あ゛?悪役令嬢?そんなことより俺は東大に入りたい
主人公の口が悪いので、そういうことを不快に思われる方はご注意下さい。
文章が少し長めになりました。
少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
午前七時半、始業前の朝の学校は、登校してきた生徒が入り乱れて騒がしい。
それは上流階級の子供達が通う、お金持ち学校でも変わらない。とくに今朝は、先日行われた学力テストの結果が張り出されるとあって、余計に浮わついた雰囲気が漂っていた。
一階のエントランスにある掲示板の前には、テスト結果を見ようと、大勢の人間が集まっている。
そんななか、ひときわ目を引く女子生徒が、張り出された順位表をじっと見上げていた。大きな瞳は目尻が少しつり上がっているが、それも強気な猫のような印象でかえって可愛らしい。薔薇色のつるりとした頬に弓なりな眉が上品だった。
少女は形の良い眉をクッと歪めると、廊下に膝から崩れ落ちた。
長い黒髪がさらさらと川のように流れて、廊下に美しい光沢を広げている。桜色の柔らかな唇を噛み締め、廊下についた白魚のような手は、思いを堪えるかのように固く握りしめられた。そして…
「 ……チクショーー!! 」
似合わない咆哮をあげた。
「 さ、鷺沼さま、落ちついて下さい! 」
「 立って下さいませ!お体が汚れてしまいますわ! 」
周りの者たちが、廊下で絶望を体現する少女に群がって、必死に落ちつかせようとする。しかし少女は周りの声も届かない様子で、廊下に拳を打ち付けながら、叫び声をあげ続けている。
「 今度こそ!今度こそ、あいつに勝てると思ったのに!! 」
「 お止め下さい!手を痛めてしまいますわ! 」
「 クッソ!!英語か!?やっぱり駅前留学じゃ足りないってのか!?なんで俺はアメリカ人じゃないんだ!! 」
「 キャー!!紅子さまがご乱心よ!誰か早く赤尾さまをお呼びしてー!! 」
今度は黒髪を引きちぎるように鷲掴み、ゴンゴンと廊下に額を打ち付け始めた。そうすれば、アメリカ人になれるとでもいう様に。
周りの者は顔を青ざめさせながら、少女の奇行を止められる唯一の人物を探して右往左往している。
そこへ人混みをかき分けて、長身の少年が姿を現した。
「 …紅子、何をまたバカなことしてるの? 」
「 赤尾さま!赤尾さまがいらしたぞ!! 」
「 赤尾さま!早く鷺沼さまをお止め下さい! 」
周りから急かされた少年は、少し癖のある髪をかき上げ、大きく息をついた。
こちらも少女に負けず劣らず、存在感のある少年だった。
同じ年頃の中でも一際背が高く、秀でた額に少し垂れ気味の目元が甘さを見せている。頬から顎の輪郭にまだ少年らしさを残しているが、それが瑞々しい色気を感じさせた。
少年は長い足を折り曲げて少女の前に膝をつくと、少女の打ち付ける額と床の間にすっと手を差し込んだ。少女の額のかわりに手が打ち付けられたが、少年の秀麗な顔には苦痛の色は一切浮かばなかった。
少女、いや、紅子はあるはずの痛みが無い事で、ようやく自分の世界から現実へ帰ってきた。
目の前の掌から腕をたどり、視線が少年の顔へ向けられる。
「 本当に君は、昔から訳の分からない事ばかりするね 」
「 ゲッ、隆一!てめぇ、なんでここにいやがる!? 」
今一番会いたくない人物を見て、少女の顔が盛大に歪んだ。
「 なんでと言われても、僕もここの生徒だからね。…ああ、額が赤くなってしまった。早く冷やさないと、痣になってしまうよ 」
「 ちょっ、触んな!んなこと言いながら、俺を笑いに来たんだろ!? 」
「 笑う?…ああ、テストの順位か。あれも当然の結果だろう?何時もの事じゃないか 」
「 当然!?いつも!? 」
隆一の言葉を聞いて、紅子はその猫のような目をカッと見開いた。
しかし隆一は意に介さず、呆然とする紅子の手をすくい上げると、指と指が組み合うように繋いだ。所謂、恋人繋ぎだ。
打ち付けたせいで赤くなった紅子の手を口許に持ち上げて、ちゅっと音をたてて口づける。そして掲示板の順位表を見上げて嬉しそうに笑って言った。
「 いいじゃないか。婚約者同士、仲良く一位と二位で並べて。まあ、点数の差は三十点以上開いているけどね 」
「 …ふざけんな!! 」
紅子は繋がれた手をふりほどくと、隆一を睨み付けた。あまりの怒りに瞳が潤み、頬が燃えるように熱くなる。
「 次こそ俺が一位をとって、お前に吠え面かかせてやる!! 」
「 あははは、その台詞は前回も聞いた気がするけど? 」
