5.居場所
「絶対に逃がすなよ!」
騎士の中でも偉い方の人間が、大勢の部下に向かって声を荒げる。それでももう、亮樹の姿を視界に収める者はいなかった。
「何処へ行きやがった!」
「くっそう!」
悔しげな声が、高々と廊下に響く。
「んーっ!」
口を塞ぐ大きな手に、亮樹は抗うように頭を振った。
しかし想像以上にその力は強く、攻撃する事もままならない。
口を塞がれた瞬間にシーティーシーピーの電源をさりげなく切られ、滋に冷静になれと諭してもらう事もできない状況だった。
「静かにしろ」
野太く響く声は、心地よいバスだった。
それでも相手が誰か分からず、まして敵か味方かも分からないこの状況で、その声に心落ち着かせることなんてできない。
ふっと口を塞ぐ手を離されると、思ったより体が酸素を欲して息が乱れた。
言ってやりたいことは山ほどあるのに、やっと紡ぎ出せる言葉は少ない。
「あんたは……?」
ゆっくりと振り返る。すぐに危害を加えてこないから、もしかして味方なのでは、と、淡い期待が胸に立ち込めた。
だが願いは願いでしかなく、電気も点かない暗い部屋に、至近距離だから見えるその衣装が逆に目立った。
古代ヨーロッパの騎士を思わせる気高き風貌。
それを見た途端、亮樹は壁際へと一気に逃げ込んだ。
背中をとられないよう壁にしっかり張り付けば、ナイフを構える。
「神の代行人!」
「落ち着け。俺はお前に、危害を加える気は無い」
そんな台詞は何を考えていても言えるだろう。危害を加えない。もし亮樹が彼なら、そう言って油断させたところを一気に攻撃するはずだ。
そう思えば、余計に身を固くすることしか出来なかった。
すると男は亮樹から離れ、壁とは反対の窓側へ近づいたかと思えば、ガラリとそれを全開する。
「此処は三階だが、下にはたくさんの木がある。降りられない事もないだろう」
「は……?」
フッと肩の力が抜けた。こっちを油断させる作戦にしては、やらせようとすることに多少無茶がある。
「何だ、やっぱり無理か?」
「っ、無理なもんか! 何のために……俺がこの二年間、どれだけ鍛えたと思ってんだ」
「そうか、だったら……此処から逃げろ」
「……あんた、神の代行人だろ? なんで俺にそんな事……。俺はビュー・ガーデン、敵だぞ!」
「ならば、正面から堂々と出て行くため、この部屋を出るか? すぐに見つかって、殺されてしまうぞ。力では勝っていても、人数が集まればお前は不利だ」
たしかに人数だけでなく、この怪我も条件に入れれば、亮樹が生きて帰れる道は他にない。
「だけど……、ここでそうやってあんたが俺を逃がしてくれるのも、罠かもしれない」
「信じる信じないは自由だ。俺はお前を留める気もない」
それは下手に、自分は味方だ、と言われるよりも信憑性があった。
いつしか握っていたナイフが腕ごと体の横に垂れている。そんなにも自分は、この男の存在と言葉に翻弄されていたのだ。
「どうする。お前を庭に出さないよう兵士達は勤めている。外にはまだ、警備の人間は少ない」
「――教えろよ。どうして俺を、無事に逃がそうとするのかを」
男は何も言わなかったが、決して目をそらしたりもしなかった。
別に気まずいものがあって何も話さないのではないらしい。恐らく、必要外は話す気が無いと、その意思を表しているつもりなのだろう。
「あんたは誰だ。あの棗って奴の仲間なんだろ? あんたも砂乃を……モノみたいに見てんだろ」
やっぱり男は目を逸らさない。
答えが欲しくて、亮樹も彼をまっすぐに見た。
顔は分からない。だけど月明かりに照らされて、その格好は何となく分かった。
大きな体は、百八十センチはありそうだ。体格も、身長に比例して自分よりも遥かに大きく、ガッチリとしている。
そのシルエットだけなら、どこか滋に似ていた。
「シスターは確かに兵器として創られた」
グッと、亮樹は奥歯を噛み締める。もしかしたら、彼なら自分の欲しい答えをくれるかもしれない。そんな淡い希望は打ち砕かれたかに思われた。
しかし、男の言葉はまだ続く。
「だが、彼女らは人間として育っているんだ。兵器としての役目も持っているが、人として育つ事も、決して忘れてはならない事だ」
ばっと、亮樹は顔を上げた。
月明かりの影になり彼の顔が見えないと言うことは、彼から亮樹の顔は、きっと丸見えなのだろう。
「俺を敵と思うか味方と思うかは自由だが、……もう一度言おう。お前に危害を加える気はない」
もう言葉は出なかった。ゆっくりとナイフをポケットにしまうと、亮樹は彼が開けてくれた窓へと向かう。
この人は、信じてもいい。
彼の言葉にそう判断して近づけば、漸くその顔がよく見えた。
角刈りに狐目。やっぱり顔つきは、滋とは全然違う。
「あんたのフュー……じゃない、シスターは?」
ふと気になった事を聞いてみる。
「眠っている。隣の部屋だ」
「どんな奴だよ」
「普通の娘だ。あまり戦いには出さないようにしている。あいつが自分から戦うと言ったときだけ、戦わせる。兵器だって人間。自分の意思を持って戦う事が、彼女らの役目だと俺は思う」
「俺も、そう思うよ」
彼が視線を送る方向に亮樹も目をやった。
きっとそこに、彼が自分のパートナーの姿を見ているのだと思いながら。
「でもいいのかよ? 俺を逃がして。あの棗に知られたら……」
「構わん。何とでも言える。言い逃れが苦手なわけではない」
「へえ。でも、あんただって三日後のナチュラルを潰す作戦に参加するんだよな? ナチュラルを味方だと思っているわけじゃないんだろ」
それはつまり、ビュー・ガーデンの味方でもないということ。
