表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/7

2.再会は涙とともに

 俺たちの出会いは、とめどない雨の日。出会った少女は何の感情も持たないような、光のない瞳をしていた。

 だけど、確かに切なそうな表情はいなめずに、その少女が父の仇の仲間だと気付いていても、俺は拒絶することが出来なかった。

 痛みも幸せも、喜怒哀楽全てを“知らない少女”。自分の名前しか知らないような少女は、俺たちの言葉をすんなりと受け入れた。

 ――わたしは緒叶よ。あなたは?

 ――……すなの。……えなはら、すなの。

 ――服、汚れちゃったわね。変えましょうか。

 素直に服を脱いだ少女を、緒叶はタオルで優しく拭いてやる。胸元の痛々しい刻印に最初は表情を歪めたが、深呼吸して笑顔を浮かべなおした。

 ――シャワー浴びるでしょう? あ、そのペンダントも外しましょうか。

 そう言って伸ばした緒叶の手は、冷たく砂乃に振り払われる。

 ――だめ! これはだめなの!

 何の感情もないのかと思われた少女の、最初の反抗。

 何がそんなに大切なのか、砂乃はそれから一年、一度たりともそのペンダントを外そうとはしなかった。


***


 亮樹は庭先へ出ると、無造作に置いてあるベンチへと腰掛けていた。

 腕に巻かれた時計型の機械は、ボタンを押せば映像が投影され、内蔵された小型マイクとスピーカーで会話が出来るという小型通信機――通称、CTCPだ。

 亮樹の親はナチュラル派だった。二年前に、ゴッドとの共存を持ちかけた父はゴッド派の連中によって殺され、女手一つで亮樹を育てようとした母も、過労とストレスで命を失った。

 天涯孤独となった亮樹は、父の友人であった滋にさとされ、ビュー・ガーデンへと入ったのだ。

 ビュー・ガーデンは独立部隊であるとともに中立部隊でもあった。どちらの言い分も確かに正しいところがあるから、どちらかだけに留まったりはしない。もちろん、どちらの言い分も間違っているからと、ビュー・ガーデンに属している人間も少なからずはいるのだが。

 分かってくれない連中が多いが、理解してくれている人間も確かにいた。

『よう亮樹、元気か? 俺は毎日のようにゴッド派の領地を攻めてるよ。……お前はいいよな。人が死ぬとこ、見なくてもいいんだから。俺もそっちに行けたら、毎日がそれなりに充実するのかな……』

 シーティーシーピーから浮き出される映像は、今朝早く届いていた通信が記憶されたものだ。

 そこにはナチュラル派の一般兵の軍服を着た、亮樹と同い年くらいの、黒髪の活発そうな青年がいた。

 彼の名は麻生槙那あそうまきな。亮樹がまだナチュラル派に属していた頃によく遊んだ、言わば幼馴染だ。

 お互いに敵とも取れる立場になったが、今でもこうして、時々連絡を取り合っている。

 ビュー・ガーデンの在り方を理解してくれる、亮樹の大切な人の一人だ。

 親がナチュラル派でなければ、ともにビュー・ガーデンに入りたかったと彼は言う。

 今も説得は続けてくれているようだが、かつては我が子のように可愛がってくれていた自分が、ナチュラルを抜けた途端とたんに掌をかえしたように白い目で見てきた人達だ。こちらへの派閥変えは難しいだろう。

 一人でも多くビュー・ガーデンの在り方を理解してほしいのに、結局は何も出来ていない自分が悔しくて、亮樹はその手を握り締めた。

「りょーじゅ?」

 突如背後からかかった声に、亮樹の肩が跳ね上がる。声と、自分を指す特徴的なその発音から、振り返らずとも相手が砂乃であることはすぐに判断できた。

 反射的に、亮樹は時計型通信機(CTCP)の電源を切る。それにしても、身軽なせいか砂乃の足音は聞き取りにくいのだ。

 溜息混じりに振り返れば、目を細めて少女を見た。

「おま……。いきなり声かけんなよ」

「気付かなかったのはりょーじゅじゃない」

「……そーですね」

 亮樹りょうじゅの隣に腰掛けると、砂乃すなのは微妙に浮く足をぶらぶらと振る。

 目の前には緒叶おかのが大切に育てた庭園が、季節を感じさせる花をつけていた。

「なにしてたの?」

「別に。ちょっと息抜き」

「ふーん」

 はぐらかされたように感じた砂乃は、興味なさげに返事をした。

 亮樹はいつだって、砂乃には深く教えてくれないと思う。表面だけを適当に話して、後ははぐらかす。

 それをまた深く追究しないのは、砂乃も全てを亮樹に話したわけでは無いからだ。

「ねえ、りょーじゅ。りょーじゅはどうしてビュー・ガーデンに入ったの?」

「何いきなり」

「聞いたことなかったから」

 そういえば話したことがなかったな、と亮樹は思った。別に話したくなかったわけではないが、特に話そうとも思わなかったのだ。

 同じ体勢に飽きてくれば、片足を椅子の上へと乗せた。

「シゲちゃんに言われたんだよ。親を亡くして居場所がない時に、父さんが本当に望んだこと」

 砂乃は、じっと亮樹の顔を見た。一度たりとも視線が合わないのは、彼が見ているのが過去の自分だからなのだろうか。

「りょーじゅのお父さんが……のぞんだこと」

 繰り返すように言葉を吐けば、僅かに亮樹が頷いたようにも見えた。遠くを見つめる彼の目が細められる。その手が、そっと自分の額に巻かれたバンドに触れた。それが亡くなった亮樹の父の形見だということだけは、砂乃も何となく知っている。

