樫田詠汰
ふぁ〜。
間の抜けた欠伸をかまして、身体を深く包むイタリア製のレザーソファから身を起こす。少し柔らかすぎたか。曲げていた首が痛い。
「起きたか?エイタ」
目に入った光景は、エイタ--樫田詠汰--を嘆息させた。
「ああ、モルトケ」
目の前には小柄でモサいメガネ男、ドイツ帝国参謀総長モルトケと俺にあてがわれた居室の調度が並ぶ。
「どうしたんだ。あまり入って来て欲しくないんだが」
「いや、済まない。急ぎだったからな」
急ぎという割にはのんびりしているようだが。
「オーストリアがセルビアに宣戦布告したんだ」
「…!そうか」
俺はどうも直近のことを覚えていない。どうしてこんなところにいるのか、こんな立場になっているのか。東京のコンクリートビル群はいずこに行ったのやら、今眼前に広がる世界はせいぜいが二十メートル程度の高さしかない建物ばかりだ。人類が生み出した文明の利器であるスマートフォンは完全に圏外であるし、PCも見当たらない。
だが、この世界がなんであるのか理解できないわけではない。
モルトケが話した事実だけでも、ここが二十世紀初頭のヨーロッパであることはわかる。つまり、これから第一次世界大戦が始まるのだ。俺は結末を知っている。だが、こうしてモルトケと連んでいれば終戦後何を言われるか想像を絶する。つまり、俺はなんとかしてこの戦を圧倒的勝利に導かねばならない…!--とまあ、意気込んで見たが俺は何の権力もないただの大学生であるからしてこんな役目など、どうしたらいいのかさっぱりわからん。一応肩書き的には、『ドイツ帝国陸軍最高顧問』らしいんだが、これがどんな立場なのやら…。
「…エイタ!聞いてるか?」
モルトケが心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「…ああ、済まない。なんだって?」
「聞いてないのかよ…まったく…」
はあ、と大きな溜息をひとつついて、モルトケはかけていた眼鏡を指で掛け直し、
「ロシアが総動員をかけた。どうするべきか?」
うーん、モルトケは充分能力はあると思うんだけど、イマイチ自信がないのがなあ。
「布告はないんだろ?だったら、外交努力でなんとかしなよ。一応動員はかけておくべきかもしれんが」
「それがなあ、陛下の説得にまったく応じんのだよ、あのポンコツ皇帝が…!」
それは、おそらくロシア皇帝に対する悪口だろう。だが、取られ方によってはアウトだぞ。
「だったら、すぐに動員をかけるべきだ。あと、イタリアと連絡を取れよ」
「ああ、イタリアを忘れていたよ。すぐに連絡を取ろう」
「それと、極東の占領地はどうするつもりだ?中途半端に駐屯兵を置くくらいなら、本国に返すべきだ。残すなら、青島を中心に範囲の縮小も視野に入れないと、中国も日本も黙ってはいないぞ」
モルトケは少し眼鏡の奥の眼を見開いて、
「極東地域は、青島とマレー半島を中心に支配することを目標にする。赤道以南の部隊は全てそちらに向かわせる」
そうだろな。この頃、日清、日露を勝って存在感が増している日本を牽制するためにも、ある程度は睨みを効かせないといけない。
「すぐに陛下の許可を得る。そしたらまた来る」
「いや、俺がそっちに行くよ」
モルトケは、そうか、と言って部屋を出た。
俺は、何故、という疑義を完全に忘れて、戦争という未知の領域に足をふみいれた。
早くも実史とのズレが生じ始めます。