だったらいくらシスターがどうとか言ったって、自分をこうして逃がしてくれる理由は何処にも無い。
別にもう、彼に理由を求めているわけでもなかったが、このまま別れるのはどうにも名残惜しくて、気付けばそんな事を訊ねていた。
「ナチュラルは敵だ。俺は、神を信じ、時には神に全てをゆだねる事も必要だと思っている」
「どんな風に」
「疲れた時、神に癒しを求める事……、願いがある時、神に叶えて欲しいと願う事、辛い時、逃げてもいいか神に諭してもらうこと。人間は、人間だけを信じてはやってはいけない」
まるで子供に聞かせるようにやんわりと男は諭す。
そんな夢のような話に、亮樹は思わず笑った。もちろんそれはバカにしたわけではなく、予想外の言葉に困惑した上で出てきた笑みだ。
「あんた……それでも神の代行人かよ。そんな夢みたいな話、ゴッドでも一番下の、平民しか信じてないんだと思ってた」
少し考えたように下を向けば、男は表情も変えずに前に向き直った。
彼の真黒な瞳は、吸い込まれそうなほどに綺麗で、月明かりの下、ほのかな光を放っている。
ああこれが、純粋な人間の眼なのかと、亮樹はしばし見とれていた。
「俺はそんな世界を作りたくて、神の代行人になった」
きっぱりと男が言う。
この人には、ちゃんと信念というものがあるのだ。
それは素晴らしい事だけど、それが正しいかと聞かれたら、亮樹は頷く事が出来なかった。
亮樹の信念も、また確かにあるのだ。
ふと視線を窓の外に向ければ、でも、と呟いて亮樹は言葉を続けた。
「神様だけが、全てかな? あんたがそう言ってくれるの、めちゃくちゃ嬉しいけど、自然も大事なんじゃねえの? ……例えば、あんた達がこうして城の周りに作ってる樹林。これがなかったら、俺たちはこうやって酸素を吸うことも出来なかったかも知れない。木がなかったら、土が廃れる。土が廃れたら、果物や野菜は作れなくなる。そうなったら、世界が荒れる。あんたの言う神様を信じるのもすてきだけど、自然だって、負けたもんじゃないぜ」
まっすぐに目の前の壮大な景色を見つめる青年を、男もまた羨ましげに見た。
人は自分に持ち合わせていないものを羨ましいと思う。男も、青年も、自分にはない強さと信念に、互いが心惹かれていた。
と、ふいに辺りが騒がしくなる。
「お前が中にいないことがばれてきたらしい。早く逃げろ」
「名前っ」
「あ?」
「俺は柏葉亮樹。あんたは?」
柏葉亮樹。さっき自分に砂乃の名前を出してきた時から、この青年がそうなのではと予想はしていた。
でも、改めて聞くとやはり納得してしまう。
砂乃の現パートナー。いや、状況的には元と言うべきかもしれないが、彼が少女に感情という宝を与えた張本人。
なるほど、と男はただ納得した。この青年なら人の心を動かせたのも分かる。
まして十四年間戦う事以外を知らなかった砂乃に、喜怒哀楽を教えることは、きっと自分には生半可に出来る事ではなかっただろう。
だけどこの、若くして色々な事を悟っている青年ならば、なんの苦労も無く、ただ普通に接する事で、砂乃に感情をつけてやれたに違いない。
亮樹の言葉を聞いていたら、男自身、自然と共有してみたいとも思えたのだから。
「……御とだけ、名乗っておこう」
ポツリと紡がれた言葉は、亮樹をまっすぐに見てはいなかった。
必要外のことは話す気が無い。御はつい先ほどそれを態度で証明してくれたが、恐らくこれは、自分達にとって必要外の情報だ。
それを、僅かな罪の意識を感じながらも、御は自分に話してくれた。
「御ね。あんたいつか、ビュー・ガーデンに来たらいい。きっとあんたには、そっちの世界の方が合ってると思うから」
その言葉を最後に、亮樹は御の部屋を飛び出した。風の抵抗で腕が痛んだが、何とか上手く木の間から着地する。
辺りを見回せば、確かに追手らしき人間は数人しかいなかった。これなら難なく逃げられそうだが、無情にも傷が疼く。
木がクッションになってくれたのは間違いないが、片手を負傷していれば、僅かな衝撃が体に激痛を与える。
これは計算外だったな、と、自分の軽はずみな判断と行為を軽く後悔すれば、とりあえず見つかる前に逃げようと自分のバイク型飛行機体へ向かって、亮樹は走った。
***
包まっていた毛布からむくりと顔を出すと、砂乃ははあっと溜息をついた。
「つまんない……」
一人で過ごす一日はとても長い。退屈に耐えられなくて昼寝もしょっちゅうしたせいか、肝心の夜には、目が冴えて全く眠れそうになかった。
ナツメサマ、今日は一度も会いに来てくれなかった。
彼は忙しい身だ。離れる前も毎日を必ず共に過ごしていたわけではなかったし、あの頃は、それに此処まで悲しいや寂しいとは思わなかった気がする。
そんなこと思える余裕も無いほどに、砂乃の感情は制限されていた。
毛布から出れば、窓辺へと向かう。
閉められた窓にそっと手をつき、見上げた空には星が瞬いている。
それもまた綺麗だと、砂乃は思った。
この星星も、朝のかがやく海も、ナツメサマと見たい。
ふとそう願ったとき、砂乃の目に一つの黒い影が映った。
――だれ……? りょーじゅに似てる。りょーじゅに……。
りょーじゅ!
いくら暗くとも、視力のいい砂乃にはその人の顔がよく見えた。
そしてそう悟った時にはもう、砂乃は窓から外へと飛び出していた。
体の半分が風の砂乃に、抵抗や重力なんてものは関係ない。
たとえ城の最上階だろうと、飛び降りることに恐怖も害もなかった。
軽やかに地面に着地すれば、今彼を見た方向へと必死に走っていく。
――りょーじゅ、うそ、りょーじゅ?
