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蝉しぐれ  作者: GUN
9/23

第9話 次郎の死亡告知書

年が明けた昭和二十年一月。早々に新しい命が誕生を控えていた。


『春ちゃん、お湯、準備して!、早く』

『はい、今持ってくるから。少し待って、おばちゃん』

『雪ちゃん、ぼやぼやしてないでさ!、手拭い集めてよ、ほら、そこんとこ、積んであるだろ!』

『落ち着いてよ、おばちゃん。一人でやっきになってもさ、当の慶子ちゃんが、落ち着かないでしょ?』

『何言ってんの、これがあたしのいつもの調子じゃないか!。いいかい、流れが大切なんだよ。留めちゃだめだよ、ほら、いくよ!』

威勢のいい多江子の声は、この後の慶びを、一挙に引き受けていた。


『はい!、大きく息を吐いて!。もっと、もっとだよ!』

繰り返し多江子の声が、初産の母親の下腹部に響いた。

その瞬間、家中に誰のものともない、大きな安堵の声が散らばった。

『おぎゃあっっ・・!、んっっ・・、ぎゃあーっ・・』

多江子の手の中には、真っ赤に、それは怒っているかのような、元気な男児が持ちあげられていた。

『ふーっ、良い子だね・・、元気な声をありがとうよ・・』

そう言って、生まれたてのくしゃくしゃの顔を、手拭で丁寧に拭い終えてから多江子が、母親に問い掛けた。

『どうだい、あんたの子に間違いはないかい?』

『は、はい・・!』

『大切に育てるんだよ、無下にしちゃいけないよ。折角あんたが、お腹を痛めて産んだんだからね、いいね?』

そう言って、母親に繋がっているへその緒を見せた。

白っぽい半透明の管は、まだ脈打ち続けていた。


『いいかい?、この管はね、もうすぐ枯れるんだよ。役目を果たしたからね。これを切ってからが、あんたの母親としての本当の役目が始まるんだよ』

説き伏せるように、多江子がにっこりとほほ笑んだ。そして、ゆっくりとへその緒にハサミを入れ、赤ん坊のお腹にさらしを巻いた。

まだ泣き止まない我が子を受け止めて、母親の涙は美しくも輝いていた。


『名前、もうついてるの?、慶子さん』

春代が母親の汗を拭いながら、期待を込めて聴いた。

『高志です。高い志を持つって、書きます』

『へえ・・。立派だこと。高志くん、お母さんを守ってあげてね。約束よ!』

春代の小指が、小さく握られた赤ん坊の小指を撫でた。

『おやおや、なんて気の早いこと。春ちゃん、まだ解かんないよそんな約束なんてさ』

『おばちゃん、人間ってね最初が肝心なの。こうやって種を蒔いておけば、必要な時に花はいつでも芽吹くのよ』

『あれまあ・・、詩人みたいだよ、この人・・』

『やだあ、そんな風に言わないでよお・・、おばちゃん』

談笑が繰り返される中、確かな新しい生命はすやすやと未来に向かって、母親の胸の中で小さく呼吸を繰り返していた。


本格的な冬の訪れが、東京の街を寒々と包み込んだ。

米軍の空襲は飽きもせず、その手を緩める事はなかった。じわじわと迫りくる恐怖と絶望が、各地で災いを巻き起こしていたのだ。

火事場泥棒が頻繁に横行された。空襲警報で留守になった家に忍び込んでは、食糧や衣類の類を持ち去ったのだ。

二次災害の混乱の中、ついに泥棒が姿を見せた。それは子供の仕業だった。

空襲で親を亡くした孤児の、仕方のない罪の様相に、それでも大人たちは容赦なく罵声を浴びせた。制裁を加えた。

人間の良心は次第に、家屋同様燃え尽きていった。


この国の破滅は、もはや時間の問題となっていた。次に準備されて行く米国の思惑は、確実にこの国の中枢を破壊する。甚大な被害をもたらす。そして莫大な数の犠牲者を出してしまうこととなるのだ。


