1.未来のかたち
たかたかと廊下を駆け回る足音がする。それが誰のものなのか、上条緒叶には大体見当がついていた。扉が開くより幾分早く、回転式の椅子を動かして後ろを見る。
予想通り、長い黒髪の小さな少女が、ひょっこりと緒叶の自室に顔を出した。
「おかの、りょーじゅ知らない?」
きょとんとした顔で緒叶を見つめていたが、その本心は不安なようだ。
切なそうな漆黒の瞳で、こちらを見ている。
「亮樹くんなら……、多分町へ買物に出てると思うけど……」
「え? 一人で?」
「ええ。シゲは別の用事で朝から出かけているし、彼はほら、元々ひとりで出かけるのを好むじゃない」
「そうだけど……」
置いていかないで。出かける時は、すなのに一言言ってからにして。と、江奈原砂乃はいつもくどいほど言っていたのに……。
砂乃は一人にされるのが嫌いだった。それも自分の好いている人間に置いて行かれるのは、まるで自分が嫌われているのではないかと錯覚する。
「……りょーじゅ、どこに行くか言ってた?」
緒叶から亮樹の居場所を聞き出すと、砂乃は一目散にアジトを飛び出して行った。
***
時は三十世紀。文明の発達により、国は外国との交流を無とした独立国家となっていた。
自分達の生きる場所だけが“世界”だった。
機械で何もかもが操作できる時代に、わざわざ出かける人間には理由がある。
それが――戦争。
日本国では今、派閥同士の争いが勃発していた。
亮樹達が住んでいるのは四国島と呼ばれる小さな離れ島で、ナチュラル派の領地であるそこは、随分平和そうに見えるが本島では領地争いも兼ねた派閥同士の争いが酷い。亮樹自身、何度も自分の目でその惨劇を目にしているのだから、間違いないことだ。噂では、既に荒地と化した町や村もあるらしい。
亮樹は大きな荷物を抱えて、穏やかな通りを歩いていた。自然を大切にするナチュラル派の領地だけあって、通り過ぎる家々には草木が自由気ままに生きている。この様子は、千年ほど前から変わってはいないらしい。
「りょーじゅ! いたー!」
閑静な町の一角で青年を見かけた砂乃は、大きな声でその名前を呼んだ。
茶髪な上に袖なしのパーカ、彼の体より明らかに大きいズボンは裾が引きずられてボロボロになっている。さらに、体のあちこちに装飾されたアクセサリーや髪の間から覗く黒のバンドが、後ろ姿だけでも、柏葉亮樹だと砂乃に分からせる。
振り向いた青年も青年で、丈が短い浴衣に黒のスパッツ、袖は肩まで捲り上げられたその色気のないスタイルに、すぐに相手を判断した。
「もう! なんでいっつもすなののこと置いていくの? 出かけるときは一言いってっていってるじゃん!」
ずんずんと近づいてくる砂乃に亮樹はいつものように顔をしかめる。
「別に買物くらい、黙って出てったっていいだろ」
パソコンで物が買える世の中になったとはいえ、戦争の関係でわざわざ買物に行かなくては物が手に入らない人間もいた。その一例が亮樹だ。
「買物ならすなのをつれて行ってくれたっていいじゃない」
「お前無駄なものねだるんだもん」
「置いていかれたほうがめいわくかけるわ」
どうしたものか。あきれたように亮樹は溜息をつく。
「なーに? すなのが来たのがそんなにめいわく? だったら先に行き先教えといてくれれば、すなのだってりょーじゅの後をおいかけたりしないよ」
ぷうっと頬を膨らませて、亮樹を睨み見た。その姿には、威厳も何もあったもんじゃなくて、亮樹はただ溜息をつく気にしかなれない。
「分かったよ。俺が悪かった。アイス買ってやるから機嫌直せよ」
「……もうすなのを置いていかない?」
どうやらアイスで少々機嫌が直ったらしい。本当、単純な奴だ、と亮樹は思った。
「それは約束出来ないかな。だって俺もう十八だよ? お子様には理解出来ない場所にだって興味ある」
「すなのだってもう十四歳だよ!」
「じゃあもちろん、赤ちゃんはどうやったらできるのか知ってるよな?」
「……え?」
「はい、お子様」
さらりと言ってのける亮樹に、砂乃はピクリと眉をひそめる。
つかまれた肩でくるりと回転させられながら、頭に浮かぶ精一杯の答えを言ってみた。
「け……、けっこんしたらできるようになるんでしょ?」
「何で?」