「ナチュラルとゴッドが、共存すること。戦争なんてばかげたこと、いつまでも続けるなんてできないから」

「ねえ。戦争の原因は、やっぱりすなのみたいなフューズなの?」

「……違うとは言えない。だけどそれだけじゃない。一番の原因は、周りを認めず、自分達だけが正しいと勝手に決め付ける人間達だ」

 人間達――それにはきっと、亮樹自身も含まれているのだろう。彼の目を見ていれば、そんなことも容易に想像できた。

「りょーじゅは、お父さんのイシを継ぎたいの?」

 まじめに訊ねてはくるが、砂乃が本当に自分の質問の意味を理解しているのかは、亮樹には分からない。

「そんな立派なものじゃないよ。ただ俺は……俺だけじゃないけど、親って裏切ることができないもので、子供にとっては自分そのものなんだよな」

「……よく分かんない」

 口をへの字に曲げて、砂乃は顔をしかめた。

「ん〜……親と子、ってさ、くせとか話し方とか、考え方とかも似てくるんだよ。まあ一番近い存在なんだから? ある意味当たり前だけどさ」

 あ、と砂乃が息をはいた。

 そこでようやく、二人の目が合う。

「お父さんがどうとかじゃなく、お父さんの夢がりょーじゅの夢なのね?」

「そういうこと」

 うすく笑った亮樹は、そのままベンチから腰を浮かせて歩き出した。

 いくつになっても、血のつながった家族は宝だ。だから亮樹には、無責任に槙那をビュー・ガーデンに呼ぶことはできなかった。彼がこちら側の人間になるということは、両親を裏切らせることになるからだ。

 そんなことは、いくら親友でもさせられない。

「ちょーっとりょーじゅ? どこ行くの?」

 その声に振り返ると、砂乃が数十メートルほど後ろにいた。

 砂乃はベンチに座ったまま、ということは、無意識に亮樹が歩みを続けていたのだ。

 というか、砂乃の存在を――

「忘れてた……」

 その言葉に砂乃が怒り拗ねてしまったのは、もはや言うまでもなかった。


***


 日本国の一番北、海を越えた先の大きな島が、神の住処すみか――神の代行人である四人のアジトだった。

 まるで古城のようなそこは、衣装と同じく古代ヨーロッパ城を真似て、百年以上前に建てられたものだ。

 その一室から、遥か遠くの島を見つめる一人の男がいた。

「シスターを迎えに行くらしいな」

 ノックと共に扉を開けたのは、同じ神の代行人のおんだ。

「情報が早いね」

 振り返るなり、白銀長髪の青年――棗は答える。感情をあまり表に出さない御は、やはり無表情だった。

「迎えに行って、その後はどうするつもりだ」

「どうって?」

「パートナー再結成か?」

「くっ……。おもしろいことを聞くね、君は。そんなこと、とうの昔に決まっている」

 ぞくりと背中に悪寒が走るのを、御は無意識に感じていた。

 何もない、電気もつかない薄暗いタイルの部屋に、ソファ以外は最低限の生活必需品しか置かれていない殺風景な棗の部屋。

 それはまるで、不要な物は排除していく彼の性格そのものをかたどっているようだった。

可哀相かわいそうな少女だな」

「可哀相? 愚問ぐもんだね。所詮はたかが兵器じゃないか」

 たかが兵器。棗の言葉に、つい御は表情を歪める。

 兵器としてでも、一度そうして人間の体を弄んでしまった自分達は、それなりの責任を持たなくてはならないのだ。

「戦わせるために俺たちが造り出したものであろうと、生きているんだぞ」

「だけど、僕たちの為に、彼女らは死ぬんだよ?」

 万物は神によって創られ、神のために生きるもの。

 ならば人間によって創られた融合体は、人間の為に生きるものだとでも思っているのだろうか。

 もとを辿れば、同じ人間だというのに……。

「そうそう、ナチュラルに引き込まれそうになっていた奴らは、神界へ行く儀式を行うよう手を施しておいたよ。まあ、結局は僕たちの娯楽なわけだけど、金はきっちり取るから安心してよ」

 娯楽。儀式と称して人が死んでいく姿を娯楽と例える神経は、御には理解出来ない。しかし、死刑に処される人間たちにも非があるし、まして神を裏切る行為に及んだ輩たちだ。そんな奴らを庇う義理は、御にもないと判断させた。

