2-12 夜の子供達 ②(済)
この話には、とても残酷で悪魔的な表現が含まれております。
辺りが何も見えない【黒】で覆われた瞬間、ファンティーヌは小さな手に手を握られて、あの恐ろしい場所から逃げ出すことが出来た。
「……ク、クリス…ちゃん?」
自分の手を引いてくれたのがクリスティナかと思い呼びかけてみるが、誰も応えてはくれない。
そこは虫の音さえ聞こえない暗い森。
少し離れたところに、あの化け物達が住まう館が見えたが、今ここには自分以外誰も居らず、ファンティーヌは不安になって辺りを見回した。
「………」
ファンティーヌはここに置かれた自分を助けてくれたとは思わず、その人物が、どうして自分を放っておくのか分からず不満を感じた。
何故、子供である自分をこんな場所に放置するのか? 吸血鬼と呼ばれる化け物は怖い。でもこの暗い森も怖い。怖いのは嫌だから逃げたい。あのユールシアも逃げろと言っていた。逃げ切れたら許してやると言って。
でも……
「……何を許すの?」
ファンティーヌには、それが理解できなかった。
ファンティーヌは貴族の生まれだが、それを“誇り”に感じたことはなく、仮に平民として暮らしても気にもしないだろう。
彼女にとってそれは当たり前のことだ。
ファンティーヌは、この世にある全ての物は自分の物だと思っているのだから。
彼女は自分と他人との【境界】が希薄で、自分の物が無くなっても気にはしないが、他人から奪うことも気にしない。
だから他人の大事な物が、その人にとってどれほど大切か理解できず、小動物の命さえ遊ぶように奪えた。
そんなファンティーヌでも食べなければ飢えて死ぬことは分かる。死ぬのは怖い。
子供だから守られるのが当然で、守ってくれなくなった親はもういらない。その次に守ってくれるはずの公爵家からの庇護が弱くなり、次に守って貰うはずだった、双子やクリスティナもあの怯えようでは、自分を守ってくれるとは思えなかった。
だからその次は。
「お嬢様が守ってくれるから」
あの恐ろしい化け物に対しても怯えたりせず、笑顔すら浮かべていたあの“お嬢様”がいる。彼女は自分の“主人”なのだから、自分を守るのは当たり前だ。
そんな結論に至ったファンティーヌは、森を逃げるのではなく、ユールシアがまだ居るはずの吸血鬼の館に向けて歩き出した。
いつの間にか恐怖は薄まっていた。よく考えて、他人との境が希薄なファンティーヌはこう思った。
(私の命は、みんなの大切だから、私が怖がることはないんだよ)
ファンティーヌが唯一大事な自分の命なのだから、他の者も大切にしてくれると疑いもなく思った。
大胆にも正門から屋敷に戻り、それが逆に吸血鬼に見つからずに済んだ。
その途中に、庭に残されたワゴンから菓子をつかみ取り、ボリボリと食べながら庭を歩いていると、誰かが自分の後を付いてきているのに気付いた。
「……?」
近づいてくる細かな息づかい。人じゃない“それ”が、暗闇の中から冷気と共に現れるとファンティーヌは息を呑む。
冷気を纏う黒い犬。吸血鬼の使い魔、デスハウンド。
「ひぃやぁ!?」
一瞬で恐怖に歪んだ顔になり、ファンティーヌは逃げる為に走り出す。
二匹……三匹と、闇の中からデスハウンドが現れて、ひ弱な獲物をいたぶるように絡み始めた。
「な、なんでっ!?」
どうして自分を襲うのか理解できない。どうして誰も助けてくれないのか理解できない。その絶望するような恐怖の中でファンティーヌは主人である少女に向けて、闇の中で叫ぶ。
「た、たすけろぉ――――っ!」
それに応える者はなく、くぐもった悲鳴と何かを引き裂く音だけが、ただ夜に流れていった。
*
「信じられない……信じられない……信じられない……」
ニネットは館の裏門に近い塀の影でしゃがみ込み、剣を構えながらガチガチと歯を鳴らして震えていた。
剣の柄を指先が白くなるまで握りしめ、ニネットはブツブツと呪うように声を漏らし続ける。
「信じられない……」
あんな化け物が居ることも、化け物が貴族に化けていたことも、そんな茶会に参加させられたことも、その化け物をお嬢様が挑発したことも、お嬢様が楽しそうに嗤っていたことも、そのせいで自分の命が危ないことも、全てが信じられなかった。
「嫌だ……」
死にたくない。生きて帰って“楽”に生きたい。
ニネットは面倒なことが嫌いだった。双子の兄は楽をする為に他人にへりくだる事も厭わないが、ニネットはそれすらも嫌だった。
細かな心遣いが必要な侍女なんて嫌だ。騎士になっても剣の鍛錬なんて嫌だ。兄の企てに付き合わされるのも嫌だ。他人にへりくだるのも嫌だ。働くのも嫌だ。
ただ楽に生きたい。
強い剣があればそれだけで他人は自分を認め、公爵令嬢を襲う敵もあの護衛騎士達が片付けてくれる。そして自分は大人になったら護衛騎士の隊長になり、部下に警護を任せて楽に生きるのだ。
そう言う意味では、ニネットは四人の中では比較的“マシ”だった。
曲がりなりにも将来の自分を描けていたのだから。
それが何故、こんな所で死にかけているのか、ニネットは信じられなかった。
「お嬢様の……せいだ」
