第9話 次郎の死亡告知書
年が明けた昭和二十年一月。早々に新しい命が誕生を控えていた。
『春ちゃん、お湯、準備して!、早く』
『はい、今持ってくるから。少し待って、おばちゃん』
『雪ちゃん、ぼやぼやしてないでさ!、手拭い集めてよ、ほら、そこんとこ、積んであるだろ!』
『落ち着いてよ、おばちゃん。一人でやっきになってもさ、当の慶子ちゃんが、落ち着かないでしょ?』
『何言ってんの、これがあたしのいつもの調子じゃないか!。いいかい、流れが大切なんだよ。留めちゃだめだよ、ほら、いくよ!』
威勢のいい多江子の声は、この後の慶びを、一挙に引き受けていた。
『はい!、大きく息を吐いて!。もっと、もっとだよ!』
繰り返し多江子の声が、初産の母親の下腹部に響いた。
その瞬間、家中に誰のものともない、大きな安堵の声が散らばった。
『おぎゃあっっ・・!、んっっ・・、ぎゃあーっ・・』
多江子の手の中には、真っ赤に、それは怒っているかのような、元気な男児が持ちあげられていた。
『ふーっ、良い子だね・・、元気な声をありがとうよ・・』
そう言って、生まれたてのくしゃくしゃの顔を、手拭で丁寧に拭い終えてから多江子が、母親に問い掛けた。
『どうだい、あんたの子に間違いはないかい?』
『は、はい・・!』
『大切に育てるんだよ、無下にしちゃいけないよ。折角あんたが、お腹を痛めて産んだんだからね、いいね?』
そう言って、母親に繋がっているへその緒を見せた。
白っぽい半透明の管は、まだ脈打ち続けていた。
『いいかい?、この管はね、もうすぐ枯れるんだよ。役目を果たしたからね。これを切ってからが、あんたの母親としての本当の役目が始まるんだよ』
説き伏せるように、多江子がにっこりとほほ笑んだ。そして、ゆっくりとへその緒にハサミを入れ、赤ん坊のお腹にさらしを巻いた。
まだ泣き止まない我が子を受け止めて、母親の涙は美しくも輝いていた。
『名前、もうついてるの?、慶子さん』
春代が母親の汗を拭いながら、期待を込めて聴いた。
『高志です。高い志を持つって、書きます』
『へえ・・。立派だこと。高志くん、お母さんを守ってあげてね。約束よ!』
春代の小指が、小さく握られた赤ん坊の小指を撫でた。
『おやおや、なんて気の早いこと。春ちゃん、まだ解かんないよそんな約束なんてさ』
『おばちゃん、人間ってね最初が肝心なの。こうやって種を蒔いておけば、必要な時に花はいつでも芽吹くのよ』
『あれまあ・・、詩人みたいだよ、この人・・』
『やだあ、そんな風に言わないでよお・・、おばちゃん』
談笑が繰り返される中、確かな新しい生命はすやすやと未来に向かって、母親の胸の中で小さく呼吸を繰り返していた。
本格的な冬の訪れが、東京の街を寒々と包み込んだ。
米軍の空襲は飽きもせず、その手を緩める事はなかった。じわじわと迫りくる恐怖と絶望が、各地で災いを巻き起こしていたのだ。
火事場泥棒が頻繁に横行された。空襲警報で留守になった家に忍び込んでは、食糧や衣類の類を持ち去ったのだ。
二次災害の混乱の中、ついに泥棒が姿を見せた。それは子供の仕業だった。
空襲で親を亡くした孤児の、仕方のない罪の様相に、それでも大人たちは容赦なく罵声を浴びせた。制裁を加えた。
人間の良心は次第に、家屋同様燃え尽きていった。
この国の破滅は、もはや時間の問題となっていた。次に準備されて行く米国の思惑は、確実にこの国の中枢を破壊する。甚大な被害をもたらす。そして莫大な数の犠牲者を出してしまうこととなるのだ。
昭和二十年三月十日、午前零時七分。深川地区に初弾が投下された。それ以降、三十二万発もの焼夷弾が、東京の大地に夥しく炸裂した。
十万人を超える死者を出した、“東京大空襲”により。焦土と化した街は、もはや立ち直れる状態ではなかった。
それでも飽き足らない米軍は、ついに悪魔の顔を曝け出した。
八月六日、午前八時十五分。広島市の中心に世界初の、“原子爆弾”が投下された。
十六万人ともされる死者が、後に確認された。
続く八月九日には九州長崎に、第二の原子爆弾を投下。すでに日本の敗戦は見えたかに思われた。
そして、運命の八月十五日、正午。玉音放送により、数多の国民が、突然の敗戦を知らされることとなる。
唖然と、地面に這いつくばる者や、茫然と天を仰ぐ者。或いは、隠れてほっと胸を撫で下ろす者。いずれにせよこの国の敗北は、遂に決定が下されたのだ。
余りに多くの犠牲者の、その無念と引き換えに、もう何処にも逃げ惑う必要も、なくなったのだ。
『終わったのね・・、やっと・・』
『ああ、終わった・・。情けねえけどよ、これでよかったんだよ。これ以上は無駄な戦だ。いや、元々、無駄な戦争だったんだよ・・』