「それを助けたのは、シスターらしいな」

「そう、砂乃だよ。全く驚いたね。兵器のくせに自分から人を助けるなんて。あんな感情を持ったモノは、もう使い物にならないだろうなあ……」

 肩を竦めて言う棗に、御はまた嫌なものを感じた。

 “モノ”。棗にとって融合体は所詮モノなのだ。

「大体奴らも奴らだよ。一度敵に心を売っておきながら、まだゴッドに帰れるかもと期待を抱いていた。……全く、これだから愚民どもは嫌いなんだ」

「……シスターは、いつ迎えに行くつもりなんだ」

「さあ。でも、きっと遅からず時は来るよ。アレは今も、僕が迎えに来るのを待っている」

 そう言って笑んだ棗だが、その目は決して笑ってはいなかった。むしろ、もう砂乃の名前など呼びたくもないようだ。

 窓の閉じた室内に冷たい風が吹きぬけたのは、自分の気持ちのせいなのだろうと、御は無意識に思っていた。


***


 その夜は風が冷たかった。四季があまり感じられなくなった三十世紀でも、ナチュラル派の領域には、まだかすかな季節の名残がある。

 今は暦の上では五つ目の月だ。冷え込む夜は、なんとも言えず寒い。

 亮樹はベッドに潜り込むと、腕から外した時計型通信機を枕もとに置き、早々と通信を槙那のそれへと繋げた。

 通信中、と、十五秒ほど表示されると、そこに槙那の顔が現れた。

『おー、亮樹じゃん。久しぶりー』

「……」

『何黙ってんの?』

「あ、いや……まさか出ると思わなくて」

 無感情にそう言いながら、亮樹は思わず右上に表示されている電波時計を見た。一寸の狂いもないそれは、確かに十一時四十分を指している。

「だってほら、ナチュラルは軍隊だから、そういう規則はうるさいって、お前が前に言ってたんじゃん」

 そうそして、彼等の就寝時間が九時だということも、槙那が教えてくれたのだ。

『普段はね。明日は久々に休みをくれるらしいんだよ。家にも帰りたいし、色々と準備し

てたら、こんな時間でさ』

「休みって、珍しいな」

 亮樹の言葉に、槙那は心底嬉しそうに笑った。

『本当だよ。さっき急に言うもんだから大変でさ。本当は亮樹にも会いに行きたいんだけど……』

「分かってるよ。こっちまで来てる余裕ないもんな」

 亮樹達はナチュラル派の領域にアジトを置いているが、そこは本島から離れた島で、槙那と直接会うには遠すぎた。現代の交通機器をもってすれば、数十分で会えない距離ではないが、たまの休みである槙那にしてみると、その数十分も惜しいだろう。かといって亮樹も、明日は滋から話があると言われているので、本島まで赴いている時間は恐らくない。

『ごめんな。俺がビュー・ガーデンに行けたらいいのに』

「人それぞれ事情はあるよ。ビュー・ガーデンの存在価値を分かってくれてるだけでも、俺らにとっては十分だから」

 亮樹りょうじゅ達が一番恐れるのは、誰もが自分達しか信じられず、しまいには自分自身しか信じられなくなる事だ。

 人が人を信じなくなる分だけ、きっと戦争は激しくなる。

 それを引いても、亮樹にとっては昔からの友人が自分の在り方を認めてくれるのが、何よりも嬉しかった。

 ふと思い出したように、槙那まきなの目線が宙を仰いだ。

『そういえば、例のロウ……じゃない、フューズを拾ってからもう一年じゃん。どうなの、その後?』

 突如訊ねられた砂乃すなののことに、亮樹は頭を抱えた。

「日に日に自我が強くなってる気がするよ。それはいいことなんだろうけど、気が強くてわがままなところは、一体誰の影響なんだかな」

『お前じゃないんだ?』

 からかうように槙那が笑った。

 左手で頬を支えるように肘をつけば、亮樹は呆れたようにうなだれる。

「俺はわがままでも気が強くもねえよ。逆にあんなに人懐っこくもないな」

『確かにな。俺も一回その砂乃ちゃんとやらにあってみたいね』

「会えるよ。俺がそっちまで連れてってやる」

 槙那が笑う。それはどこか、寂しそうな笑顔だった。

『さすが親友。俺が会いたいっつったら、地の果てからでも会いに来てくれそうだな』

「冗談。そこまで俺は優しくないぜ」

『オーケイ。期待通りの返事だよ。じゃあまた近いうちに連絡が行くと思うから。じゃあな、亮樹』

 同じように亮樹が別れを告げると、通信はプツリと切れた。

 久しぶりに親友と話せたことに満足した亮樹は、そのまま蒲団ふとんをかぶり目を閉じる。

 例え天涯孤独でも、今の亮樹は決して一人じゃない。

 だからこそ、大切なものをもう失いたくない亮樹は、今目の前にあるものを必死に守ろうとしているのだった。



 翌朝、亮樹は滋と共にアジト内部のモニタールームにいた。

 先日他の地域に潜伏しているビュー・ガーデンの知人に会ってきた滋が、現在のゴッドとナチュラルの状況を話してくれる。

「最近はゴッド派の力が大幅に強まっているらしい。ナチュラル派から連れ去られる捕虜も、日に日に増えているという事だ」

「ゴッドに侵食されそうってこと」

「ああ」

 ゴッドとナチュラルが勝手に争い、起こった現実せんそうだ。放っておきたいのは山々だったが、それはそれでビュー・ガーデンにとっても都合が悪いのだ。

 二つの派閥の共存を望むこちらにとって、どちらかの派閥が滅んでしまうのは、共存という目的をはばまれてしまうことになる。

 だから今の状態を保つのも、彼らビュー・ガーデンの役目なのだ。

「ゴッドが話して分かる連中でないのは今に分かった事じゃないからな。実力行使しか手がないのが辛いところだが」

 白髪の増えた色素の薄い短髪を、滋はがしがしと掻いた。年の割に若々しかった亮樹の父とは違って、滋は年相応の顔つきをしている。彼が笑った時にできる目尻のしわが、亮樹は好きだった。