剣を餌にニネットを釣り、危険な場所に連れてきた。
早く逃げたい。
あのお嬢様もそう言っていたが、ニネットは逃げなかった。今まで全てを親に頼り、兄に頼り、全ての思考を放棄して“楽”に生きてきた為に、一人きりでは“逃げ方”すらも分からなかった。
「ひぃ…っ」
暗い森の奥から静かな足音が聞こえてくる。
とても普通には聞こえないような小さな足音だったが、ニネットが気付けたのは、それが細波のように聞こえるほど大量の足音が聞こえ、辺りを埋め尽くすほどの、人の姿をした“化け物”がすぐ側まで迫っていたからだった。
「………、」
口の中が乾いて呼吸することすらつらい。
平民の服を着た“出来損ない”と呼ばれる化け物が千体以上……。その中の一部が隠れていたニネットに気付いて獣のような笑みを浮かべた。
手には魔力を使う強い剣があるが、まだ子供で、遊びでしか剣を振るったことのないニネットが化け物一匹すら倒せるとは思えない。
ニネットは理解する。
自分は死ぬ。あの化け物達に嬲られ、引き裂かれ、生きたまま臓腑を喰われるのだ。
「……呪ってやる…」
最後に涙を流しながら、親を呪い、兄を呪い、仲間を呪い、自分を巻き込んだユールシアを呪い、震える剣先を自分の喉に当てた。
もう……ニネットが“楽”になるには、この方法しかないのだから。
*
巨大な礼拝堂。オーベル伯爵家の敷地にあるこの場所は、化け物達が住まう場所にそぐわぬ、清廉であり燦爛たる装飾が施されていた。
「…………、」
庭園の片隅まで“誰か”に連れてこられたクリスティナは、木の影で隠れていたところを執事に見つかり、この場所まで連行された。
手荒な扱いはまだ受けていない。礼拝堂の祭壇の前にただ捨て置かれたが、周りを無表情な侍女や執事に囲まれ、ただ無言で見つめられているだけなのに、クリスティナは恐怖で気が狂いそうな思いを味わっていた。
キィ……。
静寂の中で礼拝堂の扉が微かな音で開く。
「……っ!」
そして現れた者達を見て、クリスティナは絶望に目を見開いた。
人とは思えないほど美しい伯爵夫人が数名の従者を引き連れ、その腕の中に人形を抱くように、恐怖で虚ろな目をしたノアトスを連れていた。
ノアトスに何があったのか……? おそらくクリスティナと同様に隠れていたところを捕まったのだろう。
公爵家で用意された高価な執事服はあちこちが破られ、そこから覗く少年の白い肌に無数の“歯形”が残されていた。
彼の表情を見るに、飢えではなく“遊び”で血を吸われたのだろう。
恐怖に引きつるクリスティナに見せつけるように、伯爵夫人はノアトスの頬を舐めてから牙を浅く突き立て、頬から溢れる鮮血をまた真っ赤な舌で舐め取った。
血を舐められる度に震えるノアトスに、クリスティナも思わず憐れみの視線を向けてしまう。
だが、そのノアトスの虚ろな瞳がクリスティナを映すと、わずかだがその瞳に精気が戻り、少年は嫌らしい笑みを浮かべた。
「あ、あいつの血を吸ってくださいっ、僕なんかよりよっぽど美味しいですよっ」
その仲間どころか人間の尊厳すら売り渡す言葉に、クリスティナは驚愕し、伯爵夫人は愉悦の笑みを浮かべた。
「ほほほっ、あの聖女殿には驚かされましたが、あなた達はほんに可愛らしいわぁ」
伯爵夫人の興味はその瞬間にノアトスから離れ、仲間に裏切られたクリスティナに移っていった。
「そ、そうだ、僕を仲間にしてください、奥様っ! そうすればあんな聖女の名を騙る女は、僕が血を吸っ、ぐぎゃああああああああっ!?」
言いかけたノアトスの肩に、伯爵夫人が牙を立て、血を吸うのではなく骨をゆっくりと噛み砕く。
「馬鹿な子供は嫌いよ?」
激痛と恐怖で声も出せないノアトスに、伯爵夫人は獣の貌で優しく微笑んだ。
「あいつが……」
ボソリと呟いたクリスティナに、伯爵夫人が視線を向ける。
クリスティナは震えていた。でもそれは、恐怖よりもユールシアへの怒りで涙を流しながら震えていた。
「あいつがいるから、こんな事になるんだっ。ただの妾の子供のくせにっ。アタリーヌ様やオレリーヌ様が遠くに追いやられてっ。あんな奴がいるからっ!」
今は亡き公爵家第一夫人とクリスティナの母親は懇意にしており、母はアルベティーヌを崇拝し、娘であるクリスティナをアタリーヌ達への“貢ぎ物”と考えていた。
良い噂を聞かないアタリーヌ達も自分を慕う者には寛容で、その美しさと強い貴族としての威厳にクリスティナは憧れ、彼女達に仕える日を心待ちにしていた。
それがアルベティーヌの死と共に全てが狂い、アタリーヌ達が受けるはずだった恩恵全てを奪い取ったユールシアに仕える羽目になってしまった。
クリスティナも最初から顔も知らなかったユールシアが憎かった訳ではない。
だが公爵や母親や屋敷の全員から無条件に愛されるユールシアを見て、明るい希望も暖かな家も貴族位も全て失った自分と比べるうちに、憎しみだけが残された。
「あいつを……殺してやる」
理不尽な恐怖の中で正気を失い、その血の涙を流すような告白に、伯爵夫人はノアトスを放り捨てて、歓喜の笑みを浮かべて歩み寄り、そっとクリスティナに語りかけた。
「あぁ……やっと、美味しそうになったわ……」