王としての矜持か、キリアンは響くような声を上げ、自身の【威圧】を森の奥へと叩きつける。
「………、」
背後にいる配下達さえ静まる【威圧】を軽く受け流されたと感じて、キリアンが歯を剥き出しにして殺気を放つ。
これ程の威圧を受けたのも、自分の威圧を受け流されたのも、今まで【魔王】以外には誰も居なかった。
この先にいるのは何者なのか? 魔王ヘブラード程の者がそうそう居るとは思えないが、もし居るとするのなら【勇者】や【聖女】級の相手だと警戒を強くする。
撒き散らされる黒姫の殺気に、何頭かの騎獣が泡を吹いて倒れ始めた時、……森の奥から小柄な人影が闇を切り取るように現れた。
金の巻き髪をふわりと靡かせた、まだ幼いとも言える美しい少女。
人間の貴族に仕えるような上等なメイド服を身に纏い、両手を腰の前で合わせ、静々と歩くその姿は、貴族の子女か王族に仕える侍女のようにも見えた。
恐ろしく場違いに見えたが、その感情を映さぬ鉄面皮と凍えるような瞳が、少女がただの人間ではないと雄弁に物語る。
「……何者だ?」
殺気を収めることなく、王としての威厳を込めたキリアンの声に、その少女は臆することもなくスカートの裾を摘み、わずかに腰を下げる。
「わたくしは、高貴な【姫】様にお仕えする従者の一人、【ゴルゴン】のティナと申します」
その不遜とも言えるその言葉に、キリアンを慕う者達から怒気と殺気が迸る。
数十万の軍勢を前にして顔色一つ変えず、それどころか【黒姫】を前にして、自分をそれ以上の【姫】に仕える者だと言い放つその行為に、この場にいる全ての者が驚愕して正気さえ疑った。
「……ゴルゴン? 聞いたことのない言葉だの……。それがそなたの役職か?」
初めて聞く未知の言葉に、キリアンはこの油断できぬ敵の情報を集めるべく、殺気に塗れた他愛のない会話を続けた。
「単なる“種族”名ですわ」
「……ほほぉ。まるでそなたが“人間”ではないような言いぐさだの」
キリアンの言葉にティナは答えず、ただ上品な笑みを返したが、その人間味が欠如した、人の皮を被った化け物が無理矢理浮かべたような不気味な笑みに、キリアンは重い鉛でも飲み込んだような気分になった。
見た目も感じる圧力も、本当にただの人間に見える、不気味なまでに美しい少女。
人間に見えるような魔族も存在するが、それとはまた異質な存在に思えた。
先ほどの【威圧】の件もある。この小さな少女があれ程の威圧を放てるのか……? 少女の背後に大群が控え、そこに【姫】とやらがいて、大群と共に威圧をしてきたと考える方がまだ納得できた。
だが、それは無い。
あれほどの威圧を感じさせるほどの軍勢が控えているとしたら、その存在を感知できないはずがない。
もし……戦の先触れのように現れたこの少女が、本当にこの場に一人で現れたのだとしたら……。
単体であの威圧が出来るような本物の【化け物】だとしたら……?