「でも、結局どこを押さえたら上手く話がまとまるわけ? トップはカミサマなんだろ」

「神はあくまで偶像だ。それを信じるのは構わないと思うが、……と、話がずれたな。とにかく、本当に組織を仕切っているのは“神の代行人”と呼ばれる四人だよ」

「何それ、初めて聞くんだけど」

 耳に慣れない単語に顔をしかめつつも、亮樹は椅子ごと滋に向き直った。

「そうか? もう当に砂乃から聞いているものだと思ってたぞ。――神の代行人。神の声を直に聞き取れるという四人の人間のことだ。事実かは期待できんがな」

「はあ? どう考えても有り得ねえだろ。歴史の勉強で日本国の過去は学んだけど、神と交信できるなんて、卑弥呼とかいう王女様だけだったぜ」

「邪馬台国……、二五〇〇年以上は前の世界だな」

「そ。確かに昔の人間なら、神の声が聞こえるくらい心清らかだったかもしれないよ。でも今の国状況を考えてよ。信仰するのは勝手でも、神様自身はとっくに人間の相手なんか飽きてるって」

 頭の後ろで手を組んで、椅子の背もたれに思いきり体重をかける。ギリリと椅子が悲鳴をあげるのにも、亮樹は構わず体重を預けた。

「砂乃に聞かれたら、さぞかし怒るだろうな」

 手の動きだけで操作できるようになったパソコンは、滋の手に合わせて画面を切り替えた。クスクスと笑いながら、砂乃にすっかり懐かれている亮樹を楽しんでいるようだ。

「あいつは何であんなに俺と居たがるのかな。俺って自分でも、結構ひどい男だと思うけど」

「根が優しいんだよ、亮樹は」

 そう言って、やはり笑いながら滋は亮樹の頭を撫でる。そう、この顔が亮樹は好きなのだ。大きくてゴツゴツした手は、どこか父を思わせて彼を安心させたが、同時に子ども扱いされているような嫌悪感にも襲われた。パッと反抗するように身を逸らす。

「この扱いは嬉しくないよ、シゲちゃん」

「気にするな。俺はお前の父親代わりだ」

「父親代わりでも、ガキ扱いは気に食わないっての! 俺もう十八なんだからな」

「俺から見れば、いつまでも子供だな」

 マジかよ。亮樹は思った。

 この扱いを砂乃や緒叶に見られれば、調子にのったあの二人から、同じく子供扱いされかねない。

 緒叶は一応年上だから百歩譲って我慢できても、あのお子様砂乃から子供扱いを受けるのは、地球がひっくり返っても我慢ならなかった。

 シゲちゃんに子ども扱いされそうになったら、今度は振り切って全速力で逃げよう。

 そう心に決めた亮樹なのだった。



 庭先の小さな丘に腰を降ろすと、いつも胸に掲げているペンダントを首から外し、砂乃はクリスタルを太陽に透かした。

 ――いい、砂乃? このペンダントを肌身離さず持っているんだよ。

 記憶の主は、そう言いながらこのペンダントを砂乃の首に付けてくれた。

 あの約束を懸命に守り、あれから一年、砂乃は一度もこのペンダントを体から離していない。

 だけど記憶の主は、未だに自分を迎えに来てはくれていなかった。

 元々砂乃は、事の善し悪しもわかっていなかった気がする。

 ただ冷たい雨の中自分を見つけてくれた亮樹に感謝し、みんなの役に立てるならと、亮樹と一緒に戦う事を決めた。

 だけど事実、砂乃のパートナーは別にいたのだ。亮樹と組む前――まだ砂乃がゴッド派にいた頃、砂乃は神の代行人の一人、棗のパートナーだった。

 その彼が砂乃にペンダントを渡し、迎えに来るからと約束してくれた――記憶の主だ。

 しかし砂乃は亮樹とパートナーを組んでしまった。自我というものが芽生え始めた砂乃には、それがある種の棗への裏切りだということに、最近漸ようやく気がついたのだ。

 こんな裏切り者の自分を、棗は迎えに来てなどくれないかもしれない。

 それは悲しさと同時に、砂乃の中で安堵という感情も生んでいた。

 棗が迎えに来ないということは、彼に捨てられたことになる。

 棗が迎えに来るということは、滋と緒叶、そして亮樹との別れを意味する。

 そう思うと、砂乃は無意識に膝を抱えてその間に額を埋めた。

「……そんなの、いやだな」

 ふと漏れた声。だけど何が嫌なのか、自分が何を望んでいるのか、砂乃自身よく分からない。

 ただ一つはっきりしているのは、自分が亮樹も滋も緒叶も、棗も大好きだという事だけだ。

 暖かい陽光を浴びていた背中に、不意に影が落ちた。

「気分悪い?」

 優しくかかった声に顔を向けた。

 緒叶だ。

 肩につかない程度の短い茶髪に、優しげに垂れた目尻が彼女の性格を象徴しているようだと、砂乃はいつも思う。

 緑のハイネックのセーターが、その雰囲気に拍車をかけているようにも思われた。

 顔を再び前に戻すと、砂乃は重い口を開く。

「気分は……わるくない」

「そう? 俯いていているのが部屋から見えたから気になってね。今日は亮樹くんと一緒じゃないのね」

 言われてみれば、此処は緒叶の部屋のまん前だ。窓に背を向ける状態になっていた為、全く気がつかなかった。

「りょーじゅは、シゲさんとモニタールームにいるもん。ゴッド派やナチュラル派の話をしているときは、いくら話しかけてもかまってはくれないから」

「そう、それで……拗ねているのね?」

「すっ、すねてない!」

 ムキになって発した言葉が、逆に拗ねていると肯定していることになると自覚するのは、今の砂乃すなのには難しい。

 緒叶おかのはあえて、その場を笑顔でやり過ごした。

「わたしも一人で暇だったの。隣に座ってもいい?」

「……いーよ」

 砂乃の答えを受け取ると、その隣に腰掛けた。その動作は、とても二十五歳とは思えない、もっと落ち着きのあるものだった。

「おかのはシゲさんのイトコなんだってね」

「そうよ。亮樹りょうじゅくんが教えてくれたの?」

 あまり必要外のことを話したがらない亮樹だが、砂乃は自分の持った疑問をすべて亮樹に訊ねる。

 それは亮樹を誰よりも信頼している証だった。

「うん。でも、ずっと不思議だったの。りょーじゅやシゲさんは、いつもゴッド派とナチュラル派をワカイさせることで頭をかかえているけど、おかのはあんまり、そういう話にはかかわらないよね」