こればかりは、自分の目を疑った。亮樹が此処にいるなんて、冷静に考えれば万が一もないことだ。
だって此処は神の住処とも呼ばれるゴッド派の聖地。ビュー・ガーデンに属している亮樹が簡単に入れる場所でも、まして無事に出られる場所でもないのだ。
それでも砂乃がこうやって走るのは、頭で考える事とは裏腹のことを、心が、体が叫ぶから。
あたしがりょーじゅを、見まちがえるわけがない。
と。
りょーじゅ。
「りょーじゅっ……、きゃっ!」
その名を呼ぼうとすれば、強風が邪魔をした。
ふと見上げれば、一体のマイブが空を駆け巡る。
「りょーじゅ……」
あれは、りょーじゅだ。りょーじゅだったんだ。
きっとほんの十数メートル差まで距離を縮めていたのに、砂乃が彼に触れることも、まして会うことも結局叶わなかった。
彼が此処にいた理由は分からない。だけど……。
「……むかえに来てくれたわけじゃ、ないんだよね」
その声は、わずかな絶望の色を残していた。
*
「どういうこと」
御の部屋へと入り込めば、棗は我が物顔で壁に背をつき、部屋主へと問い掛けた。
「何がだ」
「……何が? そうやってとぼけてるつもり? 何人かの騎士が見てるんだ。柏葉亮樹が、この辺りの部屋の窓から飛び出したこと。この使われていない部屋の中、何処に誰がいるかも分からない柏葉亮樹が、どの部屋でも有意に開けると思うかい? ――君が彼を逃がしたの」
棗の鋭い眼光が、まっすぐに御を睨んだ。
「俺を疑うか」
「疑いたいわけじゃないよ。だけど、他に可能性がない」
その言葉に、御はいくらか迷った。
本当のことを話してしまおうか。けれどまだ、亮樹はそう遠くまで逃げていない。
今事実を話せば、憤った棗が、無理をしてでも亮樹を殺しに行きかねないというのに、むやみに口を割る事が御には出来なかった。
だからつい、はぐらかすように冷たい言葉を返してしまう。
「だったら、どうする?」
「っ、君は僕を裏切るのかい?」
切れ長の目を大きく剥いて、棗は訊ねてきた。裏切る。棗はそれを、何より嫌う人間だった。
どんなに自分勝手に生きていても、それに便乗してくる人間がなぜかいる。
古楽や森嵜はまさしくそのいい例だが、御は違った。
彼は父の後を継いで神の代行人になっただけで、決して棗と同じ意見を持っているわけではない。
むしろ、御と棗は正反対だ。
そんな彼が、なぜか御にだけこうして仲間意識を持ってくれる。それが原因かは分からないが、御もなぜか、こんなに意見が食い違っても、棗の敵に回る気にはなれなかった。
――あんたいつか、ビュー・ガーデンに来たらいい。
亮樹のあの言葉に魅力が無かったわけではないが、恐らくそれは、実現する事の無い“夢の話”だ。
「御っ!」
と、考えすぎたのか、黙っている御に痺れをきらした棗が叫ぶ。
頭で冷静に言葉を紡げればいいものの、なぜか棗に優しい言葉をかけてやることができない。
「静かにしろ。姫愛が起きる」
「……君はそんなに自分のシスターがかわいいかい?」
「少なくともお前が思うよりはな」
「シスターは兵器だよ。それが分からないようじゃ、君は所詮、単なる平民でしかないってことか」
「構わん。俺は、神に対する夢話を信じる、平民でいたって構わなかった。だけれど、平民達が望む世界を創れるならばと、父の跡を継ぐ気になった」
くっと、棗が息を呑んだ。御に食いかかりそうなのを何とか耐えたのだろう。
「そんな事は聞いてないよ。どうでもいい」
聞いていないというよりは、聞きたくないと、そう言いたげな口ぶりだった。
棗には棗の信念がある。たとえ世界中の全てが彼を批判しても、彼の中でのたった一つの真実だ。
恐らく棗は、自分の信念を覆される事を一番に恐れている。
そしてそれが出来るのが限られた人間で、果たして誰なのかも、もう気付いている。
時々、棗が小さな子供と同じように御の目に映るのは、恐らくそういう理由からだ。
それを分かっていて聞いてしまう自分も、十分子供に思えるが。
「柏葉亮樹は、強かったか?」
ふと棗は唇を結んだ。そして次の瞬間には、そこに楽しげな弧を描く。
「強かった? フン、簡単に怖気づいたよ。あんな弱い人間初めてだ。まあ、何もかもをゴッドに奪われてきた人間だ。ある意味、一番神を怖がっている奴かも知れない」
「何か話したのか?」
*
階段を駆け上がった踊り場のすぐ先は御の部屋だ。
自分の部屋に戻る途中、砂乃は御と棗の声を聞きつけると、つい部屋に近づいて聞き耳を立てた。
飛び降りるのは簡単でも、飛び上がる事は、さすがに最上階では難しい。地道に上り詰めていたところを、調度二人の声が聞こえたのだ。
盗み聞きなんて最低だ。だけど、
今日一日、一度も会いに来てくれなかったナツメサマ。その理由が、分かるかも知れない。そう思えば、砂乃の足は、もうそこから動かなかった。
「何か? ああ、言ったかも知れないね。――麻生槙那は殺してあげたって」
「麻生槙那……?」
「柏葉亮樹の大切な親友だよ。あれは、僕がこの手で殺してあげた。もちろん、彼の友人だと知っていて」
――え?
もう此処へ来てから、砂乃は自分を疑いっぱなしだった。
知りたくなかった真実。それはこうも無情に、彼女の中に流れ込んでくる。
この先は、聞いちゃいけない。きっと砂乃の聞きたくない話に決まっている。
足が動かないのは、竦んでいるだけ。
「何故、柏葉亮樹を傷つけようとする」
「邪魔だからさ。彼のような人間がたくさんいては、何匹シスターを作ったって、また諭して、単なる人間にしてしまうかもしれない。ああ、人間じゃなかった。単なる――使いようの無い老廃物」
段々、棗の声が冷たく響くようになってゆく。
「最低だな、お前は」
「ふん、なんと思われようが構わないよ。僕は……シスターなんて、必要ないと思う。あんなもの、何故少女なんて兵器にしようと考えてしまったんだろう? もっと感情の持つ心配なんて無い、ロボットでも創ったほうが良かったんじゃないのか?」
「創ったのは……先代であるお前の父親だろう」
ふと、棗は視線を床にやった。
無意識だろうが、掌が握り締められている。
「あんな男、父親だと思ったことは無い」
棗の父については、御もよく知っていた。
その全身全霊を、シスターと、ゴッドに尽くした人だ。
「だけど、本当に今日は気分が悪い。……いいや、あの女を連れ帰ってきてからずっとだ」
「棗」
「君は本当に、シスターを兵器とは思えないんだね。合わないんじゃないのかい、神の代行人? さっさと子供でも作って、代替わりでもしたらどうだい?」
もちろんその言葉が本心ではないことも、御は知っている。
残りの階段を一気に駆け上がると、砂乃は自室に入り床へと腰を落とした。
前方についた手を握り締めようとすると、ザラザラとした埃も一緒に指につく。
――あの女を連れ帰ってきてからずっとだ。
あの……女?
――もちろん、柏葉亮樹の友人だと知っていてね。
ナツメサマが、殺した? りょーじゅの……友達を……。
――俺に聞くな。何処にいたいかは、砂乃が決めたらいい。
色々な言葉が、頭の中をリフレインする。
何が正しいのか、何を信じたらいいのか、もう砂乃には分からなかった。
――用があるときは僕からお前の部屋に行くから。この部屋からは絶対に出ないようにね。
――お前は、本当に信じられる者を……見つけるべきだ。
「――っ、そんなことない!」
そうだよ、りょーじゅの友達ってことは、ナチュラル派……だもんね。敵だから、しかたなかったんだ。りょーじゅの友達ってことは知ってても、敵だったから……。そうだよね……ナツメサマ!