「 うるせぇ!!俺は絶対に東大に入るんだ! 」
「 その台詞も聞き飽きたかな。僕に勝てないような成績じゃ、東大なんて夢のまた夢だよ 」
叫ぶ紅子を笑い飛ばした隆一は、振りほどかれた手をもう一度持ち上げて、今度は自分の薄い唇を指先でなぞるように動かした。
「 東大なんて諦めて、早く僕のお嫁さんになりなさい 」
目元を甘く細めて告げられた言葉に、紅子の中で何かがブチッと切れる音がした。
「 っ!ゼってー諦めねぇー!!お前に勝って、そのスかした顔に東大の合格通知書を叩きつけてやる!! 」
吠えた紅子は全身で隆一を振りほどくと、玄関口から靴も穿きかえずに外に向かって走り出した。
吹き抜けになったエントランスには、「隆一のバカヤロー!」という紅子の捨て台詞が虚しくこだましていた。
********
隆一から逃げ出した紅子は、学校の裏庭にあるベンチに座り途方にくれていた。
無駄に広いこの学校は、校舎の周りが公園のように整備され、辺りには色々な種類の木々が植えられていた。春を知らしめるように芽吹いた緑は、光を反射して瑞々しく輝きを放っている。
しかし、そんな春の麗らかな景色も、深く沈みこんだ気持ちを引き上げることはできなかった。木漏れ日の中で、下着が見えるのも気にせずに膝を抱えた紅子は、再度「チクショー」と呟いた。
「 今度こそ勝てると思ったのに… 」
今回は高等科に上がって、初めてのテストだった。
エスカレーター制のこの学院に小学科から通う紅子は、幼馴染みでもある隆一に、一度もテストで勝てたためしがない。その雪辱を晴らすため、紅子は今回のテストに全身全霊で挑んだ。
睡眠時間を削り、家庭教師も増やし、警備の問題で止められていた塾にも、父親に頼み込んで通わせてもらった。隆一に無理やり連れ出された時以外、春休みのほとんどを勉強に費やした。家族に心配されながらも、燃えつきる勢いで迎えた今回のテスト。何度も自己採点したその結果は、前回の隆一の成績を上回っていた。
これならいける!と、ようやく努力が報われる時がきたと、今朝は期待を胸に登校したというのに、結果は散々だった。
「 オール百点とか、バケモンじゃねーの… 」
掲示板に張られた順位表を見て、なんの冗談かと思った。百位までが並ぶ名前の、天辺に記された「赤尾 隆一」という文字。そしてその隣に並ぶ数字は、一問すら間違える事のなかったという証拠。
その下に書かれた自分の名前すら認識していなかった。ただ、その天辺に書かれた0の多い数字を見上げて、呆然とするしかなかった。
「 …俺みてーなヤンキーが生まれ変わったって、所詮凡人は凡人ってことかよ 」
紅子は前世の記憶を持って生まれた転生者だった。
前世の紅子は、所謂不良と呼ばれるような人間だった。父親は仕事もせずに酒を飲んでは暴れ、母親は男を作って家から出ていった。置いていかれた紅子は、孤独を紛らすように同じ境遇の仲間とつるんで、犯罪まがいの事ばかりしていた。そして最後は無免許のバイクでガードレールに突っ込んで、あっけなく死んだ。
そんなろくでもない前世の記憶を思い出したのは、紅子がもうすぐ四歳になる頃、庭の木から落ちて頭を打った事が切っ掛けだった。
それまでも、ヒラヒラとした服を着せられるのを嫌がったり、家の中で人形遊びをするよりも、外で泥だらけになって駆けずりまわるのが好きな子供だった。
その時も、覚えたての木登りに夢中になり、かなり高いところまで登って足を滑らせた。落ちていくなかで、走馬灯のように浮かぶのは、紅子のものではない、荒んだ目をした少年の記憶だった。
病院に運ばれた紅子は、頭を強く打っていた事もあって、一月ほど意識が戻らなかった。家族が絶望するなかで、眠る紅子は、その少年の記憶を追体験するように見続けていた。
意識を取り戻した紅子は、今世と、少年として生きた前世の二つの記憶をもつことになった。目覚めたばかりの頃は、家族を認識できなかったりと記憶の混乱がみられたが、それも子供らしい順応性で飲み込んでいった。
そうして、今世の紅子と前世の少年が合わさった、新しい紅子が生まれた。
新しい紅子にとって今世は、前世の辛さを塗り替えるほどすべてが優しかった。食べる物に困る事もなく、安心して眠れる家があり、そして何より愛してくれる家族がいた。
前世で手に入れることができなかったものが、今世では手から溢れてしまいそうな程に与えられた。その中の一つが勉強だった。
前世ではろくに頭に入らなかった勉強も、面白いほどするすると頭に入る。
紅子は思った。俺ってもしかして天才じゃねぇ?