「うん。わたしはシゲに頼まれた事柄を調べるだけだし、正直、彼等の最終的な目的は分かっていても、その時々の目的は分かっていないことが多いわ」

「それは……さびしくない?」

 せっかく仲間なのに全てを話してもらえないのは、まるで信頼されていないようで悲しいと、砂乃は思う。

 だけど緒叶は、普段と変わらない笑顔で笑った。

 ――その笑顔自体が悲しいと、砂乃は時々思っている。

「いいのよ。わたしも、知っているのに話していないことがあるから。先に寂しい思いを与えたのは、わたしの方なの」

 ずっと見ていた緒叶の瞳が、悲しく揺れた。

 亮樹のとき同様、一度も二人の視線が交わる事はない。

「おかの、あたしにそれを話したいの?」

「砂乃ちゃんには、いつか話すべきだと思っているわ。でも、今ではないと思う。だからあなたには、わたしの罪だけ知っていてほしいの」

 遠慮がちに、緒叶の目線が砂乃をとらえる。

 拒絶する事も知らずに、砂乃も緒叶を見た。

 うん、とだけ、相槌を返す。

「わたし……わたしは、父の行為で、ゴッド派の男性の元に嫁いだことがあるの」

「???」

「あ……だからね、ゴッド派の男性と結婚したの。特に好きだったわけでもなく、お父さんに薦められたから」

 仏頂面のまま、砂乃は首をかしげた。

「好きじゃない人と、ケッコンしなくちゃいけないの?」

「あの頃父は、ゴッド派に心惹かれていた。元々上条家は中立を推奨していたんだけど、何とかゴッド派との繋がりが欲しかった父は、わたしの身分を偽って、ゴッド派の人間の元へとつがせたの」

 いくつか理解できない単語も出てきたが、好きでもない男と結婚しなければいけないという根本的な疑問が解決されていなかったので、後のことは特に気に止めなかった。

 後で亮樹に聞いてみよう、とだけ何となく思ってみる。

「そして直に……わたしは彼の子供を身ごもった」

 その言葉に、砂乃の上半身が緒叶の方へのめる。

「赤ちゃんって……、どうやったらできるのっ?」

 その気迫にされた緒叶は思わず身をのけぞった。

自分の話のどこまでをきちんと理解してくれているのかを思うと溜息をつかずにはいられない。

「それは……」

 思わず説明しそうになると、緒叶はハッと口元に手を当てた。

 砂乃は十四歳。日常的な知識は十四年分きちんとあるが、感情……というか内面は、最近自我が芽生え始めた三、四歳の子供と何ら変わりない。

 それを思うと、緒叶は説明していいものなのかただ迷った。

「亮樹くんに……訊いたらいいんじゃないかしら?」

 どもりながらも、作り笑いを浮かべつつ言った。口元が引きつっていることに、幸い砂乃が気にした様子はないようだ。

「りょーじゅに聞いても教えてくれないからきいているのに?」

 だったら余計に話さなくてよかったと、息をはく。

「もう少ししたら、砂乃ちゃんにも分かる日がくるわ。それまではあなたの中にある理念しんじつ本当しんじつで良いと思う。無理に知ろうとすることは、時にあなたを傷つけるのよ」

 分かった。とだけ、砂乃はうなずいた。

「でも、それを知らないかぎり、りょーじゅはいつだってすなのを子供あつかいするの。すなのは確かに知らないことが多いけど、だから知りたいことを“知りたい”って言ってるだけなのに……」

「亮樹くんは元々、深く話す事を嫌う人だからね。彼に真実を求めるのは、無いものねだりなのかもしれないわ」

 無いものねだり。初めてきく言葉ではあったが、なんとなく意味は理解できた。

 つまり、話したがらない人に話してもらえないことを寂しいと思う、それは砂乃のわがままだと、緒叶はそう言いたいのだろう。

 だけど砂乃は、“亮樹から”話してほしいのだ。

「そういえば、おかのの話のとちゅうだったね。お腹に赤ちゃんができて……その後はどうなったの?」

 はぐらかし方がわざとらしかっただろうか。と砂乃は思う。

 だけど今の会話はしていて心地いいものではなかったため、途切れさせることが出来るなら、と何も感じない振りをした。

 一方緒叶は、佳境に入り始めた話に眉を寄せる。

「普通に生んでも構わなかった。でもわたしが嫁いだ先は、とても熱狂的なゴッドの信者で、彼と彼の両親は、子供を神のフューズにしようとした」

 ドクンという胸の音を、砂乃は初めてその耳で聞いた――気がした。

「わたしの父も反対はしなかったわ。もちろんビュー・ガーデンは組織じゃないから、抜けようとする者を止める者もいなかった。わたしがあの子をフューズとすることを、誰も止めてはくれなかったの」