「何で……って、……しぜんに?」
「はい、ブー」
答えているうちに、砂乃は数メートル歩かされていた。それには生憎気付いていないようだが、子ども扱いされた事実につい反抗したくなり、亮樹の目的とは逆に体を向ける。
「なによ、子どもあつかいばっかりして。だいたいりょーじゅが、すなのに見られて困るようなところへ行こうとするからいけないんじゃない」
まるで風のようにするりと亮樹の腕をすり抜ける。別に興味あると言っただけで、見られて困るところへ行ったとは言っていない。
「おい、どこ行くんだよ」
「りょーじゅのいないところ!」
意地になりながら歩みを進めると、不意に人だかりが目に入った。だけどそれも、今の日本国にとって珍しい光景ではない。そしてその状況は、砂乃にとって気持ちいいものでもなかった。
がたいのいい二人の男と、大勢の兵士が監視する中、十数人の人達が不安げな顔で一列に並ぶ。その先頭はなにやら黒い大きなレーザー銃を持ち、辛そうに悲鳴を上げながら前方の的にくくられた丸石を射抜いている。
何人かの勇気あるものが抗議の声を上げると、容赦なく兵士にその首を切られていった。
その様子に、砂乃は恐怖と怒りから震えが止まらなくなる。
「……見んな」
砂乃の悲しい気持ちを読取ると、彼女を引き寄せながら、亮樹はその目をふさいでやった。
「何……やってるの?」
声まで震える。何だか情けない。
「ナチュラル派が捕虜にしたゴッド派に、『生きたければナチュラル派になれ。ナチュラル派になったなら、ゴッド派の証であるチャームを棄てろ』っていってああやって撃たせるんだ。レーザー銃で撃たれたものは完全に溶け消える。あの人たちはもう、本当にゴッド派の証を失うんだ」
その言葉に、砂乃の表情はますます険しくなった。ゴッド派は信者に神の絵の彫られたチャームを持たせる。それはゴッドに尽くす印で、ゴッドに愛される証だと、彼らは信じている。それを失うことは、加護からも見放されるということだ。
ナチュラル派と、ゴッド派。その二つが対立し始めたのは、もう百年以上前のことだと、亮樹は亡き父から聞いた事が合った。
元々、いや、事実千年近くは前のことなのだが、当時地球はまだ外国との交流を続けていた。現在の日本国も、平和をたたえ上手く外交していたらしい。しかし時と共に文明は発達し、外国との関わりも必要とならなくなった世界は、二五三七年、各国に無駄な戦争を起こさせない為、『世界完全独立国家宣言』を発表した。
固より戦争は、宗教の違いから起こる主観の違いによるものだった。崇拝宗教のはっきりしている“国”に、戦争が起きる事はそうはない。
その点から考えると、昔、無崇拝宗教国と呼ばれていた日本国が、争いを始めるのは当然の事だったのかもしれない。
神道を崇拝するゴッド派。
――万物は神によって造られ、神のために生きるもの――
その考えに基づくゴッド派は、万物を神の物とし尊重するとして、自然を尊重するナチュラル派とも上手くやっていけるかのように思われた。
しかし戦争は起きた。
自然を尊重する。その考えはどちらの派閥も同じはずなのに、ゴッド派はその暗黙の了解をやぶった。自然物や、動物と人間。その融合人間を造ったのだ。
自然との融合体となった少女達は破壊的な力を持ち、日本国はゴッド派によって侵されていった。
それに反抗したナチュラル派もゴッド派の領域をどんどんと侵し、数々の惨い参事を犯した。
かつてはどの国よりも平和へと尽くしてきたのに、いつしか日本国は、一番の戦争国となっていたのだ。
「ナチュラルは……ひどいね」
「ゴッドだって同じようなもんだろ」
「ちがうよ! ゴッドは……」
パッと亮樹の手を払うと、砂乃は悲しそうに胸元に輝くクリスタルを握った。
言葉が途中で途切れたのは、ゴッド派の肩を持っていいものか迷ったからだ。
砂乃は、元ゴッド派だった。
それを一年前、おそらくゴッド派から逃げ出してきたであろう砂乃を、亮樹が保護したのだ。
今はゴッド派を離れた身であるとはいえ、かつての神への思いは捨てきれない。だけどそれでは亮樹に嫌われ、捨てられてしまうかもしれないと、砂乃はただそれだけが不安だった。
「あの……」
しかし亮樹は、今の砂乃の言葉を咎めるでもなく、ただ優しく頭を撫でてくれる。