少女の声にならない悲痛の叫びが、痛々しく夜空に消えた。
***
朝、眩暈がしそうなほどの陽光が、室内へと入ってきた。しかしそれには目もくれず、亮樹の視線は虚ろに室内を見つめている。
右手に巻かれた包帯は、今朝方緒叶に手当てしてもらったものだ。
バイク型飛行機体の速度で、アジトに戻るまで六時間弱。神の住処を出た時は、もう月が傾いていたから、此処へ戻れたのは明け方だった。
一睡もしていない。
虚ろな瞳をゆっくり動かし、ベッド際の時計を見る。焦点を合わせれば、指している時刻は昨日自分が出かけた時間に近かった。
と、不意にノックの音がする。
亮樹の返事を待たずに、ドアはゆっくりと開かれた。
「亮樹くん」
「緒叶……」
「腕……大丈夫?」
静かな声が心地いい。
腕の痛みは、この数時間のあいだでいくらか引いていた。
「大したことねえよ。さすがに昨日はちょっと無理しすぎて痛んだけど、一晩寝れば、どってことない」
一晩寝れば――そんな真っ赤な嘘に、緒叶はもうとっくに気付いているだろう。
それでも痛んでいないのは本当なようなので、特につっこんだりはしない。
もしも神の代行人との戦いが明日だと言うなら、押さえつけてでも寝れと言うけれど。
「そう、よかった。……何を聞いたの?」
急に表情を引き締めるものだから、亮樹はつい言葉をのんでしまった。
「シゲと、獅堂さんが向こうで待ってる。話してくれるよね」
「うん……」
亮樹の声を聞き取ると、緒叶は部屋を出ようとした。
「待って緒叶!」
振り返る彼女に、亮樹は拳を握り締めた。言わなくちゃ。例え不本意に知ってしまった事実でも、その責任は果たさなくてはいけない。
「俺……俺、さ」
「……どうしたの?」
緒叶の優しい声が、逆に亮樹の罪悪感を煽る。
意を決すると、亮樹は荒々しくも頭を下げた。
「っ、ごめん! 俺……棗から、聞いた」
「棗……? 神の代行人の、棗、様? 何を……?」
元ゴッド派の緒叶には、その名前は知っていて当たり前のものだ。あの頃は、まだ先代との代替わりをしたばかりで、あまり関わる事はなかったけれど。
「あんたのこと」
「わたしの、こと?」
きょとんと首を傾げるも、亮樹の様子に不安を覚え、さらに相手が神の代行人だという事実にハッとする。
「待って亮樹くん、それって……!」
「ほんとにごめん!」
緒叶の話を最後まで聞かないうちに、亮樹はただ謝った。
背筋が凍る思いとは、このことを言うのだろうか。まるで金縛りにでもあったかのように、緒叶はその場から動けなくなっていた。
それでもばれたからにはしょうがない。
それに加え気がかりなのは、亮樹が自分よりこの事実を重く受け止めているのでは、ということだ。
「そっか、聞いたのね」
亮樹は頭を上げない。思ったとおりだ。
すうっと深呼吸すると、緒叶は緩く笑みを浮かべた。自分が彼にかけてあげなくてはならない言葉は分かっている。
「いいよ」
「!」
「いつかは、話さなくちゃいけないことだと思ってた。砂乃ちゃんにはもう少し話してるし、シゲも全部知ってる。――亮樹くんにだけ話さないつもりだったわけじゃないもの。いつかは話さなきゃいけないってわかってた。……でもわたし、逃げてたの」
――確かにわたしも逃げてた。でも、みんなにとって一番いいことだけは、いつだってわかっていたつもりよ。
ああ、あの言葉は、そういう意味だったのか。
逃げていると言いながら、緒叶が何も話そうとしなかったのは、それが亮樹にとってこんなにも重い事実だからだ。
彼のように、過去を話せば当時の傷がよみがえり、自分自身が傷つくからではない。
「俺は、それを今聞くべきじゃなかったんだ……」
緒叶に自分の過去を話さなくてはいけないとか、そんなことは二の次で。
まだまだ子供の亮樹の精神には、耐えることのできないものだったから。
ゆっくりと顔を上げると、緒叶が優しい表情のままに微笑んだ。
「だから、また話すわ。……それまでは、あなたの中にしまっておいて。しまえないほど重いことだったら申し訳ないけど、わたしだって分かってるから。亮樹くんにも、わたしに話してくれてないことがあるってこと。そしてそれを、君はまだ、わたしに話せないってこと」
「緒叶……」
「わたし達にはもう少し時間が必要だと思うの。お互いに、話せると思うときがきたら話そう」
それはつまり、亮樹から彼の過去については聞かないという事だ。
亮樹の顔が落胆の色に染まる。自分の傷を掘り返さなくていいと言われたことはありがたい。しかしそれは、自分達の関係を一変させる。
“対等な関係”その概念は塵となり、亮樹は一生緒叶に負い目を感じて過ごさなくてはいけないのだ。
微笑を笑顔に変えて、緒叶は続けた。
「大丈夫よ。わたし、こう見えても結構タフだもの。――……わたし達は、別に知ったから話さなくたって、知らないから教えてくれなくたって、対等な関係なんだよ」
対等、その言葉を緒叶から聞けば、亮樹の心はいくらか晴れた。
棗から聞いてしまった事によって、二人の関係が全く変わらなかったと言ったら嘘になる。それでもその変わり方が、いい方に転がる事もあるのだと、亮樹は思えた。
「ありがとう。緒叶……」
睡眠不足が原因か、足がとても重い。かと思えば浮いているような気分にも襲われる。それでもなんとかモニタールームまで行くと、滋と獅堂が、温かな態度で迎えてくれた。
「おお、亮樹。昨日は悪かった。まさかお前がこんなことになると思っていれば……。もう少し年配の男をやるべきだったか、やはり」
「気にしないでよ獅堂さん。俺が行くって言ったんだ、それに……。いろんな事が知れて、よかった気がする」