「止めてほしかったの? おかのは」

「止めようとしてくれる人がいたのなら、わたしは命にかえてもあの子を実験材料になんてしなかったと、今なら思う。だけどみんなの肯定の声がわたしの鎮痛剤になって、あの時は言われるがままにしか動けなかった」

「……赤ちゃんは?」

 顔を逸らして、砂乃は訊ねた。このままでは、言ってはならないことまで言ってしまいそうだ。ふと、緒叶が目を伏せる。

「……実験は失敗だった。子供は命を落として、わたしも彼とは離婚したの」

 緒叶も辛いのだろうと、頭の隅では思えた。

 だけど今はただ、砂乃の中でふつふつと怒りが込み上げる。

 地面から適度な長さでえている芝を、ぎゅっと握った。

「おかのが……殺したの」

「そうなのかもしれない」

「だけど……、おかのは生きてる」

「砂乃ちゃん?」

「……赤ちゃんは、おかのに勝手に体をいじられて、勝手に殺された。生きたかったのに殺された。それなのにおかのは、どうしてフツーな顔して生きていられるの!」

 違う。緒叶だって傷ついている。こんなことは言っちゃいけない。

 頭ではそう思うことができるのに、口は止まってくれなかった。

「フューズだって何だって、あたしは人間だもん! 実験とか、そんなものから生まれたわけじゃないもん! あたしは実験の成功体なわけじゃない!」

「砂乃ちゃ……」

 フューズである砂乃だからこそ、これは話しておかなければいけない事実だと思った。

 だけどそれが、砂乃を傷つける言葉となることに、緒叶は気付けなかったのだ。

 実験なんて言葉、決して口にしてはならなかったのに。

 ほどなくして、砂乃の叫び声を聞きつけた亮樹と滋が、建物から姿を現した。

 亮樹の姿を視界に収めた砂乃は、一目散に彼に飛びつく。

「どうしたんだ、一体」

 まずは滋が、緒叶に状況説明を求めた。

 緒叶は立ち上がると、家へ向かって歩み始め、滋とすれ違おうと肩を並べた瞬間に、その重い口を開く。

「話そうと思ったの。砂乃ちゃんに、全てを」

 緒叶の過去を知っているのは、この中では滋だけだった。

 彼女にとっては思い出したくもない過去。それを話そうとしたということは、どれだけの覚悟だったのか、滋には図ることができない。

「でも、やっぱりまだ早かったみたい」

 そう言って彼女はうすく笑った。

 その笑みに痛々しさを感じたのは、理由を知るしげるだけだったようだ。

 滋の後ろで砂乃すなのをなだめていた亮樹りょうじゅが、緒叶おかのが通り過ぎた瞬間、彼女の髪を撫でる手を止めた。

「待てよ。こいつに何言ったの? まさかいきなり砂乃が声を上げたわけじゃないんだろ? あんたが言わなきゃ、こいつは理由なしに人を怒鳴りつける奴じゃない」

「そう。わたしが悪者なのよ。君は砂乃ちゃんをなぐさめてあげて。わたしのことは……、ごめんなさい、今は放っておいて」

 そう口にしながら、やはり緒叶は笑うだけだった。

 何かが確実に崩れていくのを、亮樹は無意識に感じていた。


***


 あれからもう、三日は過ぎていた。緒叶は部屋から顔を見せなくなり、今日も三人だけで朝食を食べる。

「……まずい」

「文句言うな。緒叶が家事を放棄してるんだからしょうがないだろう」

 滋の作った焼飯をかきこみながら言う亮樹の言葉に、当人は不機嫌に答える。

 食事を主とした家事は緒叶の担当だ。滋も亮樹も、料理なんて全く経験がない。

 好奇心から砂乃が作ると言い出したこともあったが、明らかに危なっかしい手つきに、頼むからとやめてもらった。

「シゲちゃん、なぐさめてやんないんだね」

「あいつがそれを望まないんだから、大きなお世話にしかならないだろ」

「おかの……すなののこと嫌いになったかな?」

「なんでそういう心配すんの? 怒らされたのは砂乃だろ」

 そうだけど、そうではないのだ。砂乃だけが被害者なわけではない。

「おかのにも、悲しいことがあるんだよ」

「なーんか、俺が悪者みてぇ」

 結局、一番状況がつかめていないのは亮樹なのだ。緒叶の過去も、その事情も、亮樹はさわりすら聞かされたことがない。

「しょうがないだろ。全てをさらけ出して傷を舐めあう関係になりたくないんだ、緒叶は。それはお前も同じだろう、亮樹?」

 そう滋が言うと、砂乃はふと亮樹を見た。

 視線をテーブルに向け、まるで図星をつかれたような脹れっ面をしている。

「お互いに傷を持っているからこそ、緒叶はお前に話そうとしないんだ。分かってやってくれ」

「分かんないわけじゃないよ。確かにあの時は無神経に緒叶を責めちゃったとも思ってる。けど、あいつはいつまで部屋にこもるつもりなんだよ?」

 別に亮樹へのあてつけで、緒叶が部屋にこもっているわけでないのは分かっていた。

 それでも早く元気な顔を見せてくれなくては、飯がまずくてしょうがないのだ。

「じきに出てくるさ」

 滋はみんなの父のような存在だ。どんな屁理屈を並べても、すんなりと彼によって真実を諭される。

 だけど多くの人間は、真実を受け止められるほど素直ではないのだ。

「どうだかね。ごちそうさま」