それから紅子は勉強に夢中になった。
それまでは、どちらかと言えば不真面目な生徒だった紅子が、家庭教師も驚くほど真剣に勉強するようになった。
そんな紅子の熱意に押された家庭教師とともに、勉強熱はより燃え上がっていく。そして目標ができた。日本一の名声をもつ学舎、東京大学に入学するという目標が。
しかし、人生はそう甘くはなかった。
紅子が五歳になった頃、父が家に友人の息子を連れてきた。
紅子と同い年の子供は、とても綺麗な顔をしていた。少し癖のある黒髪と、日本人らしくない白い肌。目を縁取る睫毛は音がしそうな程長く、少し下がり気味の目元が甘い印象を見せていた。緊張でもしているのか、少し固い表情をしている。
怪我のこともあって、家の門から外に出ることを許されていない紅子は、同じ年頃の子供と遊ぶのが初めてだった。友達ができることに浮かれた紅子は、隆一という名前の子供を庭に誘った。
「 なあ、サッカーしようぜ! 」
「 …サッカー? 」
使用人に庭にあるオモチャが入った箱を開けてもらい、サッカーボールを取り出すと、隆一は不思議そうに首を傾げた。
「 なんだ、お前サッカー知らねーの? 」
「 名前は知っているけど、したことはないかな 」
「 じゃあ、キャッチボールは? 」
「 それもしたことないよ 」
「 まじで!?じゃあ、お前普段何して遊んでんだよ? 」
怪我をした後も、紅子の活発さは変わらなかった。少年の記憶を思い出した事で、より言動が男らしくなってしまった程だった。
紅子の両親も最初は戸惑ったものの、多少言動がおかしくとも生きていてくれさえすればいいと言って咎めなかった。
最近では勉強の息抜きに、家庭教師と紅子 対 父親と使用人でフットサル対決をするのが密かなブームとなっていた。母親も張り切って審判の勉強をしている。
そんな家庭でのびのびと育った紅子は、サッカーもキャッチボールもしたことがないと言った隆一にかなり驚いた。
お金持ちの子供はサッカーやキャッチボールはしないのだろうか?お下品とか言われちゃうかんじ?
紅子は自分の家の裕福さを棚にあげて、そんなことを思った。
「 ……本を読んだり、ピアノやバイオリンを弾いたりするのが遊びかな 」
「 うっわーまじで!?それが遊びとかやっぱ金持ちの子供はスゲーな 」
「 金持ちって…君の家も同じだろ? 」
「 俺はそれが遊びとか耐えらんねーし。じゃあ、教えてやるからキャッチボールしようぜ!これならルールなんて知らなくても、投げて受け止めるだけだし、単純だろ? 」
そうして二人は、キャッチボールを始めた。
最初は自分に向かってくるボールに戸惑って、受けとれずに避けたりしていた隆一も、次第に慣れてスムーズにキャッチボールができるようになった。
もともと運動神経が良いのだろう。鋭い球を投げる隆一に、対抗心を煽られた紅子の暴投が窓ガラスを割って、使用人に怒られる場面もあった。
そうして隆一が帰る頃には、二人はすっかり打ち解けて、隆一の固かった顔も最後には笑顔を見せるほど柔らかくなっていた。
それから隆一は度々鷺沼家を訪れるようになった。
紅子も隆一が遊びに来た日には、勉強のことも忘れて二人で遊び倒した。
キャッチボールにサッカー、かくれんぼや色鬼、使用人へのちょっとしたイタズラや、庭に作った秘密基地。それは、前世でできなかった紅子の憧れの遊びでもあった。
二人で怪我をして泣いたり、たまに喧嘩をしたりしながら、いつしか紅子は、この綺麗な顔をした子供を親友と思うようになった。
だから隆一に一緒の学校に行こうと誘われた時にも、紅子は喜んで頷いた。
しかし誘われて入学した学校は、前世の記憶とは全く違う、恐ろしく綺羅びやかな世界だった。