「それで。何を聞いてきた?」
ふっと滋が口を挟んだ。
時計型通信機を繋いでいたとはいえ、全ての情報を明確に聞き取っていたわけではない。
「その前に、シゲちゃん。ありがとう、あの時、俺を、励ましてくれて……」
照れくさくて途切れ途切れではあったが、確かに礼を言う事が出来た。
そんな亮樹を微笑ましく思えば、滋は優しげな笑みを浮かべる。
「何だいきなり。そうかしこまって感謝されると、ちょっと気持ち悪いぞ」
「なっ、なんだよそれ! せっかく俺が、ちゃんと礼言ってんのに……」
「無事に帰ってきてくれてよかった。亮樹……」
右腕を見れば、決して無事なんかではないのだが、それでも今は、こうして再びお互いの顔をみることが出来て嬉しい。
「当たり前じゃん。俺の居場所は此処なんだから、何があったって、俺は此処に帰ってくるよ」
力強くそう言えば、ふと滋の表情が和らいだように見えた。何だかんだで、張り詰めていたのだろう。
三人の様子を一度見回せば、獅堂は亮樹に向いた。
「そろそろ話を進めるぞ。亮樹、お前が昨日聞いてきた事、とりあえず分かる限りで話してくれ」
モニタールームは十人くらいが囲める大きな丸机と、いくつあるかは数えたことのない回転椅子で部屋が埋まっている
近くの椅子を引いて腰掛けると、亮樹は頷いた。
「うん……でもマジ、何も聞けてないけど……。とりあえず、三日後……いや、もう一日経ったから明後日だ。奴らは南の端の島を攻撃する。そしてそこに、融合人間を連れて行くのも間違いない」
「……二日後か……」
ふと、獅堂の表情が重くなった。きっと考えていたより事態が急で深刻だったのだろう。
「どうするんですか? 一体何人のビュー・ガーデンが来てくれるのか分からないけれど融合人間って、――砂乃ちゃんの力を見てきただけで、わたしには……ううん、わたし達には大体分かる。あれは……決して、人間の敵うものじゃない」
「ああ、それと、砂乃は風だから俺たちはそこまで思ってなかったけど……あの、神の代行人の一人の棗ってやつ……一応、砂乃の元パートナーだけど……あいつは新しい融合人間を使ってた」
「何? ならば何故、此処にいた江奈原砂乃を連れて帰った」
「俺たちの手の内に融合人間がいることが厄介だから。砂乃をどうするつもりなのかは分からなかったけど、だけど……あいつの今の融合人間は、なにか獣との融合体だ」
「獣……?」
「何だったんだろう、あれ……」
獅堂の目線が、亮樹の右腕に移った。
「その腕も、融合人間にやられたんだな」
「うん」
俯き加減に頷けば、ごくりと唾を飲んだ。顔を上げ、滋と緒叶を支点に三人を見る。
「俺さ……。砂乃を、連れて帰ってきたい」
それは立派な意思表示だった。決して変わることのない決心だ。
それをわざわざ滋達に言ったのは、もし自分が再び迷いそうになったとき、この決意が確かに胸にあることを、思い出させて欲しいからなのかもしれない。
「亮樹……」
滋が自分の名前を呟くと、あまりにその意見は突拍子すぎたかと、亮樹はあたふたした。
「あ、あいつが、あっちの方がいいって言ったって、向こうにいる連中は、砂乃のこと考えてる奴なんてほとんどいない。特に、あいつが一番信じてる棗が、一番砂乃を裏切ってる! あんなとこ、砂乃にとって、いい場所じゃないから」
「……わたしも、砂乃ちゃんに帰ってきて欲しい」
「緒叶……」
「確かに、この家に砂乃がいないと、なんだか物足りないしな」
「シゲちゃん……」
「融合人間は被害者だ。保護するのは、立派な俺たちの役目だろ」
二人に便乗して獅堂もこの意見に乗ってくれた。
強くなりきれない亮樹の言葉を、三人はしっかりと心に刻んでくれている。
「一番いい場所にいさせてやるのが、一番の幸せなんだ」
滋のその言葉に、亮樹はただ強く頷いた。
二日後の計画を大まかに話すと、獅堂は椅子から腰を浮かせ扉へと向かった。
計画といっても、ナチュラル派のアジト付近にそれぞれ配置され、現れた神の代行人の行く手を阻むというだけだ。
獅堂を筆頭とした、爆発物処理班が、大方事前に仕組まれているだろう爆弾を見つけ処理する。
ナチュラル派に気付かれないようゴッドを撃退するという、口で言うには簡単だが、実行するには生半可ではない計画だ。
「俺たちに集団行動が向いていない事は分かっている。だから、作戦などはもう何もない。後は……健闘を祈る! どうか……ゴッド派の作戦を阻止してくれ」
「ああ。分かっている」
亮樹と緒叶も同じく頷く。作戦の決行が、刻一刻と迫っていた。
「また此処で会おう……!」
どうか此処での会話が最後にならないよう、彼等は願った。
***
小鳥のさえずりが屋内まで響いてくる。
しかし少女の耳に、それは届いていなかった。砂乃もまた、この二日間まともに睡眠をとっていないのだ。
古びた階段を上る音は廊下の軋む音になり、やがて砂乃の部屋のドアを開ける音へと変わった。
大好きだった主が、何知らずな顔で入ってくる。その後ろには、銀髪の幼い少女もいた。
「ナツメサマ……」
「おはよう砂乃。昨日はよく眠れたかい?」
問い掛ける少女の目が赤くても、この男の視界にそれは入らない。
「っ、ぁはい……」
「そうか、よかった。実はね、明日……南の離れ島を攻めるつもりなんだ」
「え?」
「あそこがナチュラルのアジトだということを、お前は知っているかい?」
「……いいえ」
素直に首を振る砂乃に、棗も同じく頷いた。