 不機嫌に言葉を返して、亮樹は席を立った。

 また場の雰囲気が険悪になる。

 ダイニングを出た亮樹が、階段を上がる音を聞くと、砂乃は止まっていた箸を再び動かし始めた。

「すなののせい……かな?」

「気にするな。みんなガキなんだ」



 自室に入った亮樹は、怒りと罪悪感から複雑な気持ちにさいなまれていた。

 対応が子供っぽかった気もするが、今更後には引けない。

 と、シーティーシーピーから流れる着信音で、亮樹はハッと我にかえる。

 慌ててボタンを押すと、現れた映像に映っていたのは、見るも懐かしい人物達だった。

「え……、槙那の父さんと母さん?」

 実に二年ぶりに見る二人だ。心なしか、あの頃よりも老けて見える。槙那の父――麻生は亮樹の父と同じ、ナチュラル派の上層部に地位を持っていたはずだ。だから他のナチュラル派の男達と同じように軍隊に所属してはいない。

 息子である槙那も、本来は軍ではなく将来ナチュラル派を引っ張る者として勉強すればいいのだが、だからこそ軍に入って世界を見渡したいと、彼はいつか言っていた。そのために身分を隠して軍に所属する事にした、と。

 麻生夫妻は逸らすことなく亮樹を見ている。

「あ……っと、えと、久しぶり。ど、どしたの?」

『亮樹と話すのは、もう二年ぶりだな』

 厳格な面立ちを崩す事なく麻生が言う。幼い頃は、よく槙那と亮樹の父を含めた四人で、遊んだりしたものだ。今はすっかり当時の面影をなくした麻生の言葉に、そうだ、と亮樹は頷いた。

『ビュー・ガーデンにあんたが行くと言ったとき、あたしたちはあんたを裏切り者と見ることしかできなかった。どうしても、そっちの組織はゴッド派の味方に見えたから……』

 次に口を開いたのは槙那の母――麻生夫人だ。ふくよかな体型の彼女は、生まれたときから良家の娘だったらしい。おいしいものをたらふく食べて、幸せに育ったに違いない。しつけに厳しく、いつも鬼のような形相しか浮かべていない印象の彼女が、亮樹は幼い頃から苦手だった。

「何だよ、いきなり。別にビュー・ガーデンはゴッドの味方じゃないよ。だからって、ナチュラルの味方でもない。そして、どちらの敵でもないんだ」

 それに組織でもないと付け加えようとしたとき、麻生夫人が先に言葉を発した。

『そう、槙那もよく話していたよ。そっちに行ければ、今のようにゴッド派の連中からおびえて暮らす必要もないってね』

 その言葉に、亮樹は淡い期待感を抱いた。

 ベッドに腰掛、腕をもっと高く上げる。

「もしかして、槙那の説得に応じてくれたの? ビュー・ガーデンに、派閥がえしてくれる気になったんだ!」

 しかし麻生は、目を伏せて首を左右に振った。

『確かにお前たちは理想だよ。そっちへ行けたら、どんなにいいかと思う。だけど私達はどうしても、ゴッド派との共存なんて考えられないんだ』

『そう思ってるのはきっとあたし達だけじゃない。だからあんたのやろうとしていることも、所詮都合のいい夢なんだよ』

 ギリッと、亮樹は奥歯を噛み締めた。

「何だよ、昔みたいに俺を否定するために、わざわざ通信してきたの?」

 そのときの亮樹の気持ちは、まるでビュー・ガーデンへの派閥がえを決めたときに彼らに否定された、あの衝動を連想させた。

『きっともう、あんたと話すこともないと思ったから、伝えておきたかったんだよ。槙那が何度あんたらの素晴らしさを訴えても、あたしらにそれに応える事はできなかったって』

 はっきりと言ってくれる。だけどその言葉に、皮肉はこもっていなかった。

『でも……槙那が望むなら、あいつだけでもそっちに行かせてやればよかった』

「は? 何それ。何で過去形なんだよ? 今からでもこっちに来させてやればいいじゃんか。あいつはおじさんたちの為に、ずっとナチュラル派を貫いてきたんだぜ? 一度でいいから、あいつの夢、叶えてやろうとか思わないの?」

『叶えてやればよかったと、今なら思うさ』

「だから、何で過去形――」

『死んだんだよ! 槙那は』

「は……?」

 一瞬目の前が真っ白になるのを、亮樹は感じた。

 死んだ? 槙那が?

 麻生夫人は、半ば勢いで真実を伝えてしまったようだった。涙がその頬を伝う。

『軍から命令が出たんだ。領地拡大を目論んでいるゴッド派のスパイとなり、その情報を掴めと』

 領地拡大。そのことは、亮樹も滋からいくらか話を聞いていた。

 ビュー・ガーデンも、それを止めようとしていたのだ。

「命令って……いつ?」

 亮樹が槙那と話したのは、つい四日前だ。こんな数日で、死ぬような命令が下されたなんてとても信じられない。麻生が放物線のように歪められていた口を重そうに開く。

『詳しいことは、死の知らせが来るまで何も知らなかった。だけど、三日前に休みをもらったと家に帰宅した時……命令は既に出ていたらしい』

 わああと、麻生夫人のわめき声が響いた。

 あの日、帰宅して元気に振舞っていたであろう槙那を、思い出したのだろう。いつだって怒っている印象しかなかった麻生夫人の突然の泣き声に、亮樹はこの言葉が本物なのだと痛感した。それと同時にただ呆然とする。