石造りの厳めしい門には警備員が立ち、中は公園のように整えられていて無駄に広い。緑に囲まれた洋風の校舎の壁の白さに、ここは本当に日本なのかと疑ってしまう。
上品な言葉で話す子供たちに、上品な教師たち。そんな教師の中に体育の授業以外でジャージを着ているような者は一人もいない。紅子はクラスメイトに「鷺沼さま」と呼ばれて、誰の事かと思った。
一般授業の他にマナーやダンスの授業があり、クリスマスにはダンスパーティーがあるという。ここでいうダンスとはもちろんヒップホップなどではない。社交ダンスだ。社交ダンス!あほかと思った。
前世が田舎の不良だった紅子のカルチャーショックはかなり大きかった。
オホホ、ウフフのお上品な世界に溶け込めるはずもなく、当然紅子は浮いた存在となった。
隆一は「紅子はそのままが一番良いよ」と言ってくれるが、そんなことを言う隆一自身は、学校に物凄く馴染んでいた。
もともと粗野なところのない、上品な話し方をする隆一だったが、同じ上品な子供たちと比較しても、その所作の一つ一つが際立っているのがよくわかった。歩き方にしても、頭を揺らさず背筋をピンと伸ばした姿は、同年代ではとても真似できるものではなかった。
その上、唯一自信のあった勉強でさえ、隆一は紅子よりも上だった。
授業では外国人教師と流暢に英語で会話をし、紅子を驚愕させた。マナーやダンスなど言わずもがなである。
自然と周りは隆一を敬い、教師たちは隆一をさすが赤尾家の子供だと褒め称える。そして、その隣にいる紅子を見て眉を顰めるのだ。なんで隣にあんな子供がと。
学校に入るまで知らなかった事だが、紅子の家も赤尾家に家格で劣ることはない。そんな紅子に直接文句を言う者はいなかったが、態度はとてもあからさまだった。
紅子も最初は、郷に入っては郷に従えと、お上品な言動を身に付けようと努力はした。しかしどうにも口がむず痒く、どうにか上品さを装っても短時間でボロが出てしまう。
ならば一般授業だけでも隆一に負けないように、より一層励む事にした。
しかし、結果はいつでも二番目。
英語を話せる様になろうとしても、ヒアリングはできても口が回らない。
もともと負けず嫌いな紅子は心底悔しかった。
自分は天才なんかじゃない。
隆一を見て思い知らされたそれは、より紅子の負けず嫌いに火をつけた。
「 紅子って、勉強好きだよね。なんでそんなに必死に勉強するの? 」
休日に遊びに来た隆一をほったらかして、机に向かう紅子はそう聞かれて顔を上げた。隆一は紅子の横に椅子を置いて、つまらなそうに本をパラパラと捲っている。その顔は珍しく不機嫌そうだった。
紅子は気まずい思いで、視線を反らしながら答えた。
「 …別に。将来働くのにも、勉強できた方が就職に有利だろ? 」
自分は天才だと勘違いして、東大を目指していたなんて言える筈がない。前世ヤンキーだった俺が東大生とかマジかっこいい!なんて思ってた、俺ってマジかっこ悪い。これが黒歴史というものか。
「 は?何、紅子は就職して働く気なの? 」
「 なんだよ、俺みてぇなのは、就職もできないって言いたいのかよ! 」
学校に通うようになって自信をなくした紅子は、些か卑屈になって答えた。
しかし睨み付けた隆一は、紅子が何を言っているのか分からないといった様子で動きを止めていた。
「 …別に紅子が働かなくても良いだろ?僕はそこまで甲斐性なしになるつもりはないよ? 」
「 は?お前なんの話ししてんの?意味わかんねぇんだけど 」
「 ちょっと待って、もしかして紅子は知らないの?君は僕の婚約者だよ? 」
「 こんやくしゃ???………………………………………っ婚約者ぁ!!?? 」
隆一の困惑したように告げられた言葉を、紅子は初め理解出なかった。
こんやくしゃ?根役者?蒟蒻者?いや、意味わからん。こんやくしゃ、婚約者。ああ、婚約者!…って婚約者!?