「そうか。僕たちが生きていくうえで、いや、ゴッドの願いを叶えるうえで、ナチュラル派はとてつもなく邪魔だ。殺してしまうべきなんだ、神を信じる事の出来ない人間は。……ねえ砂乃、お前にはそれがよく分かるはずだ。神の子というだけで、奴らはお前を人とは違うような目で見る。辛かっただろう? まるでこの世のものでは無いように見られるのは。君の存在を認めてくれる人間だけが、傍にいればいいと思わないかい? ――共に行こうよ。そしてナチュラルを滅ぼそう。大丈夫、柏葉亮樹や、上条緒叶たちだって、もしも僕たちの気持ちが分かるのなら、生かしておいてあげるから。さあ砂乃、また一緒に戦おう」
虚ろな顔で、砂乃は棗を見た。人間がこうも簡単に嘘を並べられる生き物だと、今までは感じた事もなかったのに。
今の少女には、彼の言葉が嘘しかないように思えて仕方ない。
それでも砂乃は、必死に信じていたのだ。――昨日までは。
昨日、一日砂乃は待っていた。もしも棗が自分に会いに来てくれたなら、彼はちゃんと砂乃のことを考えてくれている。色々な事実を踏まえた上で、心を痛めながら亮樹の友達を殺したのだ、と。
しかし棗は会いに来てくれなかった。自分の言葉を砂乃に聞かれたとも知らずに、脆い少女の心を救ってはくれなかった。
そのくせ、今はこれだ。ナチュラルを殺せ? 自分を認めてくれるもの以外は、全て排除しろと、この男は言うのか。
十三年間、砂乃にとって棗は全てだった。
彼の言葉は嘘かもしれない。怒りと不安をこんなにも抱えているのに、僅かに信じて希望をもってしまう自分は愚かだと思えて仕方ない。
棗の後ろで佇む少女を一瞬視界におさめ、砂乃は訊ねた。
「……あの子は」
砂乃の視界を辿り好桃を見ると、棗は思い出したように頷いた。
「ああ、彼女は好桃。お前がいない一年間、僕が共に戦ってきた」
「え?」
「とても優秀な子だよ。彼女とお前がそろえば、きっと強い力を発揮できると思う」
見つめるは床。確かに砂乃だって、この一年間亮樹とパートナーを組んできた。その自分に言えたことではないのかもしれない。
だけど、思わずにはいられなかった。
――これは、裏切りでは無いか。
「ナツメサマの、新しい、パートナー……?」
「新しいパートナーなんて、そんな風に思うことは無い。二人とも、僕の為に戦うものだ。二人とも大切にしているんだよ」
「……ナツメサマのために……戦うもの」
「そうだ。神の子は神の代行人の為に戦う。もはや下僕だろう?」
ヒュっと、砂乃は息をのんだ。
下僕、そう言ったのだ。この男は。
かつて砂乃を最強の武器にしようとしたこの男は、砂乃に対して、お前は神の子の中で一番神に近い、と諭した。共に戦おうと誓った。
パートナーとして。
パートナーとは、共に対等な関係を築いてこそ、意味を持つ言葉ではないのだろうか。
主と下僕。思えば最初から、砂乃と棗はパートナーなんて関係を築けてはいなかったのだ。
それに気付いてしまっても、まだ心が否定する。
だって棗の傍(此処)を失えば、砂乃の居場所は何処にもない。
「砂乃どうしたんだい? 久しぶりに、その力を見せてはくれないかい? 明日の為に、少し修業をしようじゃないか」
逆らってはならないと、砂乃の中の砂乃が叫ぶ。
頷けば、棗はまだこうして笑ってくれる。傍にいてくれる。
優しい棗。この時砂乃は、まだ彼へのそんな印象を捨てきれずにいたのだろう。
話せば分かってくれると、信じていたのだ。
「いやです」
「何?」
「あたし、すなのは! 人を殺すのはもう……いやです!」
まるで夢から覚めたように、棗の表情から笑みが消えた。
「どういうつもりだい? その言葉は」
戻らない一年間が、走馬灯のように駆け巡る。ああ、もう、何もかも失うのだろうか。
「一年間、りょーじゅや、おかのやシゲさんといて、すなのは……人が死んでくのやだって思った。――ゴッド派もナチュラル派も、いっしょに生きて行けるんです! だからナツメサマ、そうやってすぐ、自分達のこと分かってくれない人は殺しちゃうとか、そういうのやめてください! お願いします! ……ナツメサマがむかえに来てくれたの、うれしかったけど、でも、ちがう。一年前、ずっといっしょにすごしてくれたナツメサマと、今のナツメサマはちがう!」
はあっと息をつけば、ゆっくりと棗を見上げた。
「違わないよ」
それと同時に、今までに無い冷たい声が耳を掠める。
「違うのはお前だ。お前が変わったんだ。柏葉亮樹……いや、ビュー・ガーデンなんかと馴れ合ううちに、お前は感情を持ってしまった。全く使えない。だから嫌だったんだ。お前がそうやって感情を持ってから、僕の思い通りには何もならない。もう、戦う事も出来なくなったのか?」
「っ、だって……! むやみに人を殺すのは、よくないって……!」
「敵なんだ。敵は殺すのが当たり前。お前はそうやって、“僕の周りの僕の敵”を殺してきたじゃないか」
「だけど……!」
「もういいよ。まさかそこまで使えなくなっているとは思わなかった。……もうお前は、用無しだ」
棗の声が冷たく砂乃の中に流れ込んでくる。
用無し。はっきりと言い渡されたこの言葉が、こんなにも心に重く圧し掛かるのだと、砂乃は今まで知る由も無かった。
それだけ自分が幸せな世界にいたのだと、改めて思い知らされる。
何もなかったように少女に背を向けると、棗は元の優しげな声音で言葉を紡いだ。
「ごめんね好桃、待たせたね。行こうか。……役に立たない奴は、じきに廃棄する」
しかしその声は砂乃に向けられたものではない。
むしろ自分ははっきり言われてしまったのだ。
もう、要らないと。
怖い。
正直それは初めて感じる感情だった。喜怒哀楽を覚えた砂乃は、それを自我と本能により使い分けていた。
それでもこんな気持ちには、今までなったことがない。
行くところがない。頼る人がいない。棄てられる……!