あり得ない。そう思い、キリアンは不遜な小娘とこれ以上会話をする気もなくして、少女を見下ろしつつ一言呟く。
「……殺せ」
その声に、キリアンの背後にいた数名の兵士が無言で飛び出した。
狼男、両腕を翼にした女、一つ目の巨人、鱗の肌に角を生やした男。獣人とは違う魔物と呼ばれる者達が、主を虚仮にした少女に一斉に襲いかかった。
ガゴン……ッ。
「……っ!」
キリアンは驚愕し、思わず息を呑む。
長年仕えてくれた親衛隊の猛者四人が、一瞬で【石像】になってその勢いのまま大地を転がっていった。
石化は珍しくはあるが初めて見るモノではない。
一部の魔物が“病気”として対象者の血肉や魔力を硬化させて、石化したように見せかける場合もあるし、魔術で体内の不純物を核に結晶化させたり、周囲の石成分を表面に付着させて石のように固めてしまうモノもある。
ただ、そのどれも一瞬で行うのは無理があり、あらかじめ逃げられない状況で罠として使用したり拷問に使うのが一般的で、それは対象を殺さない為にある。
だが……
親衛隊の四名から“生命”が感じられなかった。あの一瞬で殺された。
「……あいつを殺せぇえええええええええええええええええええええええっ!」
キリアンが力の限り叫ぶ。
他者が石化を解除するには、神聖魔法による儀式を行うか、術者を殺すしかない。
それも命を失う数時間以内に行う必要があり、完全に死んだ状態ではどうしようもないのだが、それでもキリアンはそう叫ばずにはいられなかった。
これがヘブラードやギアスなら、もう少し落ち着いて対応が出来たのだろうが、罠に掛けるのを好み、常に必勝を期してきたキリアンは耐えられなかった。
未知の魔法……未知の存在……無知が何より恐ろしい。
「それでは、駆除を始めます」
冷淡なその声は、真横から聞こえた。
「っ!?」
キリアンは一瞬で飛び退き巨大な蛇の尾を振るう。かつてゾウさえも弾き飛ばしたその一撃が、ティナの小さな手で容易く受け止められ、手刀で半分に切断された。
「ぎゃぁあああああああああああああああああああああああっ!」
黒姫の悲鳴が響くと、唖然としていた将兵達が一斉にティナを襲う。
「………」
ティナは手に残った5メートル程の蛇の尾を見つめて、それを森の奥へと投げ飛ばすと、周囲に攻め寄せた数百人の魔族達を“金色の蛇”で引き裂いた。
むせ返るような血煙と断末魔の中、金の巻き髪を無数の蛇へと変えて、まるで悪魔のような笑みを浮かべるティナの姿に、兵士達の顔が恐怖に引きつる。
ティナはその中に、尾を千切られた黒姫の姿を見つけて……
『キキャキャキィキャキィキャキャキィキャキィキャキャキャキィキャッ』
耳を塞ぎたくなる、金属をこすり合わせるような歪な笑い声を響かせ、キリアンに近づいていく。
「来るな、来るなぁああああああああああっ!!」
将兵達がキリアンを護ろうと押し寄せるが、キリアンとの距離が近すぎて魔法を使うことも出来ず、近づけば金の蛇に引き裂かれ、下がれば紅い視線で石化され、怒り叫ぶ者、怯え逃げ惑う者、混乱し泣き喚く者が入り乱れて、戦場は混沌と化した。
黄金の【魔神】に創造されし【大悪魔】である【ゴルゴン】。
ティナは、攻撃力ではノアに劣り、護りではニアに劣り、精神攻撃や多彩さではファニーに劣る。
だが、総合的な戦闘能力では他の三者に勝り、特に物質界での戦闘では、魔界に存在する全ての大悪魔の中でも比類無き力を持っていた。
だが、そんなティナでも数十万の軍勢は手に余る。
わざと敵を挑発して、敵の大将を殺さず、苛みいたぶりながら戦場を混乱させていたが、時間が経ち冷静さを取り戻せば、数の暴力は脅威になり得る。
「頃合いですね……」
これ以上遅れると、主の夕食に間に合わなくなる。
ティナは懐から小さな金色の鍵を取り出すと、虚空へと突き刺した。
「開け……【失楽園】」
その瞬間……戦場は【黒】に包まれた。
夜ではない。闇ではない。陽の光が差していた“魔物の森”は、一瞬で黒く染まった何も無い空間に替わり……
その現象に40万の将兵が、隣にいる誰かに恐怖した。
吸血鬼を依り代にした新種の上級悪魔……その数、五百余体。
人間に近い体躯を持ち、歪な鎧を纏い、魔剣と思しき黒い剣を持つ悪魔の特殊個体。
上級悪魔達は主よりもたらされた大量の“餌”に歓喜の叫びを上げる。
『せめてタンパク質が欲しい。ワカメはもう嫌だ』……と。
***
その日の夕食……私はティナが取ってきてくれた食材の“蒲焼き”を食べながら、横で給仕をしているファニーに尋ねた。
「ずいぶん美味しいけど、……これ、何のお肉?」
「ヘビだって。脂がのってて美味しそうだから、狩ってきたって言ってたよー」
「ふ~ん、ヘビって美味しいのね」
ところで魔王軍って、いつやってくるのかしら……?
そろそろ聖女巡業に出掛けようかな。