時間をかけて飲み込んだ言葉も、やっぱり理解できない言葉だった。
「 婚約者って、誰が誰の!? 」
目玉がこぼれ落ちそうなほど目を見開いて、聞き返した紅子に向かって、隆一はムッとした表情で答えた。
「 君と僕に決まってるだろ?他に誰と婚約するつもりなんだ 」
「 知るかよ!ってか、いつの間にそんなことになってんだよ!? 」
「 そんなの最初からだよ。初めて君の家に来たときが顔合わせだったんだ。お父さんに何も聞いていないの? 」
「 ………………なんも聞いてねぇ。嘘だろおい、なに考えてんだよ、俺ら小一だぞ? 」
頭を抱えた紅子に向かって、隆一は呆れたようにため息をついた。すでに二人の会話が、小学一年生のものでは有り得ない事に、紅子は全く気づいていない。
「 だからだろ?君のお父さんは、君に変な虫が付くのを心配したんじゃないか。……現に、いらない虫がわき出してるしね 」
「 だから、それこそ気が早いっつうんだよ。どこにこんな口の悪ぃ小娘を、どうこうしようとする奴がいんだよ 」
「 君はもう少し自分を知った方がいいよ。そんなんじゃ、就職以前の問題だ。心配で外にも出せないよ 」
まるで出来の悪い子供を諭すように言われて、紅子も頭にカチンときた。
たまに隆一はこういう保護者のような言動をする。紅子が考えなしの行動を取ったときなどは素直に反省できるが、今回は素直になれなかった。
今の隆一の言葉は、まるで紅子は隆一の所有物だとでも言うように聞こえる。
「 なんでお前に、そんな事言われなきゃなんねーんだよ。俺はお前の子供か? 」
「 君が聞き分けの無いことを言うからだろう? 」
「 何を聞き分けろっつうんだよ?親の言うこと聞いてお前と結婚することか?それとも俺に自分の将来も決める権利がねぇっつうことか? 」
「 決めるも何も、君と僕が結婚するのはもう決定事項だよ。それとも君は僕と結婚したくないとでも言うつもりなの? 」
「 だから、そういうことは小一で決めることじゃねーって言ってんだよ。お前だって将来の夢とかそういうもんがあんだろ?なんで今のうちにそんな選択肢狭めるようなことすんだよ。おかしいだろ? 」
「 何もおかしな事はないだろう。僕は君との婚約の話を承諾した。これは僕の意思だ。誰かに強制された訳じゃない 」
「 じゃあ、俺の意思はどこにあんだよ?俺は何も聞かされてねーし、何も聞かれてねーよ 」
頭に血の沸いた二人は、どちらも自分の意見を譲らずにヒートアップしていく。小学一年生で人生論を語れることが、まず間違っていることに、やはり紅子は気づいていない。
隆一は大きく息をつくと、それなら、と聞き返した。
「 それなら紅子は、僕と婚約をしたくないほどの理由があるって言うの? 紅子の言う、夢とかそういった明確な理由が。何となく婚約したくない、というのは僕に対してとても失礼だし、認める事なんてできないよ 」
「 …俺は勉強でお前に勝ちてぇ。そんで大学は東大に入るのが目標だ。今はそのくらいしか考えらんねぇよ 」
紅子に拗ねたように言われた言葉に、隆一は意表を突かれた顔をした。
「 なんで紅子は僕に勝ちたいの? 」
「 ……だって俺、お前に何一つ勝てねーじゃねーか。そんなん悔しいだろ 」
「 ……だから最近勉強ばかりしてたの? 」
「 ……… っクソッ、笑うなよ!! 」
「 あははははは、だ、だって、最近誘っても遊んでくれないと思ったら、僕に勝つために勉強してたなんて。僕は君に嫌われたかと思ってたよ 」
安心した、と言って笑う隆一の顔は年相応にあどけなかった。
それに毒気を抜かれた紅子も、大きく息をついて、別に嫌わねーよ、と返した。
さっきまでの険悪に張りつめた空気は何処かへいき、紅子もむきになって勉強しすぎた事を反省した。仲直りの印に、久しぶりにキャッチボールでもするか、と考えていた紅子は、笑いを納めた隆一の言葉に再び驚愕した。
「 それじゃあ、こうしよう。君が高等科を卒業するまでに、僕にテストの総合学年順位で勝てたら、君と僕は東大に入って、結婚も大学を卒業するまで待ってあげる。だけど、勝てなかったら、君は高校を卒業したらすぐに僕と結婚して、僕の行きたい大学に一緒に入る 」
「 は?ちょっと待てよ、おかしいだろ。なんでお前まで東大に入るんだ?ってか、結婚するのは絶対なのかよ! 」
「 言っただろう?決定事項だって。それに、同じ大学じゃなければ、牽制の意味が無いじゃないか 」