心でそう感じる前に、体は棗の腕を掴んで引き止めていた。
「待ってくださいナツメサマ! これ……! ナツメサマに言われて、すなの、ずっとこのペンダント持ってました! ナツメサマがこれを持っていたら、必ずむかえに来てくれるって約束してくれたから……だからっ!」
首から下げられた小さなクリスタルを掴んで必死に訴える。
少女の胸のそれを見ても、棗の表情は変わることを知ろうとはしなかった。
「こんなもの、一年間も大事に持っていたのか。いや、持っていてくれなくては都合が悪かったんだけどね」
砂乃の顔に絶望の色が浮かんだ。
棗の言葉の意味は理解できなくても、その言葉の端々に込められた皮肉の意は理解できる。
そんな砂乃に、彼は嘲笑した。
「僕がお前に、お前を迎えに行く為に、これを渡したと、今も本当にそう思えるかい?」
嘘だ。これは、夢、夢に違いない。
「お前が僕の手の届かないところに行ってしまって、ビュー・ガーデンでもナチュラルでも、どちらかの味方になってしまうのはとても厄介だ。お前が奴らを信じきる前に、僕はお前を連れ帰ってくる必要があった。だからそれを渡した」
どんなに棗の口が、声が冷たい言葉を放っても、砂乃にそれを受け止める事はできない。
遠まわしな説明が面倒くさくなったのか、一度舌打ちをすると、棗の声と瞳は更に冷たくなった。
「分からないかい? 本当に馬鹿だな、神の子は」
砂乃が握り締めていたクリスタルを横から奪うと、荒く引いて紐から千切りとる。
小さく悲鳴を上げながら、砂乃はその行為を凝視していた。
「発信機と盗聴器……、仕掛けてあるんだよ、この中に。お前が今まで柏葉亮樹達と会話してきた言葉も、何処へ赴いてきたかの情報も、僕は全て聞いていた」
「ナツメ……サマ」
消え入りそうな声でその名を呼ぶ。
これが、砂乃が救いを求める最後の瞬間だとも知らない棗に、その声は届かない。
「だけど、もう用無しだ」
ぐぐっと手に力を込めれば、案外それはすぐに割れ、破片は床へと散った。
息をのんで、砂乃は床を見る。
たった一つの棗との繋がりが、こうも簡単に断たれてしまうと、どうしてこの幼き少女に想像できただろう。
へたりと床に沈めば、震える手で破片に触れる。もう、何もかもが戻らないのだ。
「お前のことはどうしてくれようか。だけどじきに……死ぬ事になるのだけは覚悟しておいてくれな。お前はゴッド派について知りすぎている。元々はゴッド派で、十三年間も生きてきたんだからね。そんなお前が、激しく邪魔だ」
「ナツメサマ……」
恐怖心がふつふつとこみ上げてくる。
何もかもが怖くて、もう砂乃は耳を塞ぎたかった。
それでも、体が自由に動いてくれない。
「柏葉亮樹も上条緒叶も、上条滋もみんな死ぬ」
「! ナツメサマ!」
「みんな僕が殺す。ナチュラルも滅ぶ。世界は、僕が神になって支配するんだ。……お前はもう、必要ない」
それを最後に、砂乃の前から棗の姿は消えた。
***
空は晴天。この青空の下で惨いことを行おうとしている人間が本当に存在するのかと、亮樹は疑いたくなっていた。
それでも、こうして着々と自分達が準備を進めているのだから、その真実に狂いはないのだろう。
ふと、亮樹は額のバンドに触れる。これから向かう先は、亮樹にとって終わりの場所で、始まりの場所だ。
「……行ってくんね、父さん。見ててよ、成長した俺のこと。母さんと二人で、さ」
「亮樹、準備できたか?」
滋からかけられた声にハッと我に返ると、亮樹は明るく振り返って彼の元へと駆け寄った。
「うん! 大丈夫、……悪い待たせた」
「いや、大丈夫だ。行くぞ」
「うん」
調度そう言って自動車型飛行機体に乗り込もうと振り返ったときに、勢いよくドアの開く音がした。
「亮樹くん、シゲ!」
肩につかない短い髪を風に流しながら、緒叶が二人の元へと近づいてくる。
「緒叶」
「、本当にわたし……行かなくていいの?」
不満げというよりは不安げに、彼女は訊ねた。行けないことが不満なのではなく、二人の無事を不安がっているのだ。
「お前には此処でやることがある。向こうの事は俺たちに任せろ」
「……別に心配してるわけじゃ……心配はしてるけど、あなたたちが、何かあるなんて思ってるわけじゃないわ。だけど……これ、持って行ってほしい」
差し出した掌には、小さな石で作られた時計型通信機用のベルトが二つ乗せられていた。
それは現代に伝わるお守りで、鮮緑色を基調としているものには、危険から身を護る効果があると言われている。
「これ……。緒叶あんた、昨日夜遅くまで起きてたと思ったら、こんなもん作ってたのか?」
「っ、こんなもんなんて、言わないでよ。……要らないなら、いいけど」
「いや、ありがとう」
不服げに言葉を返してくる緒叶を流すようにそう言うと、亮樹は左腕の時計型通信機を外し、ベルトを交換した。
同じように滋もベルトを交換する。
そんな亮樹を見ながら、緒叶の視線は彼の右腕に集中していた。
「次はそんな風になって帰ってこないでね」
「う……。肝に銘じとく」
次は亮樹と滋を視界に収め、緒叶は言う。
「気をつけて。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
二人ははっきりそう答えると、自動車型飛行機体に乗って空をかけた。
その姿が見えなくなるまで緒叶は見送り、そして祈る。
「……三人で、帰ってきてね……」
***
あれからの約一日を、砂乃は何もすることなく、まして感じることもなく、ただ呆然と過ごしていた。
不意にギイイと扉が開かれると、昨日の恐怖がよみがえって体が震える。
しかしかけられた声は、気が抜けるほどあっけらかんとしたものだった。
「砂、乃?」
顔を上げれば、その先にはきょとんとこちらを見つめる少女の姿がある。
少女といっても、その姿から砂乃よりは年上だろう。
水色の髪が背中まで流れる、十六、七歳の少女だ。
目の前の少女を“砂乃”だと認めると、あとは臆することなく砂乃の体に抱きついた。
「砂乃? やっぱり、砂乃? ……砂乃!」
ピクリと体が強張る。
「御様に、ここにいるって聞いたの。いた……! 本当にいた! 久しぶり!」
御様、その言葉に、砂乃の中の薄い記憶がよみがえった。
一年前、まるで姉のように砂乃を可愛がってくれた神の子の存在。
「きあら……? きあらなの?」
僅かに体を離して、目の前の少女が薄く笑む。
「姫愛よ」
その声に、今まで張り詰めていた気持ちが一気に解ける。
安心したように砂乃も笑んだ。
「久しぶり……」
久しぶりの再会を大いに喜べば、姫愛はただ幸せそうに笑った。
「此処に来てること、もっと早く知ってたら、もっと早く会いに来た」
「うん……」
「砂乃、元気ない?」
「え?」
「目も赤い……。どうした?」
砂乃は言葉に詰まった。主に棄てられてしまったなど、言えるわけがない。
きっと無駄な心配をかけてしまうし、何より心が、その事実を認めることに恐怖しているのだ。
姫愛と共に過ごしてきたあの頃、砂乃はこんな風にいろんなことを感じ取る事は出来ていなかった。
きっといつだって無表情だったろうに、そんな砂乃の変化を、姫愛はなぜか鮮明に感じてくれる。
「……言いたくないなら、いい」
ふっと顔を上げれば、姫愛はやっぱり、ただ優しく笑んでいた。
「姫愛、これから……ナチュラルと戦いに行く。だから……また後で、会いに来る。じゃあね、砂乃」
「待ってきあら」
さっさと部屋から出て行こうとした姫愛を、砂乃はとっさに呼び止めた。
一人にしてくれようとしたのが姫愛の優しさなのは分かっていたが、どうしても気にかかることがあったのだ。
「きあらは、人を殺して……平気?」
ナチュラルと戦いに行くということは、自然とそういう状況にもなりうるだろう。
その質問にも姫愛は、臆することなく答えてくれた。
「分かんない。姫愛には、人を殺すとか、よく分からない。でも……御様は喜ばない。禾夜とか朱夏とかは、喜んでる時もあるかも知れない。でも姫愛は……御様の喜ぶことをしたい。殺すとか、戦うとか……分からない、だけど。御様の為に、何でもする」
「……じゃあすなのは、ナツメサマのために、戦うべきなのかな」
「姫愛は、自分でそう決めた。砂乃、やりたくないならやらなくていい。砂乃が、一番したいこと、すればいい」
「すなのが一番……したい、こと?」
「一番一緒にいたい人……とか、一番、やりたいこと、とか、叶えたい未来……。よく分からないけど、砂乃の一番したいようにしたらいい。――じゃあ、姫愛行く! またね!」
たかたかと軽快な足音を立てて、姫愛は部屋を出て行った。
その様子を呆然と見ていた砂乃の脳裏には、姫愛の言葉がこだまする。
「すなのが……一番いっしょに、いたい人……」
それは誰だろう。もう誰も、砂乃を愛してくれる人はいない。神の子にとってはパートナーが全てだと言うのに、亮樹は自分から切り離し、棗には棄てられた。
それでも、誰からも見棄てられたこの状況で、砂乃が共に在りたいと思うのは――……。
――りょーじゅー!