春代と政男が、改めて敗戦の事実を語っていた。
『子供たちを迎えに行かねえとな、春さん』
『そうね・・、やっと会えるわ。元気にしてるかしら』
四郎と早苗は、春代の実家である長野の松本に疎開していた。
幸い、東京大空襲の前には足立を離れていたことから、凄まじい戦火を見ることはなかった。
『この地区は大したもんだよ、そんなに火の手が来なかったもんなあ・・』
『荒川のお陰でしょ?。対岸の地区なんて全滅らしいわ・・』
『次郎が還って来れる家が残ってて、安心だな、春さん』
『・・。そうね、安心・・。そう、安心したわ』
少し曇りがちの笑顔を見せた春代。次郎の帰還を願っているはずが、どうしても胸につかえてしまう不安が払しょく出来ないでいた。
『どうしたよ、いつもの春さんらしくねえぞ!。もっとほら、背筋伸ばして!』
“ドンッ”と、政男が春代の背中を強く叩いた。
『やだあ、痛いでしょお・・!。もーう』
『そう、その面が見たかったのさ!。その調子だよ!。いいねえ』
『変な人ね・・。やっぱり政さんって』
『やっぱりは余計だぜ、わっはっは!』
夕暮れ時のきれいな空には、雲の隙間から希望の光が漏れ出していた。
子供たちを東京に連れ戻した春代の生活は、相も変わらず忙しい日々を送っていた。
四郎と早苗のやんちゃぶりというと、前にも増して春代を振り回していたのだ。
やがて、人々の暮らしの中には、すでに空襲の心配はなくなっていた。しかし、あちらこちらで食糧不足の声があがっていた。
路上では、家を、親を失った子供たちで溢れ返っていた。
米進駐軍の介入した街かどでは、子供たちが物乞いに必死に群がっていた。
秩序を無視した大人たちも、闇市に乗じて様々な取引に躍起になった。痩せ細った民衆には、国の定めた粗末な配給量では足りるはずもない。
このままでは、国内のおよそ一千万人の餓死者を出してしまう。それほど貧窮を余儀なくされていたのだ。
そんな日本国民の窮状を救ったのは、アメリカと国連であった。日本の食糧難の実態を懸念したアメリカは、国連に救いを求めたのだ。その要請により、急遽、大量の食糧の輸入が認められた。これにより大量餓死という窮地を免れたのだ。
『すげえもんだな、アメリカっていう国はよ。俺も結構大きい方だけど、奴らもっとでけえんだ。何食ったらああなるんだよ』
『へえ、喰いもん意外に、おまえさんでも関心することがあるんだな』
『何言ってんですか、局長・・。俺だって人並みに出来てんですよ、人聞き悪いなあ・・』
『熊さん・・、ちょっといい?』
『ん?、何だい、姉さん』
政男に声を掛けた姉さんとは、局内で働く政男より少しだけ年上の、山口珠子のことだ。
『あのさあ・・、確か、早坂の家と親しかったわよね・・、熊さん』
『勿論よォ、昔っからの付き合いさ。それがどうしたよ・・?』
『さっきさ、役所の人がね・・、白箱持って、立ってたのよ。家の前でさ・・』
『白箱って・・、まさか!』
戦死を告げる、“死亡告知書”は、役所の者によって白箱と一緒に届けられた。
亡き者の骨は、決して入れられることはない。が・・、それを配慮しているのだろう。
『お、俺、行ってくるわ!』
『今は、やめときな・・!。熊よ・・、今は行かない方がいい・・』
慌てて飛び出そうとした政男を、局長の富田が呼び止めた。
『どうして・・!、なんで行っちゃあ駄目なんだよ!』
『行ってどうする・・、お前が慰めんのかよ・・。今更、可哀そうだって、言葉を掛けるのかよお!』
『放っておけないだろ!、親友の家族なんだぜえ・・!』
『ばかやろ・・。お前が居たんじゃ、泣けないだろが・・。立派な戦死だって胸を張って涙を堪えてるんだ・・、人が居たんじゃ泣けねえんだよ!』
富田の言葉はまったく的を得ていた。国の誉を何故、泣けようか。涙で汚せようか。
『どうすりゃいいんだよお・・。俺、何にも出来ないのかよォ・・』
『でけえ図体しやがって、泣くんじゃねえぞ!、ばかやろが・・』
終戦間もない、残暑厳しい九月の朝。弱々しくざわめく蝉しぐれの中、早坂家に届けられた、戦死の告知書。
平静を見せつけた春代は、感謝の言葉を添えて一礼をした。
『お暑いなか、御苦労さまです。お国のお役に立てたことは、我が家の誇りとします』
役所からの使いが去った後もしばらくは、春代はただ一人、次郎の思い出と一緒に、佇んでいた。
『次郎・・、お帰りなさい・・』
瞬きひとつ見せず、ただ告知書を握りしめたまま、静かに呪文を唱えるかのように、“お帰りなさい”を呟いていた。
早坂次郎。二十一歳という、余りに短い生涯であった。