さっきのあどけない笑顔は何処へ行ったのか、目を細めて甘く笑う隆一に背筋がゾワリと粟立った。
「 おまっ、実はヤンデレか!? 」
「 やんでれ?その言葉は知らないけれど、とにかく紅子は東大に入りたければ僕に勝たなければならないよ?精々頑張ってね 」
「 うっわ、余裕かよ、ムカつく!ゼってーお前に勝って東大に入ってやる!後で吠え面かかせてやるからな! 」
隆一の挑発に簡単に乗った紅子は、甘く見ていた。
この時は想像もしていなかった。まさか九年もの間、一度も勝つことができずに逆に吠え面をかかされる事を。
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「 ヤンデレのハイスペックさを甘く見てたぜ… 」
「 何を一人でぶつぶつ呟いてるのよ。気持ち悪いわね 」
昔を思い出しながら黄昏る紅子は、声を掛けられるまで側に人が来たことに気づかなかった。
俯けていた顔を上げると、目の前に小柄な女子生徒が一人立っていた。栗色のふわふわの髪をボブカットにして、前髪は眉の上で切り揃えている。大きな丸い瞳は愛らしいが、今は些か剣呑に細められている。細い腕を組んで紅子の前に仁王立ちした姿は、小柄なこともあって、何処か微笑ましかった。
うぉう、かっわいい~、アニメに出てくるウサギみて~。
前世男の紅子は、呑気にそんな事を思った。
「 ちょっと、聞いてるの!?っていうか、あなたパンツ丸見えじゃない!なんて格好してるのよ!足を下ろしなさい! 」
「 は?ぱんつ?…ああ、パンツか 」
「 パンツか、じゃないわよ。足を下ろしなさいって言ってるの!女の子なのに恥ずかしくないの?……ちょっと!?なにスカート捲ってるの!?見せなくていいわよ! 」
「 いや、これ見せパンだし。隆一に制服の下に絶対穿けって言われてんだよ 」
「 だからってわざわざ見せなくて良いわよ!本当バカなんじゃないのあなた!? 」
あまりに少女がパンツを気にするので、見せて説明しようとすると、物凄く怒られた。
しかも今の紅子にバカは禁句だった。
再びどんよりと沈んだ雰囲気になった紅子は、いじけたように言った。
「 どうせ俺は馬鹿だよ……隆一に一度も勝てない負け犬さ……笑いたきゃ笑えよ……… 」
「 なにいきなり落ち込んでるのよ。……ちょっ、なんで泣いてるの!?私が泣かせたみたいじゃない!バカなんて言って悪かったわよ、だから泣き止みなさい! 」
ぐずぐずと鼻をすすり始めた紅子に、名前も知らない少女はハンカチを紅子の顔に押し付けた。
その乱暴な優しさに涙腺を刺激された紅子は、本格的にえぐえぐと泣き出した。
「 ぢくじょー、なんであいづばあんなにあだまがいいんだー。おで、ごんがいぢょーがんばっだのに、ぜんぜんがでながっだー 」
「 …なに言ってるか分かんないわよ。いいからほら、これで鼻をかみなさい。鼻水垂れてるじゃないの 」
「 う゛ー、ありがどー、あんだいいびどだなー……ブー!!ずびっ、あ゛ー、ばなびずだれだー 」
少女の差し出したティッシュを受け取った紅子は、お礼を言っておもいっきり鼻をかんだ。しかし、大量の鼻水は受け止めきれずに、デロリと糸を引いて制服に垂れ下がった。
そんな紅子に少女は大きなため息をついて、追加のティッシュを渡した。
「 あーもう、汚いわね。全部使って良いから綺麗に拭きなさいよ。可愛い顔が台無しじゃないの………まったく、なんでこんなのがライバルキャラなのよ。ふざけてんの?赤尾君との出逢いイベントもおこらないし、泣きたいのはこっちの方よ 」
「 あ゛ー?? 」
紅子は追加のティッシュで垂れた鼻水を拭いながら、ぶつぶつと文句を言う少女を見上げる。
少女は何処か真剣な眼差しで紅子を見つめていた。
「 ……この世界はね、乙女ゲームの世界なのよ。そしてあなたは赤尾君の攻略を邪魔するライバルキャラ。あなたは悪役令嬢として、編入生の私に陰湿な嫌がらせをする義務があるわ 」
突然意味不明な事を言い出した少女に、紅子はやはり真剣な眼差しで見つめ返して言った。
「………ずびっ、でんぱ?」
「 ちょっと、今のは聞き取れたわよ!?誰が電波よ!口を慎みなさい!あと、また鼻水垂れてるから、もう一度鼻をかんで! 」
「 あ゛い 」
ズビーっと鼻水をかんだ紅子は、いくらかスッキリした声でもう一度言い直した。
「 だって、ゲームとかライバルキャラとか意味わかんねーし 」