――何その顔……そんなにすなのが来るのがめーわく?
――だって俺もう十八だよ? お子様にはわからない所にだって興味ある。
――すなの、子供じゃないもん。
――じゃあ赤ちゃんはどうやって出来るのか知ってる?
――し……自然に?
――はい、お子様ー。
最初に浮かんだのは、いつだって自分をのけ者にでもするように置いていく亮樹。
赤ちゃんの出来方を知らない砂乃を、お子様扱いしかしてくれない意地悪な男の子。
――りょーじゅはどうして、ビュー・ガーデンに入ったの?
――聞いちゃったから。父さんの本当にしたかったこと。
――りょーじゅのお父さんが、したかったこと?
――ゴッドとナチュラルが共存すること。
――りょーじゅは、お父さんのイシをつぎたいの?
――そんな立派なもんじゃないよ。ただ、親と子供って考え方とか自然と似てくるから。
次に浮かんだのは、初めて僅かながら心の内を語ってくれた亮樹。
だけどあの時だって、彼は砂乃の存在を忘れて、一人行ってしまおうとしてたんだよね。
別にそんなこと、今は怒りも湧かないけれど。
――砂乃は連れて行かない。
――あいつはまだゴッドを信じてるから。そんな奴を、連れてはいけない。
最後に浮かんだのは、初めて本気で、砂乃を引き離そうとした亮樹。
何処に行くにも彼と共に在る事を望んだ少女にとって、あれほど残酷に響く言葉は無かった。
それがどんな言葉であっても、裏切り者、と、そう言われたようにしか感じられない。
――りょーじゅは、すなのにそばにいて欲しい?
――俺に聞くな。砂乃の好きにしたらいい。
ねえ、りょーじゅ。あたしあの時、りょーじゅに答えてほしかった。“自分で”じゃなくて、“りょーじゅ”に答えを出して欲しかったの。そしたらすなのは、例えナツメサマがどんな風に変わっていようと、彼に着いていけた気がする。
……ちがう。
そう、違うのだ。砂乃は確かに亮樹に答えを求めたが、欲しかったのは、他でもないたった一言。
――止めてくれる人がいたなら、わたしは命に変えてでも、あの子を実験材料にはしなかった。
棗と共にガウから上条家を離れた時、ふと脳裏を過ぎった緒叶の言葉。あの理由が、砂乃には漸くわかった。
止めて欲しかったのだ、自分は、亮樹に。
傍にいて欲しいかと聞いたあの時、たった一言、うん、と答えて欲しかったのだ。
そうすれば、砂乃は棗の手を振り払い、亮樹の元へ駆けてゆけた。
少女の願いは、たったそれだけだった。
だけどそんな些細な願いももう叶いはしないから、少女の胸はただ痛む。
――一緒にいたい人とか
ふと姫愛の言葉を思い出した時には、砂乃は部屋を飛び出していた。
その手には、棗によって割られたクリスタルの破片が、固く握られている。
だって気付いてしまったから。自分の気持ちに。どんなに亮樹が砂乃を嫌っていたとしても、砂乃は彼と共にいたい。
亮樹と、緒叶と滋と……ビュー・ガーデンにいたいと、そう思えるから。
――一番やりたいこととか
死んで欲しくない。
亮樹達と一緒に生きたい。ナチュラルの人たちだって、だれ一人として、死んで欲しくなど無いのだ。
長い階段を一気に駆け下りる。時折足がもつれたが、無重力に近い体質のおかげで、なんとか転ばず走る事が出来ていた。
――叶えたい未来とか
ゴッドとナチュラルが共存できる未来を、すなのだってつくりたい。
それがりょーじゅの夢なら、それはもう、すなのの夢なんだよ。
だって、りょーじゅだけだったもの。すなのを兵器なんて思わず、十四歳の女の子として扱ってくれたのは。例え油断させるためだというナツメサマの言葉が本当でも、そうやってすなのと接してくれたのは。
パートナーという関係が築けたと思えるのは、りょーじゅだけだもの。
階段を降りきると、外に続く扉はすぐそこだ。今のペースのままに走り続け、のりに任せるように勢いよく扉を開けた。
辺りを見回すが、もう誰のけはいも無い。
と、突然突風が辺りの木々を揺らした。
ふと見上げれば、ガウが上空へと上り詰め、今にも発進しようとしている。
――間に合わない!
「待って!」
追いかけようとがむしゃらに走ったが、思いは虚しく、足がもつれた。
今度は重力に抵抗する事ができず、流れるままに地に突っ伏す。
草を握り締め上空を見上げた瞬間には、もうガウの姿は見えなかった。
「……っ、どうしよう……!」
手が痛い。握り締めたクリスタルの破片が手の平にくい込み血を滲ませる。
そこから痛みが広がって、もう全身が、辛いと悲鳴を上げていた。
だけどこんなこと、亮樹を失う痛みに比べたらどうってことない。
なぜなら今、亮樹が、みんなが死んでしまうと考えただけで、砂乃の心はこんなにも痛むのだ。
その痛みは、手の痛みなど優に超えている。
漸く自分のいたい場所が分かったのに、その居場所すら、いま棗に奪われようとしている。
大好きだった主。それに奪われようとする大切なパートナー。
失う恐怖が、幼い少女の心を、弄ぶように蝕んでいった。