「神も自然も、人も動物も大切にしたいのが“俺たち”だ。だから砂乃の気持ちは間違ってないよ」
「りょーじゅ……」
「だから“どうするか”も、お前が決めたらいい」
どうするか――そんな事、答えは一つだ。
「あたしたち、らしくやろう」
***
ナチュラル派は強いものから順に隊を群なす軍事集団だった。平民は兵隊となり、各隊長が、突撃などの命令を隊員に下す。
がたいのいいこの二人の男も、十八番隊の隊長と副隊長だった。
「いいか? 逆らう奴は裏切り者だ。裏切り者は斬られるのが筋なのだからな」
そんな脅しめいた言葉をかけられれば、死を恐れる人々に逆らえるはずもなく、順番が回ってくれば、皆傷つきながらに信じる神のチャームを撃った。
今回の捕虜は約十人。もう半分ほどのゴッドへの裏切りを見届け、ナチュラルの隊長たちも飽き始めていた頃――。
「ねえりょーじゅ、前から思ってたんだけどさ、いつもたたかうのはあたしで、りょーじゅって何やってるの?」
「……何だよいきなり」
「なんかフコウヘイだなと思って」
ぎこちない発音で、砂乃は不公平だと言った。おそらく最近覚えた言葉なのだろう。そんな砂乃に、亮樹は呆れるしかない。
「……どこでそんな言葉覚えてくんだよ。てか、俺生身の人間だよ? あんな大勢の兵隊に敵うわけないじゃん」
「すなのだって女の子なのに……」
「……アイス二つで我慢しろ」
「そんなに食べたらおなかこわすよ」
「じゃあお菓子も買ってやるから」
「……のった」
「だれだ!」
一列に並ぶ捕虜の後ろで、飄々(ひょうひょう)と会話する二人に兵士の一人が声を上げた。一瞬にして皆がこちらを振り返る。
と、隊長らしき男が立ち上がるなり近づいてきた。
「どこのどいつだ? ナチュラル派なら俺たちのやることに逆らわずに家へ帰るんだな。もちろん、ゴッド派なら命は無い」
その言葉を合図としたように、後ろの兵隊が剣を構える。
ナチュラル派の男児は十六歳で否応無しに兵士にされる。いくらかの条件から例外も有り得るが、その場合は隊長クラスの人間が知らないはずは無い。十八歳の亮樹が私服でこんなところにいる時点で、彼が敵だという事は知れていた。
「悪いけど、此処で死ぬのはごめんかな」
「斬り殺せ!」
兵士がわらわらとかかって来た。この人数を二人――まして一人は少女だ――で相手するのは、誰もが不利だと思った。
しかし少女は素早く形態を変えると、吹きかう風のようになり兵士達を薙ぎ払った。
「なっ……」
「これは……風になった? そうか。こいつ、“堕児”だ!」
風の姿のまま、砂乃は亮樹の右腕に捲きつく。
隊長が神妙そうにその名を呼んだ。
「堕児……。やはりゴッド派なのか」
「ちげぇよ。俺たちはあんたらみたいに、自分の都合のいいものしか見ない連中とは違う」
フューズを造る事で、ナチュラル派とこじれる事を避けたかったゴッド派は、それを科学の賜物と言わずに神の子だと称した。
それを否定したナチュラル派はある意味正しいが、自然を守る為と言いながら、ゴッド派の人間を殺すことを楽しんでいる連中が多い。
結局どちらも、自分達の行いを正当化することしか考えていないのだ。
「あんたたちは正しい。でも間違ってる。それに気付いたのが俺たちだ」
「どういう意味だ?」
「ゴッドもナチュラルも、お互いの道理を受け入れれば必ず上手くいく。神も自然も、人も動物も、守らなければいけないんだ」
「何、奇麗事を……。お前らは一体何者なんだ!」
すうっと息を吸うと、亮樹は胸をはって声を出した。
「独立部隊、“ビュー・ガーデン”。知らないわけじゃあないだろ?」
ビュー・ガーデン。その言葉に皆が息をのんだ。ナチュラルにもゴッドにも属さないそれは、平和でありたい一般人の憧れであり、同時にいつ相手の派閥に引き込まれるか分からない要注意集団だ。
戦争に直接参加しない分、命を狙われる可能性も危険性も高い。仲間に引き込もうとするも殺そうとするも、人それぞれだ。
「……ビュー・ガーデン。そうか。我々が戦争を続けていく上で、もっとも生かしちゃおけない連中ということだな」
どうやらこの隊長は、ビュー・ガーデンに対する対応を、殺す方にしているらしい。