「 だから、この世界は乙女ゲームの世界で、私は主人公。そしてあなたは性格の悪い悪役令嬢なの。赤尾君に近づく私が気に入らないあなたは、陰湿な嫌がらせをして赤尾君に嫌われるの。そして私は赤尾君との愛を深めて結ばれるシナリオなの 」
「 いや、俺は隆一に勝ちてーけど、別に嫌われたい訳じゃねーし。それに悪役令嬢とか言われても訳わかんねーよ。自分を虐めろとか、あんたマゾなの? 」
「 失礼ね!私はマゾじゃないわ!そういうシナリオなの! 」
顔を赤くして怒る少女は、確かにマゾとかそういった特殊な性癖を持っているようには見えない。かといって、心が不自由な人という印象もなかった。どちらかと言えば、初対面の相手の前で鼻水を垂れ流している自分の方が、危ない人に見えるだろう。
それに、紅子も前世の記憶をもつことを思えば、一概に彼女の言葉を否定することもできなかった。
だからといって、素直に悪役令嬢として彼女を虐めることもできない。隆一に嫌われるのも嫌だ。
「 悪いけど、俺はあんたを虐めるとかできねーよ。あんた良い人だし。それに悪役令嬢とかいって、わざわざ隆一に嫌われたくねぇよ。そんなことより俺は、隆一に勝って東大に入りてぇ。この世界がゲームとかどうでもいいよ。俺は今生きてるこの生活が大事だ 」
今度は鼻水を垂らさずに、真剣に答えることができた。
少女も真剣に答えた紅子に納得した様子で頷いた。
「 わかったわ。あなたが赤尾君と別れるつもりが無いなら、正攻法で戦いましょう。私は赤尾君を諦めない。正面から好かれるようにアプローチするわ。良いわね? 」
「 良くわかんねーけど、あんたはゲームとか関係なく隆一が好きなんだな? 」
「 そうよ、私は前世からずっと赤尾君が好きだった。だから、この世界に来れて本当に嬉しかったの。いくら赤尾君があなたの事を好きでも諦められないわ。これからどんどんアプローチしていくから、覚悟してちょうだい 」
「 あんたが真剣なのはわかった。だったら俺も隆一を取られないように頑張るよ 」
隆一を真っ直ぐに好きだと告げる少女は、純粋に輝いていて綺麗だった。女は恋をすると綺麗になるというが、確かにその通りなのだろう。
あのヤンデレが、そうそうこの少女に気を移すとも思えないが、だからといって侮ることなどできない。正直紅子は、自分がこの少女に勝てるほど魅力的かと聞かれれば、潔くNOと答えられる。まったくと言っていいほど、女としての自分に自信はなかった。
隆一を取られたくないなら、紅子もそれなりの努力をするべきだろう。
「 話はそれだけよ。私は先に戻るから、あなたも授業に遅れないように、その顔を洗ってさっさと戻りなさい 」
「 ちょっと待って、俺あんたの名前知らねーよ!なんて名前? 」
踵を返した少女に名前を尋ねると、少女の足がピタリと止まった。しかし、いくら待っても答えは返ってこない。
少女は石像の様に固まったまま動かなくなった。
「 おーい、どーした?名前ぐらい教えてくれてもいいじゃんよ 」
ベンチから立ち上がり、紅子が正面に立っても、少女は俯いたまま顔を上げようとしない。
「 どうした?気分でも悪いのか?保健室連れてくか? 」
「 ………………… 」
「 えっ?なに?何て言ったんだ? 」
あまりの反応の無さに心配になった紅子が、少女の華奢な肩に手をかけると、ぼそぼそと何か呟くような声がした。
聞き取れなかった紅子は、女にしては長身の体を屈めて、少女の顔を覗き込もうとする。
するといきなり、ガバリと顔を上げた少女は叫ぶように言った。
「 だから、茂々居路 品來 だって言ってんでしょー!! 」
「 へ?もも? 」
「 だから、モモイロ ピンク よ!何度も言わせないで! 」
モモイロ ピンク と名乗る少女は、顔を顔を真っ赤にさせて目を吊り上げている。
「 えっ、それって本名!? 」
「 悪い!?疑うんなら、これでも見なさいよ!! 」
懐から取り出した生徒手帳を突きつけられた紅子は、大人しくそれを受け取った。
確かに少女の顔写真の横に『 茂々居路 品來 』と書かれていた。
「 …スゲーな。これでモモイロ ピンクって読むのか。ものスゲー当て字だ 」
「 文句ならうちの親に言いなさいよ!私だってバカなんじゃないかと思うわよ!! 」
「 …いやほら、特攻服みたいだし、かっこいいんじゃね? 」
「 夜露死苦と一緒にしないで!! 」