 家に帰宅する前に命令が下されていたということは、亮樹と通信をしたあの時、槙那はもう自分の死を覚悟していたことになる。

 スパイ命令は死の宣告だと、そう教えてくれたのも槙那だった。

 ビュー・ガーデンは常に危険と隣り合わせであることを承知している連中だし、大抵は馬の合う人間たちと集団行動をしているため、戦闘能力に長けた仲間が助けてくれる。

 だけどナチュラル派の軍団は違う。

 守ってくれる連中どころか、助けてくれる仲間もなく、危険が迫れば逃げ出すような同志達に過ぎないのだ。

 敵の陣地に乗り込めというのは、つまり死ねと言われたも同じこと。

 それを分かっていて、あの日槙那は笑っていたのだ。

 ――近いうち連絡が行くと思うから……。

 あの言葉は、そういう意味だったのかよ。

 ――じゃあな。亮樹。

 あの“じゃあな”は永遠の別れを指していたのかよ。

 気がつけば、通信は切られ、時計型通信機は元の腕時計に戻っていた。亮樹は俯き、奥歯を噛み締める。

 ぽつぽつと、落ちた水滴がズボンにシミをつくった。それはすぐに乾いて消える。槙那の生きた証はどこにも残ってはくれないのだと、思うたびに涙が溢れた。

 ――俺が会いたいっつったら、地の果てからでも会いに来てくれそうだな。

 お前が望むなら、天国だろうが地獄だろうが、会いに行ってやるよ。

 だから、死んだなんて嘘だって、そう言ってくれよ。

 こんな最期はあんまりだろ? お前の人生はこれからじゃんか。

 なあ、槙那まきな――……。


***


「は? 何だって?」

「だから、ゴッドの侵略を食い止めに行くよ」

「まて、亮樹りょうじゅ。これは簡単に決められる問題じゃないんだ。他のビューの話も聞いて、もっと詳細と、共に戦闘を手伝ってくれる仲間を見つけてからだと、この前も説明しただろう」

 しげるの部屋へと赴いた亮樹は、ゴッド派の領地拡大をすぐにでも止めたい事を伝えた。

「でもそれじゃ、時間がないと思う。犠牲が今も出てるんだよ? このままじゃ、俺たちがどうこうする前に、ナチュラルが滅んでしまうかもしれない!」

 自室のソファに腰をうずめている滋とは裏腹に、亮樹は仁王立ちで声を荒げた。

 滋の新聞を読む手がピクリと揺れる。

「誰か犠牲になったのか?」

 何でも見通してしまう滋だ。隠すのは無理だと分かっていても、つい奥歯を噛み締めて言葉を飲んでしまう。

 何も言おうとしない亮樹に、滋は溜息をついた。

「とにかく、もう少し待つんだ。俺もただ新聞を読んでいるだけじゃないつもりだぞ」

「分かってる。けど犠牲が増える分だけ、お互いの派閥を憎む人間が増えていくから」

「砂乃がいるお前なら、何とかできるとでも思うのか?」

 その言葉に、亮樹は砂乃の顔を思い浮かべた。

 もともとはゴッドの生み出した少女だ。砂乃がいれば、それなりに対等に戦えるかもしれない。

 だけど、

「砂乃は連れて行かない」



 廊下をたかたかと駆ける足音が、少し離れた緒叶の部屋にも届いた。

 何事かと西側の窓から庭を覗くと、砂乃が一目散に外を駆けていく。ゆるい斜面の坂となっているところを駆け上がり、登りきったところでしゃがみこんだ。


 膝を抱えたまま、砂乃の頭に亮樹の言葉がリフレインする。

 ――砂乃は連れて行かない。あいつはゴッドへの敬意を忘れていないから。あいつはまだ、ゴッド派の連中を信じてる。そんな奴を連れては行けない。

 あれはつまり、砂乃はビュー・ガーデンにいながらも、ゴッド派を信仰している裏切り者だと、そういうことなのだろうか。

 たしかに今、ゴッド派の人間と戦えと言われても、まともに戦う事は出来ないだろう。

 だけどそれを、役立たずの裏切り者だと、――それは思い過ぎかもしれないが――思われているとは思わなかった。

 共に戦うと決めたのは砂乃だ。その決意を、決してひるがえしたりはしないのに――。

 嗚咽を漏らしながら、何度も深呼吸をした。

 他の誰に否定されても、亮樹にだけは信じて、認めてほしかったのだ。

 自分は、仲間だと――。

「砂乃」

 呼ばれた声は、ピシリと砂乃の背筋を強張こわばらせた。

 久しぶりに聞く声、だけどその声を、砂乃は決して、忘れたりはしない。

 上げた顔の先には、夕闇にもその気高さを失わない、神々しい青年が立っていた。

 真っ白な長髪、横に伸びる特徴的な前髪、古代ヨーロッパ騎士を思わせる凛々しき身構え。

「ナツメ……サマ?」

「久しぶりだね。砂乃」

 ゆっくり立ち上がると、砂乃は思わず彼の頬に触れた。

 夢じゃない。確かに棗様の、暖かい頬が、体が、此処にある。

「約束通り、迎えに来たよ」

 ドクンという合図と共に胸の動悸どうきが激しくなった。

「帰ろうか。ゴッドの元へ」

 棗の頬に添えられていた手が、今はしっかりと彼に握られている。

 ただ呆然と、砂乃はそれを見つめていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