風を切るように右手を上から下へ振り下ろすと、後ろの部下へと声を上げた。
「こいつらは我々の敵だ! 殺せ!」
一口に殺せと命じられても、ビュー・ガーデンは少ない仲間内で自分達の道理を貫こうとしている分、戦闘力には長けている。
もともと戦う事を目的に此処にいるわけではない彼らに、まっすぐに立ち向かう事は出来なかった。
「何をしている? 早くやれ!」
「しかし、隊長……」
「しかしもかかしもあるか! 此処で俺の命令に背くなら、お前たち全員討ち首だぞ!」
「そこまで言うなら、あんたがやったら?」
突如口を挟んだ亮樹に、隊長は怪訝な顔で目線をやった。
「そんなに自分の戦闘力に自信があるのか?」
「いいや。でも戦いたくない奴と戦うのも嫌かな。ビュー・ガーデンは“弱き者を守る”ために存在するからね」
「フン、甘い事を。だったら俺が相手をしてやろう。――後悔するなよ」
がたいのいい隊長は、言うなり自分の背に担がれている大きな刀を鞘から抜き取った。
『……りょーじゅ。たたかうのはすなのだって、分かってる?』
「なんか問題あった?」
『あんな大きな剣できりつけられたくない』
「斬り……って。お前斬っても斬れねぇじゃん」
生身姿の砂乃なら話は別だが、今の砂乃は風だ。風は斬ることも撃つことも、まして踏みつけることも出来ない。
もちろん砂乃が気にしているのは痛みではなく、本来守ってもらう立場のはずの自分が、前線に立って戦う事だけだ。
そうこう言っているうちに、隊長が大剣をふりかざして亮樹の前に立ちはだかった。重そうに見えるその剣を、そんな素振りは一切見せずに振り下ろす。
「死ねえええええ!」
ざっと、何かが切れる音に、捕虜になっていたゴッド派の面々は目をふさいだ。
しかし切ったのが人ではないことに、長年剣を振り続けている隊長が気付かないわけはない。地面にめり込んだ剣の傍にあったのは、真っ二つになった袋と、果物や野菜、肉など、他生活雑貨ばかりだった。
交わした亮樹は高くジャンプし、隊長の背後に着地する。邪魔になるため手放した袋には卵も入っていて、無残に割れたそれに、青年はまず顔をしかめた。
敵を一瞬に見失った隊長は、あたりを見回して亮樹を探した。
「な……、どこに――?」
「ここだよ」
亮樹の腕に捲きついていた砂乃は、さっと彼の腕から離れると、隊長の背中をとった。
隊長が振り向くよりも早くその体に捲きつき宙へと誘う。
「がはっ!」
自分の身長二つ分程の場所から落とされた隊長は、痛みとショックでそのまま気を失った。
「さて、他に俺たちを倒そうって勇気ある奴はいる?」
だから戦っているのは砂乃だけだってば。
そう思いながらも、砂乃も亮樹の確かな実力を知らないわけではないので黙っていた。
ナチュラル派の兵士は皆逃げていき、同じく逃げようとした副隊長を亮樹が呼び止める。
「な、何でしょう……?」
「ここにいるゴッド派、逃がしてやってもいいかな?」
「いや、それは……」
「困る? まあそうだろうけど。断るならあんたを捕虜にして、ゴッド派に連れて行かせるよ?」
亮樹があまりにも屈託なく笑うものだから、逆に怖くなった副隊長は、「勝手にしてくれ」と叫びながら走り去って行った。
それを見届けるなり人型に戻った砂乃が、足元に落ちていたチャームを拾い、近くにいた女性に渡す。
「どうぞ。もうほりょになんてならないでくださいね」
「……シスター……」
随分聞かなくなっていたその呼び名に、砂乃は思わず背筋を伸ばした。
シスター。それはゴッド派のみが呼ぶフューズの呼称だ。神の子だと敬う意味をこめて、そう呼ばれている。
砂乃をシスターと呼んだ女が、胸の前で、指を絡めるように手を組んで言葉を続けた。
「ああ、シスター。わたし達ゴッド派を助けに参ってくださったのですね」
「いえ……あたしは」
「先ほどはビュー・ガーデンと名乗っておられましたが、あれは敵の目をくらます嘘でしょう? シスターが神を裏切るわけがありませんもの」
その言葉を聞くなり、今まで黙っていた他のゴッドの連中が、そうだそうだと同意し始めた。
その様子に、亮樹は溜息をつかずにはいられない。
「……あんなぁ、シスターだろうがなんだろうが、砂乃は人間なんだから、神を裏切るとかそんなんは桁外れな観念だろうが」