昭和二十年三月十日、午前零時七分。深川地区に初弾が投下された。それ以降、三十二万発もの焼夷弾が、東京の大地に夥しく炸裂した。

十万人を超える死者を出した、“東京大空襲”により。焦土と化した街は、もはや立ち直れる状態ではなかった。

それでも飽き足らない米軍は、ついに悪魔の顔を曝け出した。

八月六日、午前八時十五分。広島市の中心に世界初の、“原子爆弾”が投下された。

十六万人ともされる死者が、後に確認された。

続く八月九日には九州長崎に、第二の原子爆弾を投下。すでに日本の敗戦は見えたかに思われた。


そして、運命の八月十五日、正午。玉音放送により、数多の国民が、突然の敗戦を知らされることとなる。

唖然と、地面に這いつくばる者や、茫然と天を仰ぐ者。或いは、隠れてほっと胸を撫で下ろす者。いずれにせよこの国の敗北は、遂に決定が下されたのだ。


余りに多くの犠牲者の、その無念と引き換えに、もう何処にも逃げ惑う必要も、なくなったのだ。


『終わったのね・・、やっと・・』

『ああ、終わった・・。情けねえけどよ、これでよかったんだよ。これ以上は無駄な戦だ。いや、元々、無駄な戦争だったんだよ・・』

春代と政男が、改めて敗戦の事実を語っていた。

『子供たちを迎えに行かねえとな、春さん』

『そうね・・、やっと会えるわ。元気にしてるかしら』

四郎と早苗は、春代の実家である長野の松本に疎開していた。

幸い、東京大空襲の前には足立を離れていたことから、凄まじい戦火を見ることはなかった。


『この地区は大したもんだよ、そんなに火の手が来なかったもんなあ・・』

『荒川のお陰でしょ?。対岸の地区なんて全滅らしいわ・・』

『次郎が還って来れる家が残ってて、安心だな、春さん』

『・・。そうね、安心・・。そう、安心したわ』

少し曇りがちの笑顔を見せた春代。次郎の帰還を願っているはずが、どうしても胸につかえてしまう不安が払しょく出来ないでいた。

『どうしたよ、いつもの春さんらしくねえぞ!。もっとほら、背筋伸ばして!』

“ドンッ”と、政男が春代の背中を強く叩いた。

『やだあ、痛いでしょお・・!。もーう』

『そう、その面が見たかったのさ!。その調子だよ!。いいねえ』

『変な人ね・・。やっぱり政さんって』

『やっぱりは余計だぜ、わっはっは!』

夕暮れ時のきれいな空には、雲の隙間から希望の光が漏れ出していた。



子供たちを東京に連れ戻した春代の生活は、相も変わらず忙しい日々を送っていた。

四郎と早苗のやんちゃぶりというと、前にも増して春代を振り回していたのだ。

やがて、人々の暮らしの中には、すでに空襲の心配はなくなっていた。しかし、あちらこちらで食糧不足の声があがっていた。

路上では、家を、親を失った子供たちで溢れ返っていた。

米進駐軍の介入した街かどでは、子供たちが物乞いに必死に群がっていた。

秩序を無視した大人たちも、闇市に乗じて様々な取引に躍起になった。痩せ細った民衆には、国の定めた粗末な配給量では足りるはずもない。

このままでは、国内のおよそ一千万人の餓死者を出してしまう。それほど貧窮を余儀なくされていたのだ。


そんな日本国民の窮状を救ったのは、アメリカと国連であった。日本の食糧難の実態を懸念したアメリカは、国連に救いを求めたのだ。その要請により、急遽、大量の食糧の輸入が認められた。これにより大量餓死という窮地を免れたのだ。


『すげえもんだな、アメリカっていう国はよ。俺も結構大きい方だけど、奴らもっとでけえんだ。何食ったらああなるんだよ』

『へえ、喰いもん意外に、おまえさんでも関心することがあるんだな』

『何言ってんですか、局長・・。俺だって人並みに出来てんですよ、人聞き悪いなあ・・』

『熊さん・・、ちょっといい?』

『ん?、何だい、姉さん』

政男に声を掛けた姉さんとは、局内で働く政男より少しだけ年上の、山口珠子のことだ。


『あのさあ・・、確か、早坂の家と親しかったわよね・・、熊さん』

『勿論よォ、昔っからの付き合いさ。それがどうしたよ・・?』

『さっきさ、役所の人がね・・、白箱持って、立ってたのよ。家の前でさ・・』

『白箱って・・、まさか!』

戦死を告げる、“死亡告知書”は、役所の者によって白箱と一緒に届けられた。

亡き者の骨は、決して入れられることはない。が・・、それを配慮しているのだろう。


『お、俺、行ってくるわ!』

『今は、やめときな・・!。熊よ・・、今は行かない方がいい・・』

慌てて飛び出そうとした政男を、局長の富田が呼び止めた。


『どうして・・!、なんで行っちゃあ駄目なんだよ!』

『行ってどうする・・、お前が慰めんのかよ・・。今更、可哀そうだって、言葉を掛けるのかよお!』

『放っておけないだろ!、親友の家族なんだぜえ・・!』

『ばかやろ・・。お前が居たんじゃ、泣けないだろが・・。立派な戦死だって胸を張って涙を堪えてるんだ・・、人が居たんじゃ泣けねえんだよ!』

富田の言葉はまったく的を得ていた。国の誉を何故、泣けようか。涙で汚せようか。


『どうすりゃいいんだよお・・。俺、何にも出来ないのかよォ・・』

『でけえ図体しやがって、泣くんじゃねえぞ!、ばかやろが・・』

終戦間もない、残暑厳しい九月の朝。弱々しくざわめく蝉しぐれの中、早坂家に届けられた、戦死の告知書。

平静を見せつけた春代は、感謝の言葉を添えて一礼をした。


『お暑いなか、御苦労さまです。お国のお役に立てたことは、我が家の誇りとします』

役所からの使いが去った後もしばらくは、春代はただ一人、次郎の思い出と一緒に、佇んでいた。


『次郎・・、お帰りなさい・・』


瞬きひとつ見せず、ただ告知書を握りしめたまま、静かに呪文を唱えるかのように、“お帰りなさい”を呟いていた。


早坂次郎。二十一歳という、余りに短い生涯であった。

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