吊り上げた目に涙を浮かべた少女は、地面を踏み鳴らして怒りを顕にしている。
「 ちなみにピンクちゃんとかピン子とか呼んだら張り倒すわよ!? 」
「 …うん、わかったわ。お前のことはももちゃんと呼ぶよ。俺はそう決めた 」
その言葉だけで、どれほど名前のことで誂われたのかが想像できる。親は可愛らしい名前を付けたつもりかも知れないが、とんでもない嫌がらせだ。
同情した紅子は、彼女をももちゃんと呼ぶことを、男らしく宣言した。
「 ……分かったなら良いわ。怒鳴って悪かったわね 」
「 良いよ、気にすんな。そんなこともあるさ 」
「 …ありがとう。じゃあね 」
今度こそ立ち去っていくももを見送った紅子は、世の中には理不尽な事がたくさんあることを知った。ハイスペックヤンデレに進路を強制されるくらい、何てことはない。
一生ついて回る屈辱と共に生きる彼女に比べれば、自分はなんと恵まれていることか。
かなり失礼な事を考えて慰められた紅子は、気持ちを入れ換えて自分も教室に戻ることにした。
「 おい、居るんだろ?盗み聞きは卑怯だぞ 」
紅子が声をかけると、木陰から長身の少年が姿を現した。
「 なんだ、気づいてたんだ 」
「 当たり前だろ?いつもすぐに迎えに来るくせに、今回はいつまでたっても来ねーし。それに吹き出す声が丸聞こえだったっつーの 」
「 あはははは、だってモモイロピンクって。それに特攻服とか、慰めるにしても他に言い様は無かったの? 」
「 うるせぇ!とっさに思いつかなかったんだよ! 」
「 僕は良いと思うけどね。紅子とピン子でお揃いじゃないか 」
「 お前、それ本人の前で言ったら、ぶん殴るぞ? 」
一度ツボにハマるとなかなか笑いが治まらない隆一は、苦しそうに笑いながらそんな事を言う。
恋をした相手にそんな事を言われたら、ももはどれだけ傷つくことだろう。さすがにそれが隆一であっても許せない。
「 彼女のこと気に入ったみたいだね 」
「 だって可愛いじゃねーか。ちょー優しかったぞ。あれがツンデレか 」
「 紅子は特殊属性が好きだよね 」
「 自惚れるなよ?俺はヤンデレは嫌いだ 」
紅子がももを思い出してほのぼのしていると、背中に覆い被さる様にして隆一が腕を回してきた。
「 そんなこと言って、僕を取られないように頑張ってくれるんだろ? 」
「 ……そこから聞いてたのかよ。マジ性格悪ぃー 」
後ろかから前髪をかき上げられた紅子の額に、ひんやりとしたシートが張られた。どうやら冷却剤を持ってきてくれたらしい。
しかしその手は紅子の顔を離れることはなく、そのままするりと頬を撫でると、顎にたどり着き上向かせる様に持ち上げた。
「 努力してくれるなら、まずは自分の体を大切にしてくれると嬉しいかな 」
「 …お前が全教科満点とか、えげつないことしなければ済む話じゃねーか 」
斜め上から覗き込んでくる隆一を、至近距離から睨み付けてやるが、隆一は全く堪えた様子もなく、目を甘く細めさせた。
そのまま紅子の唇にかするようなキスをする。
「 だって、紅子ってば春休みも勉強ばっかりで、ほとんど僕に構ってくれなかったじゃないか。暇すぎて勉強するしかなかったんだよ。僕に満点を取らせたくなかったら、紅子が僕から離れなければいい。いっそ、一緒に暮らしてしまえば、僕は君に負けてしまうかもしれないよ? 」
「 あほか。それじゃお前の思う壷じゃねーか 」
「 そろそろ東大は諦めてもいいんじゃない?どうしたって僕からはもう逃げられないよ 」
もう一度近づいてくる顔を額を押して避けると、紅子は隆一の腕のなかでくるりと体の向きをかえた。
向き合った隆一の襟元を乱暴に掴むと、ぐっと引いて顔を近づける。
「 それとこれとは話が別だ。俺はゼってーお前に勝って、東大に入ってやる 」
今にも唇にが触れそうな位置で囁くと、猫のような瞳を細めて笑った。
呆れたように息をついた隆一は、紅子の冷却剤の張られた額に口づけた。
「 ……僕はテスト以外では君に勝てる気がしないよ 」
「 はっ、そりゃ気分がいいな 」
心の底から嬉しそうに笑った紅子を見て、隆一は眩しそうに目を細めた。
「 ……君は頑張らなくても、そのままで充分魅力的だよ。初めて会ったときから、僕は君に夢中なんだ。この気持ちは神様にだって変えられないよ 」
「 ……恥ずかしいこと言ってんじゃねーよ、このヤンデレが 」
顔を赤くした紅子と隆一の唇が重なったとき、辺りには始業の鐘が鳴り響いていた。