傍から見れば、何の間違いもない亮樹の言葉を、神だけを信じるものとし敬うゴッド派の連中は、ただの冒涜と受け取った。
「あなたはゴッドの人間ではないわね? 神を信じているものならば、そんな言葉、言えるわけがないわ」
「だから言ったろう? 俺はどっちにも属さない。ビュー・ガーデンの人間だよ」
「ビュー・ガーデンは神を冒涜するの?」
「いいや。だけど神神って、それしか知らない子供のように連呼する連中とも違うかな」
「ちょっ、りょーじゅ……」
言いすぎだと砂乃が咎めた。それは正しい反応で、ゴッド派の連中はふつふつと怒りをこみ上げている。
「まあ、人体実験なんかして喜んでるあんたらとは明らかに違うって……それだけは確かかな」
そのまま、踵を返すと、今度こそ亮樹はこの場を離れようと歩み始めた。一足遅れて、砂乃も後を追う。
しばし歩くと、砂乃は亮樹を呼び止めた。
「ちょっ、りょーじゅ! 歩くの速いよ!」
体の半分は風の砂乃だ。別にこんな数百メートルの距離を小走りに追いかけたからといって、疲れるなんてことはないが、スピードくらい自分に合わせてほしい。
「あ、わり」
振り返った亮樹があまりにもきょとんとしているので、砂乃は仏頂面で訊ねてみた。
「もしかして……すなのが着いてきてるって忘れてた?」
「ははは」
忘れていたのではなく気付いていなかったのだが、そこは笑ってごまかす。
「もう! りょーじゅのバカ! それにゴッド派の人にあんなこと言って、またビュー・ガーデンが他のハバツからテキシされちゃうよ」
「分かってる。だから、シゲちゃんにはこれな?」
口元に人差し指を当てながら、内緒のポーズで亮樹が言う。
それを砂乃は、軽蔑したように目を細めて見た。
同意してくれる様子のない相手に、どうしたものかと溜息をつけば、少し考えてから亮樹は指を二本立てる。
「……お菓子二つ」
「……」
「飲み物も買ってやるから」
「クレープ食べたい」
「……わかったよ」
どうせ買物からし直しなんだ、と思えば、亮樹は諦めたように頷いた。緒叶に頼まれた食材費は彼女から貰っていたが、今度ばかりは全て実費だ。自分の所持金を考えると、肩を落とさずにはいられない。
悪知恵の働く砂乃を、この時ほど恨めしく思ったことはなかった。
***
砂乃と亮樹が去った後のそこは、この上なくしんとしていた。亮樹の言葉がどうとかではなく、これからどうするかを悩んでいるのだ。まさかナチュラルから解放されるとは誰も思ってはいなかった。これは喜ばしいことであると同時に、これからの彼等の生き方を大いに悩ませてくれる。
生きる為とはいえ、一度はナチュラルに派閥を変えようとした者を、ゴッドは再び受け入れてはくれないだろう。どこへ行こうとも、自分達の未来は暗い。誰もがそう思った時、亮樹が撒き散らした食材を無残に踏みつける音がした。
「まさかビュー・ガーデンに救われる時がくるとはね」
皆が振り返った先には、思わず目を見開きたくなるほどに神々しい人間が立っていた。まるで中世ヨーロッパの騎士のような風貌は、神の代行人の証。
「な、棗様!」
その名を知らない者は、ゴッド派にはいなかった。
ゴッド派をまとめるのは、神の代行人と呼ばれる四人組。神の声を直に聞く事が出来るという彼らが、組織をまとめ、支配しているのだ。
「棗様、あの……わたしたちは」
「ナチュラルに一度心を渡した者を、神は必要としないよ。どうしても戻りたいなら、神界へ行って神に直接謝り許してもらうしかない」
神界へ行く――それはつまり、死ぬということだ。
死んで神の元へ行き、許しを請うて、本当に許された者だけが再び人間界へ戻ってこられると言われている。しかし実際に戻ってきた者は無く、逆に神界へ送る儀式と称した公開処刑に、莫大な金をとられるだけなのだ。
皆が脱力して地べたに座り込む。そんな人間達を尻目に、棗は亮樹達の去った軌跡を眺めていた。
直毛の白い髪が肩にかかる。久しぶりにあの少女を目にした。もう一年は経つだろうか。
「砂乃……」
離れた時とはまるで別人のように笑い、拗ね、困っていた少女を、棗は懐かしげに思い出していた。
しかしその目に、愛情は一切ない。あるのは妖笑だけだ。
「もうすぐ迎えに行くからね。砂乃……」